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南アフリカ連邦

ケープ植民地を中心に、南アフリカ戦争でイギリスが獲得した地域を含めて1910年に発足し、自治国となる。1961年に白人政府が南アフリカ共和国とすることを宣言。

 イギリスは18世紀70年代から、帝国主義政策を強め、エジプトのカイロと、ケープ植民地のケープタウンを結ぶアフリカ縦断政策をとった。これによって列強によるアフリカ分割がさらに進行した。
 イギリスはケープ植民地の北東につくられたオランダ系白人であるブール人の建てたナタール共和国を1842年に併合し、さらにトランスヴァール共和国オレンジ自由国への攻勢を強め、南アフリカ戦争(ブール戦争 1899~1902年)でこの二国も征服した。

南アフリカ連邦の成立

 イギリスはこれらの植民地を統合して、1910年にイギリス帝国の中の自治領としてケープ植民地・ナタール・トランスヴァール・オレンジの4州からなる南アフリカ連邦を独立させた。南アフリカ連邦はイギリス自治領で組織するイギリス帝国会議の構成国となった。首都はプレトリア。
 1931年にはイギリスのウェストミンスター憲章で、本国イギリスと対等な関係でイギリス連邦の一員となった。
南ア連邦国旗 南ア連邦国旗(1928~1994)
南アフリカ連邦の国旗  4つの国の国旗を合体させためずらしい国旗だった。旗地のオレンジ、白、青の三色は最初に入植したオランダ人(ブール人)の故国オランダの旗(現在のオランダ国旗は、オレンジは赤に変更になっている)。中央に配されているのが、左からイギリス領ケープ植民地とナタールで使われていたイギリス国旗(ユニオン=ジャック)・オレンジ自由国・トランスヴァールの国旗である。オレンジ自由国とトランスヴァールもオランダ人が建国したのでオランダの三色が用いられている。1910年に成立したイギリス自治領としての南アフリカ連邦でははじめはユニオンジャックが使われていたが、1928年にイギリス系とオランダ系の融和を図るため、このような国旗が作られた。この国旗は南アフリカ共和国でも国旗とされ、1994年にマンデラ大統領就任の年に現行の国旗に変更された。

アパルトヘイト問題

 南アフリカ連邦はイギリス連邦の一員であったが、白人支配層の多くはブール人(アフリカーナー)といわれるオランダ系であった。同時に本来の住民である多数の黒人が存在していた。白人支配層はかつて黒人の土地を奪い、農園を広げ、黒人を奴隷として使役していた人々の子孫であったので、抜きがたい差別意識を持っていた。黒人差別政策はケープ植民地時代に遡るが、特に第二次世界大戦後、アフリカ各地で黒人国家が独立していくことに恐怖感を抱いた白人支配層が、徹底した黒人抑圧策を採った。
 そこで採られたのが、徹底した人種隔離政策であった。あらゆる社会生活の中で、白人と黒人(アフリカ人)を接触させないように分離する政策であり、それはオランダ系の現地語(アフリカーンス語)でアパルトヘイトといわれた。アパルトヘイトという言葉が使われるのは第二次世界大戦後の1948年からであるが、その前提となる人種隔離政策は建国直後の1910年代から始まっており、様々な面で黒人は隔離され、また参政権その他の人権を奪われることとなった。その前提はオランダ系白人が黒人を劣等人種とみる人種間があったが、同時にそれに対する黒人の平等と権利を求める運動に対する恐怖心もあった。
 それに対する黒人=アフリカ人の抵抗も早くから始まっている。1912年にはそのような差別と闘う組織としてアフリカ民族会議(ANC)が生まれており、戦後の激しい弾圧にもかかわらずに活動を続けていく。

南アフリカ共和国

1961年、南アフリカの白人政府がイギリス連邦からの離脱を一方的に宣言して成立。黒人差別政策であるアパルトヘイトを継続していたが、黒人の運動と国際世論に押され、1991年に差別を撤廃、94年にマンデラが黒人として大統領に当選した。

