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総統国家/フューラー国家

1933年~45年5月のヒトラーが支配したドイツ=ドイツ(第三帝国)、総統国家、フューラー国家とも言われるこの国家の基本的性格は何か。

 ヒトラーが首相に就任した1933年、または総統に就任した1934年8月から、1945年5月のヒトラーの自殺まで約10年間の、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)がドイツ支配した時代をナチス=ドイツあるいは第三帝国という。一般にこの国家は、全体主義、あるいはファシズム国家であると規定される。ヒトラーが総統として権力を握ったことから総統国家あるいはフューラー国家とも言われるこの時期のドイツは、一体どのような国家だったのだろうか。それ以前のドイツ、そして戦後のドイツと同じドイツなのだろうか。あるいは連続性のない、特異な時代だったのだろうか。セバスチャン=ハフナーの『ドイツ帝国の興亡』での説明を見てみよう。 → (8)ドイツ

1933年から45年までのドイツ

 1920年代に始まった国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の台頭は、1933年にその党首ヒトラーが首相となり、さらにヒトラーが総統という大統領と首相を一体化した強力な地位について独裁権力を握ぎるまでに至った。これによってヴァイマル共和国は崩壊し、第三帝国と称する全体主義化がはかられることとなった。国内ではナショナリズムを鼓吹してユダヤ人排斥をはかる一方、アウトバーンの建設など独占資本の利益に添った経済政策を推し進め、反対勢力を親衛隊(SS)ゲシュタポの軍事警察機構で暴力的に抑えつける体制を作り上げた。またヴェルサイユ体制やロカルノ体制を無視してドイツ勢力圏の膨張をはかり、1933年に国際連盟を脱退して、ザール併合、再軍備・徴兵制復活、ラインラント進駐を立て続けに強行し、ヨーロッパの安定を脅かした。1935年にエチオピア侵略を開始したイタリアのムッソリーニと急接近し、1936年からのスペイン戦争では共にフランコ軍を支援して、ベルリン=ローマ枢軸を形成した。同年には日独伊防共協定を締結し、ファシズム体制をとる三国が枢軸国の陣営を形成した。
 1838年にはヒトラーオーストリア併合を実行し、さらにチェコスロヴァキアのドイツ人居住地区のズデーテン地方の割譲を要求、ヨーロッパの危機を出現させた。イギリスの首相ネヴィル=チェンバレンは、宥和政策をとり、ミュンヘン会談でヒトラーの要求を容認した。それは共産主義国ソ連を警戒し、ドイツがソ連を抑えることに期待したためであった。このような英仏の動きに不信感をもったスターリンとの間に独ソ不可侵条約を締結した上で、1939年9月、ヒトラーはポーランドに侵攻、ついに第二次世界大戦が開始された。 → ドイツと第二次世界大戦
 その後、1945年4月まで、全ヨーロッパを戦争に巻きこみ、焦土と化すとともに、ドイツ国内や占領地でアウシュヴィッツなどの強制収容所を設け、ユダヤ人の大量殺害(ホロコースト)を実行し、戦後世界に大きな衝撃を与えた。一方、アジア・太平洋でアメリカ・イギリスとの対立を深めていた日本を含め、日独伊三国同盟を結成した。1941年6月には独ソ戦を開始、12月には太平洋戦争開始と共にアメリカの参戦、ドイツは枢軸国の中心としてイギリス・アメリカ・ソ連の連合国と全面的な戦争に突入することになった。  反ファシズムで結束したアメリカ合衆国とソ連の双方に自由と民主主義のために戦うという大義を与えることとなり、ナチス=ドイツは孤立し、スターリングラードの戦いの敗北、連合国軍のノルマンディー上陸作戦などによって次第に後退し、1945年4月30日にヒトラーが自殺してナチス=ドイツは崩壊、5月8日にドイツは無条件降伏した。

フューラー国家

(引用)この時期のドイツ帝国は、本当はどういう国家だったのだろうか? この帝国は、しばしばいわれているような政党国家ではなかった。・・・国家社会主義党には、中央委員会も政治局もなかったし、ヒトラーは、党委員会のようなものをいっさい召集しなかったし、協議もしなかった。毎年秋に、ニュルンベルクで華々しく開催された党大会は、とても党大会とよべるようなものではなかった。つまり、それは、党幹部と党底辺の派遣委員が綱領を協議し、決議するような集会ではなかったのである。ニュルンベルクでは、そのような協議はまったく行われなかった。国家社会主義党の党大会は、党員大衆のパレード、さらには別の組織体のパレードだった。「突撃隊の大会」、「親衛隊(SS)の大会」、さらに「帝国勤労奉仕隊の大会」、1934年以後には「国防軍の大会」もあった。すべての機関、いわゆる、国家のなかのすべての国家が、感動的な大デモンストレーションによび集められ、そこでヒトラーだけが繰り返し演説をした。彼自身は何にも耳を傾けなかった。党が国家を支配したのではなかった。ヒトラーが、他にもいろいろあるが特に、党を通して支配したのだった。・・・ヒトラーの第三帝国は、政党国家ではなく、指導者(フューラー)国家だったのである。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p.228>

テロとプロパガンダ

 ヒトラーは、この国家をどのようにしてずっと指導者国家であるかにように統治したのだろうか? 「権威主義的アナーキー」にもかかわらず、最高権威者が存在し続け、常に自己の意志を貫徹できた原因は、何だったのだろうか? それには二つの言葉で答えることができる。すなわち、テロとプロパガンダである。この二つの道具は、ヒトラーの最も重要な支配手段であった。
 この二つの道具のうち、テロは1934年6月に突撃隊が無力化されてからは、親衛隊(SS)が担い、ヒトラーの右腕であったヒムラーが担当した。プロパガンダは、1933年3月に何もないところから作り出された国民啓発宣伝省に権限があり、ヒトラーの左腕だったゲッベルスの管轄下にあった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p.231,234>

