日独伊三国同盟/日独伊三国軍事同盟
1940年9月に成立した、日本・ドイツ・イタリア、枢軸国三国の軍事的攻守同盟。ヨーロッパにおけるドイツの勝利・勢力拡大を前提として、日本は独伊とむすんで日中戦争の打開と東南アジアへの進出を図り、独伊は日本との軍事同盟によってアメリカのヨーロッパ戦線への介入を抑止することを狙った。アメリカ合衆国を仮想敵国とする三国の世界戦略が一致して結ばれた軍事同盟であったが、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争を結びつけ、第二次世界大戦をアジアに拡大させる結果となった。さらに日独には三国にソ連を加える構想もあったが、ヨーロッパ戦線でのドイツの進撃の停滞がヒトラーを独ソ戦開始に転換させたため、実現しなかった。結局アメリカの参戦を抑止することにはならず、日本の東南アジア進出による日米対立から太平洋戦争へと転換し、アメリカの全面的な参戦によって枢軸国の敗北に終わった。
日独伊三国の軍事同盟結成
1939年9月、ヒトラー独裁下のドイツが、ポーランドに侵攻して第二次世界大戦に突入し、翌40年6月、ドイツ軍はパリに入城しフランスを征服した。ムッソリーニのイタリアもドイツとの提携を明確にしていた。ヒトラーは次の攻撃目標をイギリス本土に据え、空爆を開始したがチャーチルに指導されたイギリスの抵抗は激しく、その目的を達成できないでいた。ヒトラーはそのとき、アメリカがイギリスを支援して直接介入してくることをもっとも強く警戒した。一方、日本は日中戦争の長期化を打開できず、援蒋ルートの遮断と資源の確保を目指し、東南アジアへの進出を検討し始めていた。ヨーロッパにおけるフランス・オランダの敗北は東南アジアでの権益を日本が奪う好機が到来したと捉えられたが、日本のその地域への進出はアメリカを刺激することが想定された。このように利害が一致した三国は、ドイツが主唱する軍事同盟の結成に急速に動き、1940年9月27日、ベルリンで日独伊三国同盟が調印された。日独伊三国同盟の内容
- 日本国はドイツおよびイタリアのヨーロッパにおける新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重する。
- ドイツ及びイタリアは日本の大東亜における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重する。
- 日本、ドイツおよびイタリアは前記の方針に基づく努力について相互に協力すべきことを約す。さらに三締結国中のいずれか一国がヨーロッパの戦争または日支紛争に参入していない一国によって攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法により、相互に援助すべきことを約す。
- 本条約実施のため、日本政府、ドイツ及びイタリア政府の任命による委員からなる混合専門委員会を遅滞なく開催する。
- 日本国、ドイツ及びイタリアは前記の諸条項は、三国それぞれとソ連との間に存する政治的状態になんらの影響を及ぼさないことを確認する。
ソ連は日本との間の国境紛争ノモンハン事件も、独ソ不可侵条約成立・第二次世界大戦勃発に伴い、1939年9月15日に停戦している。
日独(伊)防共協定の強化交渉
日独伊三国同盟は、第二次世界大戦のさなか、1940年9月27日、ベルリンで調印されたものであるが、突然に成立したものではなく、その前提として、1936年の日独防共協定(翌37年、日独伊三国防共協定)の締結も押さえておく必要がある。三国防共協定と三国同盟の内容は違うのか、またなぜ変化したのか、を理解しておこう。その過程は複雑で1930~40年代の国際情勢、日本の国内情勢、さらに中国、アメリカやソ連の動きなどもからんでくるのでまとめるのは難しいが、最近の所説なども取り入れると、おおよそ次のようになる。三国防共協定の成立 世界恐慌後の1930年代、日本はワシントン体制による制約を打破して軍拡路線をとり、満州事変以来中国大陸への侵略を進め日中戦争に突入した。ドイツはヴェルサイユ体制の打破を掲げて急速に独裁体制を作り上げたヒトラーのナチスが権力を掌握、オーストリアを併合し、さらにチェコのズデーテン割譲を要求した。イタリアはムッソリーニの独裁体制であるファシズム国家としてエチオピア侵略を開始していた。独伊はスペイン戦争ですでに提携、ベルリン=ローマ枢軸を組んでいた。これら三国は、ともに国際世論に背を向け国際連盟を脱退して急速に結びつきを強め、反共産主義という点で方向性の一致を見いだして1936年11月に日独防共協定(翌年イタリアが参加し日独伊防共協定)を締結した。日独伊の三国枢軸国の結びつきは「防共」の名から分かるように反ソ連、反コミンテルンの協力協定であり、軍事同盟ではなかった。