南アフリカ共和国 GoogleMap

南アフリカ共和国の宣言

 アパルトヘイト(人種隔離政策)は、非人道的な差別政策として、国内の反対運動だけでなく、国際的な批判を受け、本国イギリスも圧力を加えるようになった。そのため、1961年には南アフリカのアフリカーナー系白人からなる政府は、イギリス連邦から離脱して南アフリカ共和国とすることを一方的に宣言した。
 1960年は、アフリカの黒人が白人の植民地支配から脱して次々と独立を達成、アフリカの年といわれていた。またアメリカ合衆国においても黒人差別の撤廃を求める公民権運動が激しさを増していた。南アフリカの白人政権はこのような動きに危機感を強めながら、イギリス連邦からの分離とアパルトヘイトの更なる強化の道を選んだ。
モザンビーク、アンゴラへの介入 61年に成立した南アフリカ共和国の白人政権は、アパルトヘイトをつづけながら、国内の黒人運動抑圧に神経をとがらせるようになった。1975年に隣接するモザンビークアンゴラがそれぞれポルトガルから独立すると、南ア共和国の白人政権は両国に介入して黒人政権の転覆を謀り、白人傭兵を派遣して反政府勢力を支援した。国内におけるアパルトヘイトと、国外におけるモザンビーク、アンゴラへの軍事介入は国際社会から厳しく非難されるようになった。

アパルトヘイトの推進

 白人政府は「バンツー自治促進法」により、黒人をバンツー人と呼び方を変え、自治権を与えるという名目で、アフリカ人を「民族単位」に分類して辺境地の「バンツーランド」に閉じ込めるという人種隔離政策を推し進めた。ヨハネスブルクでもそれまでのアフリカ人居住地区の住居は破壊され、南方の郊外にソウェトという新たな居住区が設けられて、強制定期に移住させられた。
マンデラの抵抗運動 このようなアパルトヘイトの徹底策に対し、アフリカ民族会議(ANC)のマンデラらはそれまでの穏健な非暴力抵抗運動の限界を感じ、武装闘争に方針を転換、各地で政府機関を襲撃するなど実力行動に出るようになった。警戒した政府は62年、マンデラを逮捕した。マンデラはその後、1990年まで獄中生活を送ることとなる。
ソウェト暴動 この間、1976年には、アフリカ人居住区ソウェトで暴動が起こり、約600人が殺害されるなどの悲劇が続き、アパルトヘイトの人権抑圧をつづける南ア政府に対する国際的非難が高まり、多くの国が国交断絶、経済制裁に踏み切った。そのため南ア経済は大きな打撃を受け、労働組合のストライキ、学生のストライキなどが続き、白人政府の孤立は明白になってきた。そのような中、ケープタウンのイギリス聖公会の黒人大主教デズモンド=ツツがアパルトヘイトを公然と否定し、政府を批判、経済界も生産の停滞の打開を政府に求めるようになった。
ツツ大主教 1980年の南アフリカでアパルトヘイト反対の声を上げたツツ大主教は、イギリスに本拠をもつ聖公会の聖職者であり、黒人として初めてレソトの主教となった。彼は聖職者という立場にありながら、民族差別だけでなく社会の不平等にも批判の目を向け、社会主義にも理解を示した。1978年から南アフリカ教会協議会の事務総長となり、1980年頃から南ア政府のアパルトヘイトを公然と批判し、イギリスやアメリカにも招かれて国際的な名声を得た。獄中にあったマンデラの解放を強く求め、アパルトヘイトはにわかに世界中の人権問題と認識されるようになった。この時期は獄中のマンデラに代わり、ツツが反アパルトヘイト闘争の象徴となり、1984年にノーベル賞を受賞した。1986年にはケープタウン大主教に任命され、南アのキリスト教で最高の地位につき、その後90年代には運動の指導はマンデラが担い、ツツはその精神的支柱としてながく運動を支えた。2021年12月26日に亡くなり、南ア共和国の国葬で送られた。

