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非暴力・不服従/サティヤーグラハ

ガンディーの提唱したイギリス植民地支配への抵抗手段。非暴力・不服従の理念をガンディーは「真理の把持」を意味するサティヤーグラハと呼んだ。イギリス官憲の暴力、宗教対立、外国軍の侵入など多くの試練があったがガンティーは一貫してこの理念を追求した。

 ガンディーサティヤーグラハ(真理の把持)の思想にもとづく、イギリス植民地支配に対するインド民衆の抵抗手段。非暴力は、暴力的な手段に訴えずに、愛によって敵を説得するという、ヒンドゥー教の古典『バガヴァッド=ギーター』などから続く伝統的な不殺生(アヒンサー)に基づく思想である。また不服従とは、不当な権力に対して、その命令や法令に従わず、納税を拒否し、公職を辞任するなどの手段を通じて戦うことである。
 ガンディーは1888年、ロンドンに渡り、苦学して弁護士資格を取り、1893年から南アフリカで活動、厳しい人種差別に直面し、人種差別解消の運動を開始した。その過程で運動の指針としてインド固有のヒンドゥー教の精神に学び、1907年に『ヒンドゥ=スワラージ』(インドの自治)を発表、大きな反響を呼んだ。その理念に基づいた運動は、ガンディーが名付けた用語によってサティヤーグラハ運動とも呼ばれた。ガンディーの運動はイギリス当局による弾圧を受けながら、次第に明確なインド独立運動の指針となっていくが、幾度かの挫折と再建を経過しており、大きく分けると、1919年~22年の第1次非暴力・不服従運動と、1930年から34年の第2次非暴力・不服従運動の二つの時期を山場として展開された。

非暴力の思想

(引用)ガンディーの言う非暴力とは、一般に考えられているような、敵の権力の前に諸手をあげて不平・不満を陳情するだけの消極的戦術ではない。彼が“サティヤーグラハ”という独自な用語を用いたのも、実はそうした消極的・受動的抵抗と、積極的・非暴力的抵抗とを明確に区別したかったからである。それは、愛と自己犠牲によって、相手の良心に訴え、相手の鉾先を鈍らせる方法であり、血なまぐさい武器の使用を伴う運動よりはるかに積極的で、有効な武器である。この方式による南アフリカでの勝利は、インド本国における来るべき闘争への貴重な“実験”となった。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.107-108>

非暴力主義の試練

 非暴力主義は南アフリカで弁護士をしていたガンディーが、その地でのインド人に対する人種差別と戦う中で編み出されたもので、その後のインド民族運動においても、ヒンドゥーとイスラームという宗教の違いを超えてインド人に受け入れられ、しかし、イギリス側の暴力に対して非暴力を貫くのは困難であり、1919年のローラット法反対運動では一部暴徒化したインド民衆がイギリスの警官によって多数虐殺されるというアムリットサール事件が起き、ガンディーは非暴力を徹底できなかったことを「ヒマラヤの誤算」と称した。翌20年からの第1次非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ運動)ではガンディーの呼びかけは国民会議派によってさらに徹底して守られ、運動が展開されたが、22年に農村での暴力事件が起き、ガンディーは再びその責任をとって運動を中止した。その後、1930年からの第2次非暴力・不服従運動では非暴力と共に、塩税を納付しないという不服従の姿勢をみずから「塩の行進」で示して、イギリスに自治の承認を迫った。しかし、イギリス国内にはインドを手放すべきではないという世論が強く、歴代内閣もインドの独立承認どころか、自治の付与さえも踏み切れなかった。