日中戦争の膠着 日本では1937年7月7日、日中戦争(宣戦布告なしなので支那事変と言った)が始まり、8月に第2次上海事変に拡大、12月には南京を攻略したものの、重慶に逃れた蔣介石国民政府と中国共産党軍の抵抗を受けて戦線が伸びきり、その収束が困難となっていった。日本軍は援蔣ルートを遮断するため、フランス領インドシナに進出し、あわせて石油、ゴムなどの資源の獲得をめざす南進論が強まった。
ヒトラー、日独軍事同盟を構想 ドイツのヒトラー首相は1938年3月にオーストリア併合を成功させ、さらにズデーテン地方の割譲を要求したがチェコスロヴァキアの抵抗に遭い(五月危機)、イギリス・フランスも強くドイツを非難、その征服活動が頓挫していた。ヒトラーはこのとき、イギリス・フランスを介入させないため、東南アジアの英領シンガポールや仏領インドシナを脅かす存在である日本との間で、ソ連を仮想敵国と想定している日独防共協定を強化・転換させ、イギリス・フランス、さらにそれを支援するであろうアメリカを対象に加えた相互軍事同盟の締結を呼びかけることを思いついた。ヒトラーはリッベントロップ外相を駐独日本大使大島浩と連絡をとらせ、日独防共協定強化交渉が始まった。<大木毅『日独伊三国同盟』2021 角川新書 p.20,72>
日独防共協定強化交渉 ヒトラーと外相リッベントロップは日本側の松岡外相らと交渉し、日独防共協定をイギリス・フランスを対象とする軍事同盟に作り替えて、東南アジアにおけるその権益に対する日本軍の圧力を加えさえることを提唱した。この動きは当時は「防共協定強化交渉」といわれ、日本でも陸軍と外務省の中堅幹部の中にそれに応じる動きが強まった。その対象をイギリス・フランスに限定するのか、アメリカまで含むと解釈するのか、また軍事協力は自動的なものか、そのときに各国の自主判断に任されるのか、などドイツと日本との間に秘密裏に交渉が重ねられた。日本側では、日独の軍事同盟は、必然的にアメリカとの戦争となることが予想されるとして慎重論も強かった。ドイツとの提携を主張したのは駐ドイツ陸軍武官大島浩中佐や陸軍中枢の中堅幕僚に多く、反対派は米内光政、山本五十六ら海軍の上層部に多かった。しかし、この段階の交渉は軍の秘密事項とされ、国民にはほとんどその内容は知らされなかった。
独ソ不可侵条約による頓挫 日本側の結論が出ないまま経過するうち、 ヒトラーは1938年9月、ミュンヘン会談で、イギリス・フランスの宥和政策を引き出して自信を深め、翌月ズデーテン併合を強行、さらにチェコスロヴァキアを解体し侵略を進めた。一方、ソ連のスターリンはミュンヘン会談のイギリスの宥和政策に強く反発し、ヒトラーとの提携に転換する。両者は握手し、1939年8月、独ソ不可侵条約締結という大胆な転換をとげた。これはソ連を共通の敵と想定してた日本政府に大きな衝撃を与え、ドイツに対する失望感が強まり、いったんその動きは沈静化した。
三国軍事同盟への転換
ドイツ軍の勝利 しかし、ヒトラーはソ連との密約に基づき、翌1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻を開始したことによって第二次世界大戦が勃発し、事態は大きく動いた。当初、西部方面では動きを見せなかったドイツ軍が、翌年春から行動を起こし、1940年6月、一気にフランスを降伏させた。「バスに乗り遅れるな」 これで力を得た外務省、陸軍の親ナチス派は動きを強め、海軍の一部の慎重論を抑え、南進を強く主張するようになった。大新聞も「バスに乗り遅れるな」と称して、積極的な軍事行動を煽った。陸軍はすでに日本の東南アジア進出を警戒し、貿易制限など圧力を強めていたアメリカと衝突することが想定されるため、ドイツ・イタリアとの三国軍事同盟を結成し、その圧力でアメリカをひるませることができると考えた。時の米内光政内閣(米内は海軍軍人)は三国同盟と南進には慎重な姿勢をとっていたが、陸軍強硬派は、陸軍大臣畑俊六に圧力をかけて辞任させ、内閣を総辞職に追い込んだ。二・二六事件以来、軍部大臣現役制となっていたので、陸軍が大臣を出さないと内閣が成立しないためだった。