ヒトラーの成功 完全雇用と軍備拡張・外政

 ヒトラーは、1934年から39年の間に、三つの大成果を収めた。
  • 完全雇用の回復 ヒトラーのもとで国立銀行総裁となったシャハトは国内経済を外国から厳しく隔絶することによって、信用掛けで、経済繁栄を手に入れ、1936年から39年は予想だにしなかった経済興隆がもたらされた。企業家も労働者もきわめて良好な状態にあり完全雇用が実現した。
  • 軍備拡張の実現 100万の陸軍の増大は国防軍の将校に栄達を意味していたので、国防軍のヒトラーに対する疑念は完全に消え、ヒトラーの軍事計画に奉仕し、忠実に従うこととなった。一方で1935年に国防軍にアーリア人条項が導入され、母親や祖母がユダヤ人である将校は追放された。
  • 外交の成功 ヒトラーのやり方は、シュトレーゼマンのような順応と和解ではなく、世界に反抗し、世界から自分の成果を奪い取ることに重きを置いた。1933年に国際連盟を当てつけがましく脱退し、いわば後ろ手でドアをピシャリと閉めてしまった。それによって、ヒトラーは大衆心理を巧みに利用して、彼の最初の国民投票を行い、100%の得票を達成した。次いで1935年には一般兵役義務を再導入することを宣言し、1936年にはロカルノ条約に違反してラインラント非武装地帯への進駐を強行した。これはフランスの反撃が予想されたが、フランスは動かなかった。ドイツは「今や我々は勝手に何でもできる」という感情を持つようになった。さらに1938年には当時誰もが予想だにしなかったオーストリアを併合し、チェコスロバキアのドイツ人居住地を手に入れ、秋にはミュンヘン協定でイギリス・フランスの「宥和」を引き出した。「この男は、あっさりとすべてに成功する。彼は、神の使者だ。」これが大衆に見られた雰囲気だった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p.239-243>

ヒトラー国家の連続性と非連続性

 ヒトラーのドイツ、ナチス=ドイツあるいは第三帝国は、ドイツ帝国(ビスマルク時代)の連続線上にあるのか、それともそれから逸脱した国家なのか、という論争がドイツで繰り広げられていた。これについて、しばしば引用しているセバスチャン=ハフナーの『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』の結論は、次のようなものである。
(引用)答えはいたって簡単で、連続性の要素と非連続性の要素が存在しているが、結局のところ、連続性の要素が支配的だった」としている。まずヒトラーの外政の基本路線は、ロシアの征服を目標とし、その前にフランスを叩く、イギリスはできるだけ中立を保たせるという、第二帝国の連続性の上にあった。それが第一次世界大戦の敗北でしばらく強制的に中断させられていたのを再開したものに過ぎなかった。ヒトラーの内政は、一見して非連続性が優勢のようにみえるが、ビスマルクやヒンデンブルクの中に準備されていたではないか。第二帝国の支配層は、その政治権力は奪われたが、社会的には大地主層・資本家層はそのままであったし、知識人・エリートも亡命しない限りはそのままだった。変化したのはナチスのもとで支配層に加わったものが多かった(ユダヤ人上層部と交替して)と言うことだけである。
 非連続性の主要素は、ヒトラーの反ユダヤ主義、生物学的人種思想だけである。これまでのドイツ帝国では問題とならなかったことが、ヒトラーにとって本来の帝国指導よりも重要な問題とされた。ヒトラーは1938年以後に、ユダヤ人迫害を連続的に強化し、帝国規模のユダヤ人虐殺(ポグロム)を実行した。まぎれもないユダヤ人虐殺を「水晶の夜」という起こったことをわずかしか示していない言い方をするのでも分かるように、多くのドイツ人は、嫌悪感を持ちながら、距離を保ち、瑣末視しようとした。しかしヒトラーも、国民が積極的にユダヤ人迫害に同調しないことも知った。そこでヒトラーは「最終的解決」を決心したとき、それをドイツ国内では行わなかったのである。ドイツ国内ではユダヤ人は、ただ移送されるだけで、「最終的解決」はポーランドで行われた。
 実際の集団殺害、機械的手段による数百万のユダヤ人の絶滅は、一度も――ヒトラー帝国の他のすべての偉業や、他のすべての大犯罪とは逆に――世論に公表されたことはなかったし、ましてや布告されたこともなかった。・・・ドイツ世論の前でユダヤ人大虐殺は意識的に覆い隠されていたために、ドイツ人は、それに対して何もしなかったのだというような弁明理由がある。私の考えでは、もう一つの決定的な弁明理由は、いずれにしても彼らが、特に戦争末期の状況では、それに対して何もできなかったことである。<同上 p.256>
 我々は、ドイツ帝国の歴史の中のユダヤ人迫害とユダヤ人絶滅計画を、秘匿してはならない。それは起こったことであるし、この歴史にまとわりつく永遠の汚点なのである。だが他方では、我々は、それを指導者国家の他の多くの要素のように、ドイツ帝国の歴史とその国内の現実の体制の中に、はじめから備わっていた要素に加えることはできないのである。<同上 p.257>
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書籍案内

セバスティアン・ハフナー
山田義顕訳
『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』
1989 平凡社

セバスチャン・ハフナー
瀬野文教訳
『ヒトラーとは何か』(新訳)
2017 草思社文庫

山本英行
『ナチズムの時代』
世界史リブレット49
1998 山川出版社