ディミトロフ
ブルガリアの共産党指導者。ドイツ亡命中の1933年、国会議事堂放火の嫌疑をかけられるも無罪となる。コミンテルンでの1935年の人民戦線戦術への転換を主導。戦後はブルガリアで共産党政権を樹立。
Georgi Dimitrov
1882-1949
ディミトロフは1882年、ブルガリア王国の貧しい労働者の家に生まれ、若くして植字工として働きながら18歳でブルガリア最古の労働組合である印刷労働組合の書記に選ばれた。第一次世界大戦でのロシア革命成功の影響を受け、マルクス主義を掲げ、1919年にブルガリア共産党を結成し、21年にはコミンテルンに加盟した。しかし、1923年6月、ブルガリアでもファシストが台頭してクーデタを起こし、9月にはブルガリア共産党はファシスト政権に反対して武装蜂起したが破れ、ディミトロフは死刑を宣告されたためベルリンに亡命した。
ドイツの国会議事堂放火事件と裁判
1933年2月27日、ベルリンで国会議事堂放火事件が起こった。現場で元オランダ共産党員だったというルッベが捕らえられた。政権を握った直後であったナチ党のヒトラー内閣は、この事件をドイツ共産党とコミンテルンが革命蜂起の合図として仕組んたものと断定して、3月9日、ベルリンに亡命していたディミトロフらを逮捕した。ディミトロフらに対する裁判は同1933年9月から、ライプツィヒで行われた。ディミトロフは放火事件に無関係であること、コミンテルンの謀議など存在しないことなど、事件をまったくのでっち上げだとして全面的に否定した。ナチ党はゲーリングが自ら証言台に立って告発しようとしたが、ことごとくディミトロフに論破されてしまった。裁判は国際的な関心が寄せられ、ファシズムの台頭に危機感を抱いていたヨーロッパ各地の民主主義者、自由主義者もディミトロフらの支援に立ち上がった。特にフランスの文学者アンリ=バルビュスとロマン=ロランは獄中のディミトロフと書簡を交わし、それを公表して国際的に支援を訴えた。<ディミトロフ/田島昌夫訳『獄中からの手紙』1996 国民文庫 大月書店>
裁判は12月まで続き、結局、ディミトロフらの共産党員の関わりは立証することが出来ず、現場で逮捕されたオランダの元共産党員の単独犯行とされて終わった。裁判の結果はヒトラーとナチス政権にとっては不十分なものであったが、この事件をきっかけとして全権委任法を成立させ、ヴァイマル体制の議会政治を破壊し、ファシズム体制を確立させることに成功した。
コミンテルンで人民戦線を実現
無罪となった後もしばらくは拘束されていたが、ブルガリアが帰国を拒否したためにソ連に亡命することとなった。ソ連ではコミンテルンの幹部として活動し、身をもってファシズムと戦った経験から、コミンテルンの戦いを全面的にファシズムに向けることを目指した。1935年7月のコミンテルン第7回大会では、人民戦線の結成を提起する重要な役割を担い、大会でコミンテルン執行委員会書記長に選ばれた。ブルガリアで共産党政権樹立
大戦間期のブルガリア王国ではファシズム体制が続いており、第二次世界大戦が勃発すると、1941年に日独伊三国同盟に加入し、枢軸国の一員として参戦した。非合法活動を続けるブルガリア共産党は、1942年、反ファシズム民族解放をめざす「祖国戦線」に参加し、パルチザン闘争を開始していた。祖国戦線は国民の広範な支持を受けて勢力を拡大し、1944年8月、ドイツ軍のソ連軍との戦いでの敗北を受けて共産党を中心とした政府の樹立を呼びかけた。9月5日、ソ連軍がブルガリアに宣戦、ファシスト政権がソ連との休戦を申し入れたこと武装蜂起し、9月9日に祖国宣戦が王政に代わって権力を掌握した。第二次世界大戦がおわり、1945年11月、ディミトロフは22年ぶりに祖国に帰り、社会主義国家建設を進めた。1946年9月8日、国民投票によって92%の賛成を得て王政は廃止され、ブルガリア人民共和国の成立が宣言され、10月の総選挙によって労働者党(38年に共産党から改称)を率いるディミトロフが首相となった。ディミイトロフは農地改革、産業国有化を進め、1947年12月4日に新憲法を制定した。ブルガリアが東ヨーロッパ社会主義圏の一員となったことを見届ける形で、1949年7月2日に死去した。