第二次近衛内閣 後任首相は重臣会議で軍部に受けの良い近衛文麿を指名、陸軍は今度はすんなりと東条英機を陸相に送り、外相は強硬派の松岡洋右が就任、1940年7月に第2次近衛文麿内閣が成立してお膳立てがそろった。ヒトラーは密使スターマー(シュターマー)を日本に派遣、同盟条文の検討を重ね、海軍も反対できない状況となっていった。
日独伊三国同盟条約の決定 9月19日、昭和天皇の前で御前会議が開催され、政府主要大臣と陸海軍統帥部、枢密院議長が出席、いくつかの質問はあったものの同盟条約の大筋を承認、26日には枢密院(明治憲法での天皇の最高諮問機関)本会議で満場一致で可決された。なおもアメリカとの戦争の回避、ドイツとの提携への慎重意見があったが、天皇の裁可によって条約締結が決定された。それをうけて、1940年9月27日、ベルリンの「新宰相府」大広間で三国条約は調印された。調印を急いだため、日本語・ドイツ語・イタリア語での三種類の条約原文を準備することができず、松岡外相の指示で英文で書かれていた。三国軍事同盟の原文が仮想敵国の言語で書かれるという皮肉なことになってしまった。<大木毅『日独伊三国同盟』2021 角川新書 p.184>
北部仏印進駐 ベルリンで三国同盟の調印が行われるより4日前の1940年9月23日には、日本陸軍が北部仏印進駐を実行した。これはフランスの敗北につけ込んでフランス領インドシナ北部(北部ベトナム)に軍を進駐させたもので、日本軍が南進を具体的に開始したものとして、日独伊三国同盟締結と共に、アメリカは強く非難し、日本に対する貿易制限などの措置を執ることに在り、危惧された日米対立が現実のものとなった。
イタリアの動き イタリアはムッソリーニのファシズム政権の下で1935年にエチオピアを侵略、国際連盟から経済制裁を受けた。翌36年にイタリアの支配するエチオピア帝国を樹立、このエチオピア戦争で国際的に孤立したことでナチ政権のドイツと急速に接近、さらにスペイン戦争でドイツに協力しローマ=ベルリン枢軸を成立させた。37年11月に日独防共協定に加わり、12月には日本・ドイツに続いて国際連盟を脱退した。38年にはミュンヘン会談に参加、ナチとの関係を深め、同年9月には人種法を制定してドイツと同じような反ユダヤ政策を取り入れた。1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻したときは「非交戦国」と称して参戦を見送ったが、ドイツ軍が優勢な戦いを進めるのを見て、40年6月に英仏に宣戦布告、9月にこの日独伊三国同盟に加盟した。それと前後してエジプトとギリシアに侵攻しており、日本軍と同様な動きをしている。
日本国内の反対論
日本側は第2次近衛文麿内閣の外相松岡洋右が推進役であったが、日本がドイツ・イタリアのファシズム国家と軍事同盟を締結することは、アメリカとの全面戦争を不可避とすることであり、その場合日本の国力から言って勝利は困難である、したがって日独伊三国同盟には反対するという議論はけっこう多かった。海軍の山本五十六元帥は(引用)実に言語道断だ。これから先どうしても海軍がやらなければならんことは、自分は思う存分準備のために要求するから、それを何とか出来るようにしてもらわなければならん。・・・結局自分はもうこうなった以上、最善を尽くして奮闘する。そうして、「長門」の艦上で討ち死にするだろう。その間に、東京あたりは三度くらいまる焼けにされて、非常にみじめな目に会うだろう。結果において近衛だのなんか、気の毒だけれども、国民から八つ裂きにされるようなことになりゃせんか。実に困ったことだけれども、もうこうなった以上はやむをえまい。<黒羽清隆『太平洋戦争の歴史』2004 講談社学術文庫 p.24>と言ったという。日独伊三国同盟から日米戦争となり、日本が敗北するであろうと予測した山本五十六の見通しの正しさはよく引用されるが、それでもやむなく戦わざるを得なかったというのは、いささか破れかぶれな話ではある。山本五十六自身は1943年4月18日、ソロモン上空で撃墜され戦死した。近衛文麿は敗戦後、青酸カリを服用して自殺した。
