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アパルトヘイト

南アフリカ連邦おおび南アフリカ共和国で行われた白人支配者による黒人に対する広範囲な人種隔離政策。正式には1948年から採用された。それに対する抗議運動が黒人のマンデラらの指導で粘り強く続けられ、1991年に廃止された。

アパルトヘイトの意味

 アパルトヘイト apartheid とは、南アフリカ連邦及び南アフリカ共和国でとられていた、白人を優越させ、黒人を蔑視する人種主義に基づき、様々な立法措置によって、人種間の隔離をはかる制度である。アパルトヘイトは、アフリカーナー(オランダ系移民の子孫)が使う、オランダ語が現地語と融合して変化したアフリカーンス語で「隔離」を意味する。アパルトヘイトの用語が正式なものになったのは、国家の基本政策として確立した1948年であったが、その前提となる人種隔離政策は、1910年の南アフリカ連邦の成立直後から始まっていた。
(引用)それは、有色人、特にアフリカ黒人を劣等と決めつける人種差別思考の上に成り立つ考え方であったが、経済的には,白人には高級職種と熟練労働を、白人以外には低賃金職種と非熟練労働をあてがう搾取のメカニズムでもあった。それは南アフリカ資本主義の発達を支えることになる根本思想である。<宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p.375>

アパルトヘイトの起源

 南アフリカ連邦は1910年に成立したが、早くも1911年には最初の差別立法といわれる「鉱山労働法」を制定して鉱山での白人と黒人の賃金差別を合法化した。1913年には「原住民土地法」でアフリカ人の指定居住地は全土の7.3%と定め、アフリカ人の移動を制限すると同時に、鉱山・工場・白人農場などでのアフリカ人労働力を確保しようとした。1924年に国民党ヘルツォーク政権は後のアパルトヘイトの原型といわれる人種隔離政策を構想した。1926年には「産業調整法」が施行され、アフリカ人のストライキ権は制限され、1927年には異人種間の性交渉を禁止する法律が施行された。そして1925年には、南アフリカ連邦の公用語として英語とともにアフリカーンス語(もとケープ植民地で使われていたオランダ語が変形した現地語)が公用語とされた。

アパルトヘイトの成立

 第二次世界大戦後、1948年6月の総選挙でオランダ系白人(アフリカーナー)が結成した国民党(NP)が勝利し、その政権のもとで「アパルトヘイト」という用語が正式に使われるようになり、50年代にかけてアパルトヘイト関係法律がつぎつぎと制定され、南アフリカ社会は明確な人種隔離社会となった。
  • 人口登録法 すべての南アフリカ人を白人、カラード、インド人、アフリカ人という4つの「人種」に分類した。
  • 雑婚禁止法と背徳法 人種間の結婚と性交渉を禁止した。
  • 集団地域法 都市地域を厳格に分割し、人種別の居住区を指定した。
  • 隔離施設留保法 公園、海水浴場、公衆トイレ、教会、レストラン、ホテル、劇場、映画館、エレベーター、バス、列車、学校、役所など、あらゆる公的な場所に「ヨーロッパ人専用」と「非ヨーロッパ人専用」に分離され、それぞれ掲示がかけられた。
ほかに、投票者分離代表法で非白人の参政権は奪われ、バンツー教育法で人種別の教育が定められた。また黒人の反体制活動を取り締まるために、共産主義弾圧法、破壊活動防止法などが矢継ぎ早に制定された。<宮本・松田編 同上 p.376 /峯陽一『南アフリカ 「虹の国」への歩み』1996 岩波新書 p.16>
 さらに1959年には全面的アパルトヘイト構想「バンツー自治促進法」が打ち出され、民族(部族)単位ごとにアフリカ人に自治を与えるという分離政策が実施された。これによってアフリカ人地域は10に分割され、外交・防衛・治安などの権限を除いて各地域に自治を付与するという「バンツーホームランド市民権法」が成立した。70年代後半から自治国家として4つの「バンツーホームランド」がつくられたが、この形だけ自治を付与された国々は国際社会では一つも承認されなかった。

アパルトヘイトへの抵抗運動

 南ア白人政権のアパルトヘイトに対して、黒人運動組織のアフリカ民族会議(ANC)の中から、ネルソン=マンデラら若い指導者が現れ、白人の意識の変化に期待するのではなく、アフリカ人としての権利と政治的独立をめざして不服従運動が開始した。
 1955年6月には史上初の全国人民会議がヨハネスバーグ郊外で開催され、自由・平等で社会をめざす「自由の憲章」が採択された。しかし翌年、その指導者のマンデラら156人が捕らえられ、弾圧が強まった。アフリカ人の中には不服従運動にあきたらずアフリカ人による政府の樹立を主張するパン=アフリカニスト会議(PAC)が、ANCから分離した。1960年3月にはPACが呼びかけてヨハネスバーグ郊外のシャープビルで開催された集会では警察の一斉射撃で69人が殺されるという「シャープビルの虐殺」事件がおこり、国連も南ア政府を批判する事態となった。

