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ヒラーファト運動/カリフ擁護運動

オスマン帝国(トルコ)のカリフ及びカリフ制を守るべきであるという、インドのムスリム(イスラーム教徒)の運動.1919年からインドで高揚しガンディーも同調し、反英闘争と結びついた。

 ヒラーファト Khilafat とは、「カリフの地位」という意味。キラーファットとも表記する。イスラーム教の至上の指導者であるカリフの地位を守れ、という運動であったのでカリフ擁護運動ともいう。
 オスマン帝国では政治上の権力者であるスルタンがイスラーム教(スンナ派)の最高指導者であるカリフ(ムハンマドの後継者とされる)を兼ねるスルタン=カリフ制がとられていたが、第一次世界大戦後で敗戦国となるとセーヴル条約で広大な領土を失い、また国内にも近代化を目指す改革運動が強まり、カリフの地位は危機に陥った。

インドでカリフ擁護運動起こる

 インドのイスラーム教徒は、カリフの地位を脅かしているのはイギリスであると捉え、1919年11月に全インド・ヒラーファト会議を開催し、カリフ制擁護をかかげて反英闘争を開始した。ヒラーファト運動に、ヒンドゥー教徒であるガンディーは議長を務め、彼の率いる国民会議派が同じ反英の立場で協力し、第1次非暴力・不服従運動を一歩進めて、非協力運動を展開することを提唱した。、1920年代初めのインド反英運動の一つのテコとなった。
 1906年にイギリスの後援でインドのイスラーム教徒を組織した全インド=ムスリム連盟は、当初は親英色が強く、国民会議派と共同歩調をとることはなかったが、1911年12月にイギリスがイスラーム教徒に都合の良かったベンガル分割令を撤回したこと、さらに第一次世界大戦でイギリスがイスラーム教徒の信仰の象徴であるカリフを奉じているオスマン帝国を敵国としたことでイギリスへの不信を強めていた。

ヒンドゥーとムスリムの協調成立と衰退

 ムスリムの中からカリフを擁護する運動が起きると、ガンディーはイスラーム教徒との共闘を実現する機会と捉え、自らヒラーファト大会に参加し、宗教の対立を超えてインドの自治の実現を要求するための非協力運動を訴えたのだった。全インド=ムスリム連盟の議長であったジンナーも共闘に同意し、ヒラーファト運動はインド人をヒンドゥー教・イスラーム教の違いを超えて、イギリスからの独立という共通目的で結束させようとしたガンディーの指導のもとで盛り上がった。
 しかし、カリフ擁護の運動は、ムスタファ=ケマルによるトルコ革命が進行し、1922年にスルタン制が廃止されてオスマン帝国が滅亡し、さらに1924年ににはカリフ制も廃止となると意味を無くし、消滅した。
 カリフ擁護という目的で協調が成立したヒンドゥー教徒とイスラーム教徒は、再び分裂した運動へと後退し、反英運動の手法や展望での主張の違いから、コミュナリズム(インドの宗教対立)が再び深刻になっていく。

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