日本軍の侵略に対して

 第二次世界大戦が始まり、さらに日本軍がインドへの侵攻をめざす姿勢を示すようになると、国民会議派の中にも非暴力主義に限界を感じる勢力が強まり、チャンドラ=ボースなどのように日本軍に協力してイギリスと戦うために脱退する者も現れた。一方ではファシズムとの戦いを続けるイギリスに対しては協力すべきであると考えも強く、難しい選択に迫られた。ガンディーは戦争に対しても一貫して非暴力の姿勢を貫ぬき、独立を認めようとしないイギリスに対しては、「インドを立ち去れ」運動を開始し、またまた逮捕された。そのガンディーが、中国から東南アジアへ、その侵略の手を伸ばそうとしていた日本に対して呼びかけた文「すべての日本人へ」(1942年7月18日)がある。
(引用) 最初にわたしは、あなたがた日本人に悪意をもっているわけではありませんが、あなたがたが中国に加えている攻撃を極度にきらっていることを、はっきり申し上げておかなければなりません。あなたがたは、崇高な高みから帝国主義的な野望にまで墜してしまわれたのです。あなた方はその野心の実現に失敗し、ただアジア解体の張本人になり果てるかもしれません。かくして、知らず知らずのうちに、あなたがたは世界連邦と兄弟愛――それらなくしては、人類に希望はありえないのですが――を妨げることになるでしょう。・・・世界の列強と肩を並べたいというのは、あなたがたのりっぱな野望でありました。けれども、あなたがたの中国に対する侵略や枢軸国との同盟は、たしかに、そうした野心の不当な逸脱だったのです。・・・
 インドから英国勢力の撤退を要求する私たちの運動を、どんなことがあっても誤解してもらってはなりません。実際、伝えられるとおり、あなたがたがインドの独立を熱望していられることを信じてよければ、イギリスがインドの独立を承認した場合、あなた方はインド攻撃の口実を失うはずです。さらに、伝えられるところのあなたがたの宣言(1941年12月8日の米英に対する宣戦布告)は、あなたがたの無慈悲な中国侵略と矛盾しています。
 あなたがたが、もしインドからよろこばしい歓迎を受けるだろうと信じていられるなら、幻滅の悲哀を感じることになるという事実について、思い違いのないようお願いしておきましょう。イギリスの撤退を要求する運動の目的と狙いは、インドを自由にすることによって、イギリス帝国主義であろうと、ドイツのナチズムであろうと、あるいはあなたがた日本の型のものであろうと、いっさいの軍国主義・帝国主義的的野心に抵抗する準備をインドがととのえることにあります。・・・<ガンディー/森本達雄訳『わたしの非暴力』2 1971 みすず書房 p.33-38>
 日本の「アジアの解放のための戦争」という大義の虚構をガンディーははっきりとおさえ、イギリスからの独立のために日本と手を結ぶことはありえないといっている。この文の最後の方では、もしイギリスが撤退した後に乗り込もうという誘惑に駆られ、それを実行するならば、「私たちは国をあげて力を結集し、かならずあなたがたに抵抗するでありましょう。」とも述べている。ここにチャンドラ=ボースとの違いがきわだっている。

宗教対立の悲劇

 ガンディーの非暴力にとって、ファシズムや軍国主義だけでなく、一方で大きな障害となったのがヒンドゥーとムスリムの対立(コミュナリズム)であった。ムスリムとの協力、寛容を説くガンディーは最後まで宗教的和解の道を探ったが、その姿勢を異教に妥協しすぎると感じたヒンドゥー教過激派によって暗殺されてしまった。非暴力を唱えるガンディーが暴力によって命を落とすという皮肉な結果になってしまった。

サティヤーグラハ

ガンディーがインド独立運動の理念として提唱したことばで、「真理の把持」というの意味であるが、具体的には「非暴力・不服従」によって独立を勝ち取ろうというその運動の核心を表現した。

 サティヤーグラハとは、ガンディーがインド独立運動の理念として掲げたことばで、「真理の把持(把握し堅持すること)」の意味( satya が真理、agraha が把握・堅持といった意味)である。熱心なヒンドゥー教徒であったガンディー自身の言葉によれば「精神の力、愛の力による真理の勝利」ということとなる。「悪」と戦うとき、決して暴力を用いず、自己犠牲と博愛によって勝利しようという、ヒンドゥー教の不殺生(アヒンサー)の教えにつながる思想であり、インド古典文献のバガヴァッド=ギーター(グプタ朝時代の叙事詩『マハーバーラタ』の一部をなす聖詩)からガンディーが学んだことである。
 かれはこの理念をイギリスの植民地支配との戦いにもあてはめ、「非暴力・不服従」による抵抗を民衆に呼び掛け、大きな共感を得た。また彼はイギリスのインド支配の背景にある近代文明の物質主義にも批判の目を向け、インドに帰ってからは素足に粗衣というスタイルを守り、静かにチャルカーという手紡ぎ機を回す姿がインド独立運動のシンボルとなった。ガンディーが展開した1919~22年の第1次非暴力・不服従運動サティヤーグラハ運動ともいわれる。その運動は、同時にイスラーム教徒のヒラーファト運動と連携したものであり、さらにより幅広く非協力運動ともいわれる。現実には非暴力による運動は様々な困難や矛盾をはらみ、しばらく中断された後、1930~34年に第2次非暴力・不服従運動塩の行進を中心とした抵抗運動という形態をとって行われる。