南ア共和国のアパルトヘイト

 1960年、アフリカの年でアフリカ人諸国が次々と独立する中、南アの白人政府に対する国際的批判が高まった。しかし南ア政府は1961年、イギリス連邦から分離して「南アフリカ共和国」と国号をかえ、国際的孤立をあえて選択してアパルトヘイトを維持強化した。「バンツー自治促進法」によりアフリカ人を「民族単位」に分類して辺境地の「バンツーランド」に閉じ込めるという人種隔離政策を推し進めた。
ネルソン=マンデラ 1961年6月、マンデラらはそれまでの非暴力抵抗運動の限界を自覚し、武装闘争に方向転換、政府機関の襲撃などを繰り返しながらエチオピアにおもむき、アフリカの民族解放運動との連携を強めた。政府はマンデラをストライキ煽動、パス不携帯で国外に出たことの罪で帰国したところで逮捕、懲役5年の刑でロベン島に収監した。
ソウェトの闘い ヨハネスバーグではアフリカ人居住地域のアフリカ人は強制的に退去させられ、近郊に造られたソウェトに移住させられ、完全に隔離された。そのような隔離政策の中で育ったアフリカ人の若者の中に、激しい怒りが蓄積され、1976年、政府が中等教育の授業用言語としてアフリカーンス語を大幅に増やそうとしたことに対し、支配者の言語による教育に反対する中高校生が抗議行動を起こした。このソウェト暴動でも軍隊と警察の無差別発砲で多くの学生をふくめ、約600人が命を落とした。

アパルトヘイト廃絶への交渉

 1977年、運動の指導者の大学生スティーヴ=ビコが拷問を受けて惨殺されると、抗議の声は世界的に広がり、多くの国が南アとの国交断絶、経済制裁に踏みきり、南アはますます孤立した。1984年に新憲法が制定され、カラード(白人と現地人の混血)とインド人に選挙権を与えたが、アフリカ人には認められず、その移動や居住の自由も認められなかった。そのころにはアフリカ人の運動は労働組合や様々な団体に広がり、1987年には50万人が参加するゼネストとなって経済がマヒした。またキリスト教会のデズモンド=ツツ大司教(イギリス聖公会、1984年、ノーベル平和賞受賞者)もアパルトヘイトは聖書の解釈を誤っていると説き、公然と政府を批判、集会が禁じられる中、教会が人々の集う場として重要な役割を担うようになった。
 さらに実業界も長びく経済制裁の解除とストライキの収束を望むようになり、教会を介して反政府運動に好意的になってきた。1985年頃には実業界もANCのマンデラらを解放することが事態解決に向かう鍵となると考えるようになり、同年、ボタ大統領はついにマンデラを大統領府に招いて会談、マンデラも政府との交渉を開始することを提案した。

アパルトヘイト関連法の廃止


デクラークとマンデラ
 1989年、病気で倒れたボタの後任として大統領に就任したデクラークは、1990年2月11日、マンデラを無条件で釈放し、次々とアパルトヘイト廃止に着手した。1991年2月1日にはアパルトヘイトの基幹となっていた人種登録法・集団地域法・現住民土地法という三つの法律の廃止を宣言し、アパルトヘイト関連法はすべて廃止された。さらにANCやPACなどの合法化、政治犯の釈放などとともに暴力の即時停止を約束した。
 こうして長く南アフリカ共和国の黒人に対する徹底的な人種差別政策であったアパルトヘイトは法的な根拠を失い、人種的な平等が実現、解放されたマンデラら黒人を含む新しい南アフリカ共和国の国造りが始まった。

マンデラ大統領の誕生

 1991年12月、19の政党が参加して新憲法制定の話し合いを開始、長い交渉と議論の末、1994年4月26日に、南アフリカ史上初めて全人種が参加する制憲議会選挙が行われた。その結果、ANCが圧倒的勝利をおさめ、、マンデラが大統領に就任、新生南アフリカ共和国が発足することとなった。この間、マンデラとデクラーク大統領は1993年にノーベル平和賞を受賞、アパルトヘイト撤廃に尽くした業績が国際的に評価された。

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宮本正興・松田素二編
『新書アフリカ史・改訂新版』
2018 講談社現代新書

峯陽一
『南アフリカ 「虹の国」への歩み』
1996 岩波新書