ムスタファ=ケマル/ケマル=パシャ/ケマル=アタテュルク
トルコ革命を指導し、トルコ共和国の初代大統領となった。トルコを世俗的な近代国家とすることに務めた。
ムスタファ=ケマル
1881-1938
本名はムスタファ=ケマル(1881~1938)。トルコ共和国の初代大統領。ムスタファ=ケマルは本名で、通称をケマル=パシャ(パシャとは、文武の高官に与えられる称号)とも言われ、後にアタテュルク (「トルコ人の父」の意味)の姓を贈られた。1905年、日露戦争での日本の勝利などに刺激されて、オスマン帝国の改革運動である青年トルコ革命に参加した。しかしその中心人物エンヴェル=パシャとは生涯友好的ではなかった。軍人として活躍を続け、トリポリでのイタリア=トルコ戦争、数度にわたるバルカン戦争に従軍した。
アタテュルク (トルコ人の父)の姓を贈られた。
第一次世界大戦
青年トルコ政権のもとでオスマン帝国が第一次世界大戦に参戦し、ドイツ・オーストリアの同盟国側の一員として戦うことになると、ムスタファ=ケマルは前線に出て戦い、1915年4月のガリポリの戦いではイギリス軍とANZAC(オーストラリア・ニュージーランド連合軍)の上陸を阻止し、名声を上げた。その後、西アジア戦線でイギリスに支援されたアラブ軍との戦闘に専念した。しかし、大戦の形勢は次第に不利となり、1918年11月に同盟国軍は敗北した。トルコ革命を指導
敗戦後、オスマン帝国政府が連合国との間に領土分割その他の屈辱的なセーヴル条約を結ぶと国民的な抵抗運動が起った。ケマルはその指導者となり、1919年5月にイズミル(スミルナ)侵攻を企てたギリシア軍と戦った(1919~22年、ギリシア=トルコ戦争)。1920年トルコ国民党を率いてアンカラにトルコ大国民議会を召集、イスタンブルのスルタン政府と絶縁して新政権を樹立した。1921年8月、サカリャ川の戦いでギリシア軍を大破して、国民軍最高司令官としてガージーの称号を得た。1922年9月にはギリシア軍は撤退し、イズミルの奪回に成功した。ギリシアとの講和後、同年にスルタン制を廃止し、連合国とはセーヴル条約を破棄し、改めてローザンヌ条約を締結してアナトリアの領土を回復し、独立と治外法権の撤廃を認めさせた。トルコ共和国大統領
1923年10月29日にトルコ共和国の成立を宣言し、共和人民党(トルコ国民党)を率いて初代大統領に選出された。翌年憲法を発布し、カリフ制を廃止して政教分離を実現、トルコの世俗主義化につとめた。ケマル=パシャによる一連の改革をトルコ革命といい、これによってトルコは近代国家として自立し、1934年、Episode ガリポリの戦いでのケマルの指揮
このときケマルは兵士に対し、「自分は諸君に対し攻撃は命じぬ。死を命じる!」といって兵士を鼓舞したという。<ホサム『トルコ人』みすず書房 p.35>