資料 サティヤーグラハの起源

 ガンディーが南アフリカで弁護士としてインド人の人権擁護活動を行っていた1906年、トランスヴァール政府はインド人をアジア人登録係に登録し、指紋を押捺し、常時登録証を携帯する義務を負わせ、警官は登録証の検査をするために個人の住居に立ち入ることが出来るという法令を制定しようとした。ガンディーらインド人は、この法令に従わないこと、非服従に対して科せられるあらゆる懲罰を甘受することを決議した。ガンディーはその運動をはじめ「受動的抵抗」passive resistance と名付けたが、英語の名称ではない、インド人の闘争にふさわしい名称をつけることにし、公募することにした。ある人が「よきたてまえを堅持する」意味の「サダグラハ」を提案した。ガンディーはいう。「わたしは、それを”サティヤーグラハ”と訂正した。真実(サティヤー satyka )は愛を包含する。そして堅持(アグラハ agraha )は力を生む。したがって、力の同義語として役立つ。こうしてわたしは、インド人の運動を”サティヤーグラハ”、すなわち、真実と愛、あるいは非暴力から生まれる力、と呼び始めた。そして、これとともに”受動的抵抗”という言葉の使用をやめた。」<『ガンジー自伝』 蝋山芳郎訳 中公文庫 p.265-268>

資料 サティヤーグラハの意味

 ガンディー自らはサティヤーグラハの意味を、主著『ヒンドゥー=スワラージ』(1907年)で次のように説明している。
(引用)サッティヤーグラハ、または魂の力は英語で‘受動的抵抗(パッシヴ・レジスタンス)’ともいわれています。この語は、人間たちが自分の権利を獲得するために自分で苦痛に耐える方法として使われています。その目的は戦争の力に反するものです。あることが気に入らず、それをしないときに、私はサッティーヤグラハ、または魂の力を使います。例として、私に適用されるある法律を政府が通過させたとする。私には気に入らない。そこで私が政府を攻撃して法律を廃止させるとすると、腕力を行使したことになる。もしその法律を受け入れず、そのために下される罰を受け入れたとすると、私は魂の力またはサッティーヤグラハを行使することになる。サッティーヤグラハで私は自己犠牲をする。・・・<ガンディー『真の独立への道(ヒンドゥ・スワラージ)』1907 田中敏雄訳 岩波文庫 p.110-111>
 ガンディーが南アフリカで実践したサッティーヤグラハ運動には、彼が設けたフェニックス農園やトルストイ農園に加わった男女の多くが参加した。警官による逮捕や暴力で犠牲者も出た。ガンディーは彼ら「サッティーヤグラハ運動者」の犠牲を次のように言っている。
(引用)サッティーヤグラハ運動者は、彼らの間にただ一人でも、水晶のように純潔な者がおれば、彼の犠牲によって目的を達成するに十分である、と信じてよい。世界は、「サッティヤ」あるいは真実の岩床の上に成り立っている。非真実を意味する「アサッティヤ」は、また、非存在を意味する。そして「アサッティヤ」あるいは真実は、また、あるということを意味する。非真実は存在すらしないのだから、その勝利はあり得ない。そしてあるところのものである真実は、けっして破壊されえないものである。これがサッティーヤグラハの教義の神髄である。<ガンディー/蝋山芳郎訳『ガンディー自伝』2004 岩波文庫 p.293>

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