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粛清

一般に政治的対立者を合法、非合法の別なく、殺害などによって排除すること。特にソ連のスターリン独裁体制のもとで反対派が多数、殺害、流刑とされたことを言うことが多く、1937~38年を中心に多数の反対派が殺害、追放され特に大粛清とも言われている。その死後、1956年のスターリン批判で明らかになり、厳しく非難された。

 スターリン独裁体制のもと、1930年代にスターリン反対派が多数政権から追われ、秘密警察に逮捕されて裁判なしに殺害されたり、シベリアの強制収容所への追放処分にされた。それはソ連共産党幹部だけではなく、一般党員、官僚、軍人、さらに知識人・芸術家(作家、音楽家など)から一般の市民に及び、そのピークだった1937年・38年だけでも犠牲者は数百万人(正確な数字は現在も不明)にのぼるとされ、単なる反対派の排除だけでなくその生命を奪い、活動を不可能にするそのやり方は、大恐怖、大テロルとも言われた。
 スターリン政権が粛清を強行したのは、当時のソ連邦がドイツ・ファシズムと日本軍国主義が東西からせまり、ロシア革命の社会主義路線が脅威にさらされる中で、反革命を取り締まり敵対勢力とつながる恐れのある動きを封じるという意図があってのことであったが、多分にスターリン自身の異常な権力欲を制御できなかった点にあると思われる。世界史上の革命においても、フランス革命でのロベスピエールによる恐怖政治など、反対派に対する厳しい弾圧があったが、スターリンによる粛清はそれらを上まわる規模で行われ、ロシアの歴史の深い闇となって残されることとなった。

スターリン批判で明らかにされた粛清

 スターリンの死去後、その独裁的な政治がソ連共産党によって公に批判さるスターリン批判が始まった。1956年2月のソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフ書記長の演説では、スターリンの粛清について、次のように述べられている。
(引用)確認されたことは、第一七回党大会で選ばれた党中央委員会の委員と候補一三九名のうち九八名、すなわち70%が(ほとんどが1937年から1938年にかけて)逮捕され、銃殺されたということであります[場内、憤激の叫び]。……
 このような運命をこうむったのは中央委員会のメンバーばかりではありません。第17回党大会の代議員も同じ運命に出会ったのであります。決議権あるいは審議権を持っていた千九百五十六人の代議員のうち千百八人、すなわち明らかに過半数の人が反革命の罪で告発され、逮捕されたのであります。われわれが今見たように、このような事実そのものが、第十七回党大会の参加者多数に浴びせられた反革命の告発がいかに馬鹿げていて、野蛮で、常識に反するものであるかを物語っているのであります[場内、憤激の叫び声]。
 われわれは、第十七回党大会が「勝利者の大会」として歴史に名を留めているということを思い出さないわけにはいきません。大会代議員はわが社会主義国家建設の積極的な参加者でありました。……このような人々が、ジノーヴィエフ派、トロツキスト、右翼偏向主義者(ブハーリン派)が一掃された時期に、また社会主義体制の偉大な完成ののちに、「裏切者」として社会主義の敵の陣営に加わったなどと言うことが、一体どうして信じられましょうか。
 これはすべて、スターリンによる権力濫用の結果であって、スターリンが党幹部に対して大量テロルを行使しはじめたということなのです。
 活動家に対する大量弾圧が、第十七回党大会後にますます大規模になりはじめた原因はどこにあるのでしょうか。これはその時期、スターリンが自分を党と人民の上に置き、中央委員会と党のことを考慮しなくなったためであります。……
<『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』講談社学術文庫 p.45>

粛清の序幕 キーロフ暗殺事件

 スターリンが反対派に対する大規模な粛清、大量テロを始めるきっかけとなったのは、1933年、スターリンの有力な対抗馬、キーロフが暗殺された事件であった。その事件は次のような経過で起こった。
 1932年、ソ連は第1次五カ年計画での無理な農業集団化の結果と天候不順が重なり、全国的な飢饉に襲われた。穀倉地帯の収穫が特に悪く、食糧不足のために500万から600万の生命が失われた。ソヴィエト政府にたいする農民の感情はひどく悪化し、スターリンの指導に疑問の声が出され始めた。共産党員の中にもスターリンには退いてもらわねばならぬという気持が強まった。そのようなとき、スターリンに代わりうる人物として期待されたのがキーロフという人だった。
 キーロフは1904年来のボリシェヴィキで、革命のときは、コーカサスにソヴェトをつくり、1921年から中央委員となり、14回党大会ではスターリン派であり、ジノヴィエフにかわって、レニングラードの党書記となり、反スターリン派を押えた。1930年から政治局員となった。きわめて有能なばかりでなく、トロツキー以来はじめての雄弁家で、人選の的確さは定評があった。
 1933年開かれた17回党大会は転期であった。多くの反対派は流刑地や強制収容所から呼び返された。右派もジノヴィエフやカーメネフも党大会で発言がゆるされた。党の統一は回復されるとみんな思った。ブハーリンは、党大会で激しいナチ攻撃をやり、作家大会では、人間性の擁護を叫んだ。人びとをとらえた人間性への郷愁は、かれを政府機関紙「イズヴェスチア」の編集長にかえり咲かせた。
 17回党大会では、スターリンに書記長をやめさせ、書記局にキーロフをいれた。キーロフと密接に結んで党統一をすすめたのは、オルジョニキーゼとクイブィシェフであった。1934年11月25日から28日まで開かれる中央委員会幹部会は、特に重要だった。ここではキーロフの提案で大改革が行われるはずであった。ところが、会議にキーロフが出席しようとしてスモールヌイの党本部で、ニコラーエフという青年がキーロフに怨みを持ちピストルを持ってうろうろしているところを逮捕された。ところがなぜかニコラーエフは釈放され、「偶然に」警備員がいなかったとき、幹部会から帰ってきたキーロフを射殺したのである。
 ニコラーエフを逮捕したレニングラードの公安警察の長は、スターリン直属の「特別秘密警察公安局」の指令で赴任した人物だった。この組織がのちの大粛清の企画本部となった。この長であったエージョヴは、かつて帝政時代に警察のスパイであった前歴をかくしていた。スターリンはその秘密をにぎっていてかれを自由に動かしたのだ。
 キーロフの殺害犯人はただちに処刑されたが、その男がジノヴィエフ派であったというので、ジノヴィエフとカーメネフがその年に逮捕された。それぞれ一〇年、五年の重労働の判決をうけた。こうしてキーロフ暗殺事件に復権したスターリンとスターリン派によって、粛清という名の「大量テロル」が始まり、多くの反対派がシベリアの強制収容所に送られていった。この時期はドイツではナチ党が権力を獲得し、アメリカではF=ローズヴェルトのニューディールが開始されるていた。 <松田智雄『ロシアの革命』河出書房・世界の歴史22/菊地昌典『歴史としてのスターリン時代』などによる>
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松田智雄
『ロシアの革命』
河出書房・世界の歴史22

志水速雄訳
『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』
1977 講談社学術文庫