アパルトヘイト廃止

 白人政府の大統領ボタは1985年、ようやく獄中のマンデラと会談、マンデラも話し合いに応じる姿勢を見せ、大開に向けての協議の端緒についた。1988年にはアンゴラに介入していた南ア軍がアンゴラとキューバ連合軍に敗れたことにより、政府の権威は大きく動揺した。ボタ大統領が病死したあと、白人政府の大統領となったデクラークは、一挙に事態の打開に乗りだし、1990年にマンデラを釈放、アパルトヘイト放棄を約束し、翌1991年2月1日に関連する三法規が撤廃されてアパルトヘイトは法的にも終わった。
 釈放されたマンデラを中心に、各政党が憲法制定の話し合いに入った。1993年にはアパルトヘイト廃止を実現させたことによって、デクラークとマンデラは共にノーベル平和賞を受賞した。アパルトヘイト関連法案の廃止後の政権をどうするか、慎重な話し合いが行われた結果、1994年には全人種参加の選挙が実施され、その結果黒人のアフリカ民族会議議長マンデラが大統領となった。同年、アパルトヘイト廃止に伴い、イギリス連邦に復帰した。
 こうして、オランダ人がケープ植民地に入植した1652年から数えれば約340年続いた白人支配、アパルトヘイトの始まりを1948年とすれば44年続いた人種隔離政策が終わりを告げた。

参考 1994年4月 南アフリカ共和国

 1994年4月26日、アパルトヘイトが廃棄された南アフリカ共和国で初めての総選挙が始まった。この歴史的な選挙は次のように行われた。
(引用)  投票は4月26日の火曜日に始まった。この日は特別投票日であり、妊娠した女性、入院患者、障害者、老人、年金生活者、囚人、警察官と兵士、そして海外在住の南アフリカ人が投票所に足を運んだ。二日前の日曜日には、南アフリカ最大の商工業都市ジョハネスバークの中心街で、白人右翼が自動車に仕掛けた爆弾が炸裂し、九人の市民が犠牲になったばかりである。その後も、投票所に爆弾を置いたという脅迫電話が各地で鳴り響いた。しかし、人々は夜明け前から、投票所の前に行列をつくりはじめた。・・・
 一般向けの投票日は、翌27日と28日だった。27日の午前零時、南アフリカ全土のと役場や裁判所などで古い国旗が降ろされ、色鮮やかな新国旗が掲揚されるという儀式が行われた。この日の早朝、大多数の南アフリカ人は、早々と身づくろいを済ませ、家を出ることになる。投票開始は午前7時。全国9000ヶ所の投票所の多くで、すでに長蛇の列ができていた。照りつける太陽、局地的な大雨や強風にもかかわらず、人々は自分の順番を辛抱強く待ち続けた。国会(憲法制定議会)用と州議会用に二種類準備された投票用紙には、読み書きができない人々のために、各党の名前だけでなく、それぞれのシンボルマークや党首の顔写真も印刷されていた。投票者は支持政党の欄に×印を記入すればよい。・・・
 選挙期間中、予想されたような大規模な政治暴力事件は発生しなかった。それどころか、強盗などの一般犯罪も影を潜めた。そんかことができる雰囲気ではない。投票所を囲んで人々が数キロの列をつくり、5時間も6時間も順番を待つという光景が、あちこちで見られた。この忍耐強さに、国外の報道関係者や選挙監視要員は驚きを隠さなかったが、いちばん驚いていたのは南アフリカ人自身だったかもしれない。白人家族と黒人使用人が肩を並べて投票を待ちながら、これまでにない親密な会話を交わすことも珍しくなかった。歴史的瞬間に一人一人が参加しているという緊張感と喜び、そして厳粛な祝祭の雰囲気が、南アフリカ全土を支配していたのである。<峯陽一『南アフリカ 「虹の国」への歩み』1996 岩波新書 p.4-5>
 国会議員選挙は比例代表制でアフリカ民族会議(ANC、マンデラが党首)が62.7%、国民党(NP、白人のデクラーク党首)が20.4%、インタカ自由党(IFP)が10.5%などに基づいて議員数が配分され、それによってANCのマンデラが初代大統領に就任することになった。前大統領のデクラークは副大統領に就任、この布陣は黒人と白人の融和の象徴となった。

