印刷 | 通常画面に戻る |

強制収容所

ナチス=ドイツの占領地域に置かれたユダヤ人を収容する施設。ガス室などでユダヤ人に対する大量殺害が行われた。

 ナチス=ドイツにおける強制収容所は、1933年のナチス政権成立直後から、反ナチスの政治犯を収容するためにつくられていたが、しだいに拡充され、ユダヤ人ロマ(ジプシー)などの民族的な非差別者、さらに精神障害者、身体障害者など社会的に排除された人々が収容されるようになった。特に1939年にポーランドに侵攻すると、ドイツ人の生存圏を拡張するため、東欧の多数のユダヤ人を排除してドイツやポーランド内の強制収容所に収容した。当初はユダヤ人をアフリカのマダガスカルに移住させるという計画もあったが、非現実的であったため頓挫し、強制収容所は収容力が限界に達するに至った。その結果、占領地では徐々に始まっていたユダヤ人の集団虐殺を、強制収容所においても組織的に開始する必要があるとナチスは判断した。
 1942年1月、ナチス・ドイツはユダヤ人排斥の「最終解決」をはかり、ゲシュタポ(秘密警察)の手によってその絶滅作戦を本格化した。それによれば、ユダヤ人で労働に従事出来ない者は即座に殺害し、労働に耐えうる者は強制労働をさせることであった。そのために、アウシュヴィッツなどにユダヤ人を組織的、集団的に殺戮する絶滅収容所を建設した。これらの絶滅収容所では、ユダヤ人は主として毒ガスによって殺害されていったが、第二次世界大戦中にナチスによって殺害されたユダヤ人の数は、一説に600万といわれている。以下、最近の研究を詳細に取り入れている芝健介『ホロコースト』による強制収容所と絶滅収容所についての記述を参考にしながら見ておこう。<芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』2008 中公新書>

強制収容所とは

 強制収容所とは、「敵性とみなした人間集団を法的手続きなしに拘禁し、収容する施設」であり、それを国家が組織的に作り、積極的に活用したのは、スターリン体制下のソ連と、ナチ体制下のドイツであった。ドイツの最初の強制収容所は、ナチ政権成立から2ヶ月後の1933年3月20日、ミュンヘンの北420キロの地のダハウ強制収容所である。直接の契機は、国会議事堂放火事件の翌日に出された「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」であり、それによって国民の基本的人権が停止され、当局が裁判所の許可なく人々を拘禁できるようになった。ダハウ強制収容所を開設・運営したのはナチ党親衛隊の全国指導者ヒムラーであった。<同上 p.166>
 1937年以降になると、親衛隊の支配が政治警察だけでなく、通常警察までおよび、拘禁の対象者は政治的な敵対者だけでなく、「民族共同体異分子」、「反社会分子」、「労働忌避者」とされたユダヤ人、ロマ、同性愛者などに広がった。ユダヤ人は水晶の夜以降は出国できず、失業状態が続き、ほとんど強制収容所に入れられた。こうして第二次世界大戦前の1939年には、ダハウ以下、6つの基幹強制収容所があり、約2万5000人が収容されていた。独ソ戦開始後は、特に大量のソ連軍捕虜が収容され、強制労働など過酷な状況の中でその多くが命をなくした。1938年にナチスドイツに併合されたオーストリアのマウトハウゼンにも建設されている。

ユダヤ人問題の最終解決に向けて

 ナチス=ドイツはポーランドなどの東欧圏を支配下に収めると、一般のユダヤ人を収容するためにゲットー(居住区)を設けて隔離する方法もとっていた。ゲットーに集められたユダヤ人は働けるものは各種の工場で生産に従事したが、その条件は劣悪であった。また労働ができないものは強制収容所に送られていった。
 1941年6月、独ソ戦が開始されると、ヒトラーは「ユダヤ人=共産主義者」との戦いと宣伝し、ユダヤ人の絶滅を明言し、占領地域では親衛隊行動部隊によるユダヤ人に対する組織的な殺戮が行われた。バルト三国のひとつリトアニアのカウナスなどでは、行動部隊に唆された現地人が多くのユダヤ人を撲殺するという悲劇が展開された。さらに無抵抗の大量のユダヤ人がゲットーに送られた。ユダヤ人を銃で殺害したり、ゲットーや強制収容所に移送することは、親衛隊にとって「手間のかかる」ことであったので、しだいにより「効率的に」ユダヤ人を絶滅させる手段の研究が1941年8月、ナチス占領下のベラルーシで始まった。爆薬を使った爆殺やトラックにガス室を引かせて収容所を廻るガス・トラックなどが考案されたが、最も効率的な方法として、同年12月、ついにユダヤ人の殺害のみを目的とする絶滅収容所がポーランドのヘウムノにつくられ、「労働不能」なユダヤ人をガス室で一挙に殺害する施設がつくられた。<同上 p.148>

ヴァンゼー会議

 ユダヤ人絶滅作戦の責任者ハイドリヒは「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の全体的解決」のための会議を12月9日にベルリン郊外のヴァンゼーで開催する通知を出した。しかしこの会議は、12月8日、真珠湾攻撃による日米開戦をうけ、ヒトラーが対米宣戦布告を行うという緊急事態のため延期となり、翌1942年1月20日に開催された。これが後にヴァンゼー会議と言われるもので、招集されたのは実務者である次官クラスのものでヒトラーは参加していない。ゲシュタポのユダヤ人問題課長アイヒマンの作成した議事録でその内容を知ることができる。それによると、会議は「労働可能」なユダヤ人は奴隷的労働による過酷な搾取と「自然的絶滅」、「労働不能」ユダヤ人に対してはガス殺による即刻殺害による絶滅という選別計画を了承した。こうしてこの会議によってユダヤ人問題の「最終解決」は、ユダヤ人の全面的追放策から、計画的大量殺戮へと転換した。<同上 p.155>

絶滅収容所

 1942年1月のヴァンゼー会議によってナチス=ドイツによるユダヤ人問題の「最終解決」は、計画的な大量殺戮と確定し、その結果、すでに稼働していたヘウムノを含め、ベウジェッツ、ソビブル、トレブリンカ、マイダネク、アウシュヴィッツの6カ所の絶滅収容所が起動した。マイダネクとアウシュヴィッツは強制収容所を兼ねていた。強制収容所と絶滅収容所は厳密には異なる施設で、後者はユダヤ人の絶滅のための施設である。殺害方法は、シャワー室を偽装したガス室が使われた。<同上 p.164>

用語リストへ 14章4節14章5節

 ◀Prev Next▶ 


印 刷
印刷画面へ
書籍案内

芝健介
『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』
2008 中公新書

フランクル/池田香代子訳
『夜と霧 新版』
1956 初刊 2002 新版
Amazon Prime Video

アラン=レネ
『夜と霧』
1961 フランス映画