現在の南ア共和国


南ア共和国国旗
1994年
 1994年、マンデラが大統領に選出されたことによって南アフリカ共和国のアパルトヘイトは完全に消滅した。その歴史的転換を示すために国旗が新たに制定された。従来の南ア連邦以来のオランダ、イギリスという植民地宗主国の要素を一掃し、マンデラが提唱した「虹の国」にちなんでレインボーフラッグといわれる6色から構成されている。
 南アフリカ共和国は人口5500万、面積121万平方㎞。言語はアフリカーンス語、英語、ズールー語など11に上る。人種的には黒人(バントゥー系)が約79%、白人とカラード(黒人と白人の混血)が共に約9%、アジア系が約3%。行政上の首都はプレトリアだが、立法府はケープタウン、司法はブルームフォンテイン。経済の中心は人口の最大の都市ヨハネスバーグ(英語読みではジョハネスバーグ)。

人種の融和と格差の解消

 マンデラ大統領は、アパルトヘイト廃止後の民族融和、社会的格差の解消などの大きな課題に取り組むことになった。同じアフリカ人の中にも部族的対立や経済的格差など多くの問題が存在しており、白人右派勢力の復活を抑えなければならないという難しい舵取りを必要とした。
 民族の融和という点では、マンデラが自ら動いて1995年にラグビーワールドカップの南アフリカ大会を実現させ、白人にも受け容れられて成功し、順調にいっているとみられている。しかし高齢となったためもあって、1999年に引退し、後任には同じANCのムベキが選出された。その後も2010年にはサッカーワールドカップが南アフリカで開催され、マンデラも閉会式に出席するなど、南アフリカの民族融和の象徴として重要な役割を果たしていたが、2013年12月5日に死去した。
 南アフリカ共和国はマンデラの卓越した指導力で、民族対立という最大の問題を克服したと言うことができるが、その経済政策では、格差の解消は進んでおらず、まだまだ不安定な状況が続いている。

デクラーク もう一人のノーベル平和賞受賞者

 1994年、全人種参加の選挙が実施され、その結果マンデラが大統領となったとき、副大統領に就任したのが白人のデクラークだった。フレデリック=デクラークは1936年、ヨハネスブルクのアフリカーナー(オランダ系移民の子孫)で、弁護士などを経て72年に下院議員に当選、白人政権下の鉱山相や内務相などを務め、1989年に大統領となった。1980年代後半から黒人のアパルトヘイト反対運動の盛り上がりを受け、1990年にアフリカ民族会議(ANC)を合法化し、27年にわたって獄中にあったマンデラを釈放した。ついに1991年にアパルトヘイトを廃止したが、それは国際的に孤立し、経済崩壊に瀕していた南アフリカ共和国を救う唯一の道であった。デクラークはもう一つ、重要な判断をしている。それは南アが極秘に進めていた核兵器の開発を止めたことであった。核兵器を保有することはむしろ南アの足手まといになる、という判断だった。これらの大胆な転換は国際的に高く評価され、1993年にマンデラとともにノーベル平和賞を受賞したのだった。
 1994年、マンデラが黒人として大統領に選出され、最後の白人大統領であったデクラークは副大統領となった。しかし、白人の中では「黒人に妥協しすぎた」と批判する右派と、黒人層をもっと取り込むべきだというリベラル派に挟まれ、からずしも評価は高くはなく、求心力は衰え、97年に政界を引退した。それはアパルトヘイト廃止後の南アフリカが経済的低迷とともに、白人と黒人の格差(2020年の失業率は白人が8.8%、黒人が36.5%だった)が依然として大きいことなどの問題を抱えていることを反映している。南アの苦悩が続いている2021年11月11日、デクラークは西部ケープタウンの自宅で85歳の生涯を閉じた。<朝日新聞 2021/11/12朝刊 記事により構成>
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書籍案内

宮本正興・松田素二編
『新書アフリカ史・改訂新版』
2018 講談社現代新書

峯陽一
『南アフリカ 「虹の国」への歩み』
1996 岩波新書