戦後のしばらくは、日独伊三国同盟は陸軍と松岡洋右らの外務官僚が主導したもので、その結果として日本の敗戦につながったとして陸軍悪玉論が唱えられ、一方の海軍は三国同盟には一貫して反対し、日米戦争を回避しようとしていたという海軍善玉論が一般的だった。しかし現在ではそのような単純な色分けは正しくなく、海軍の中で反対していたのは米内光政、山本五十六ら一部の上層部だけで、軍令部中枢の幕僚はむしろ積極的推進派だったことが明らかにされている。海軍上層部にも三国同盟に反対だったからと言って戦争責任が免罪されるわけではない。
世論の大歓迎
なかよし三国同盟
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調印式の翌日、9月28日の朝日新聞は「いまぞ成れり、“歴史の誓い”」の大見出しのもと、外相官邸で開かれた三国同盟締結祝賀会のもようを報じている。
(引用)天皇陛下万歳!ヒトラー総統万歳!イタリア皇帝陛下万歳!ムッソリーニ万歳!…………降るような星月夜、露もしめやかに落ちる麹町区三年町の外相官邸には感激の声がこだました二七日の夜であった。三国同盟締結の夜である。まさしく歴史に残るこの夜の情景――――決意を眉宇に浮かべて幾度か万歳を唱えて誓いの杯をあげる日独伊の世界史を創る人々、紅潮する松岡外相の頬、高く右手をあげて「ニッポン!ニッポン!」と叫ぶオット独大使、大きな掌で固い握手をしてまわるインデルリ伊大使、条約の裏に“密使”として滞京中のスターマー(シュターマー)独公使がきょうは覆面を脱いでにこやかに杯を乾す。“世界史転換”の夜の感動であった――――。<大木毅『日独伊三国同盟』2021 角川新書 p.184>この「世界史の転換」によって日本とアジアで無数の戦死者が出て、さらに5年後には東京は米軍の大空襲にさらされ、広島・長崎の原爆犠牲者が出ることになった。
日独伊三国同盟の拡大
ナチス=ドイツは1940年9月27日の日独伊三国同盟の締結後、10月にルーマニアに侵入して圧力をかけ、11月にハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアを日独伊三国同盟に加入させ、衛星国とした。さらに41年3月1日、ドイツ軍はブルガリアに侵入して同じく三国同盟に加入させた。これらのヨーロッパ中央部へのドイツの侵出は、ソ連との決戦に備えるという意味があった。さらにヒトラーはユーゴスラヴィア王国に圧力をかけ、三国同盟への加入に同意させ、それに反対した軍部などの反ドイツ勢力がクーデターをおこして親ドイツ政権が倒されたのを受け、4月にバルカン侵攻を開始、ユーゴスラヴィア、ギリシアを制圧する。日ソ中立条約 日本陸軍は日独伊三国同盟を機に伝統的なソ連を仮想敵国とする北進論から、東南アジアに進出して石油などの資源を確保しようという南進論に転換した。そして南進のためにはソ連の脅威を無くしておく必要があると考えてソ連に接近した。一方のソ連もドイツとは不可侵条約を締結していたものの、ヒトラーの東欧への野心も警戒していたので、スターリンは、日本の松岡外相の働きかけに応じて、同じ41年4月に日ソ中立条約を締結、その動きに備えた。スターリンは将来のドイツとの対決を不可避と考えていたので、東アジアでの日本との戦争は避けなければならないと判断、日本との同盟に踏み切ったのだった。しかし、予想よりも早く1941年6月22日にドイツ軍の奇襲が始まると、それを察知することが出来ず、独ソ戦では当初の苦戦を強いられることとなった。
独ソ戦 ヒトラーの西方での最大の作戦は、イギリスを征服することであった。しかし、イギリス本土に上陸するためには海軍力が決定的に不足していることが分かり、やむなく空軍による爆撃だけを行った。しかしイギリスはチャーチルを中心にこの“バトル・オブ・ブリテン”を耐え抜き、イギリス征服失敗というヒトラー最初の軍事的挫折を味わった。一方、東方ではルーマニアなど東欧への進出はソ連に強い警戒心を抱かせるようになっており、ソ連との決戦に傾いたヒトラーは電撃的な作戦をとらざるを得なくなり、1941年6月、独ソ戦に踏み切った。これによって独ソ不可侵条約は破棄され、ソ連が連合国側に加わるという、戦況の大転換が起こった。
連合国の動き
ヨーロッパでのフランスの敗北によってイギリスが孤立化したことでアメリカ合衆国のフランクリン=ローズヴェルト大統領は危機感を強めた。さらに、1940年9月の日独伊三国同盟の結成を受けて、対ファシズム戦争への参戦の決意を固め、11月に大統領選挙で三選を果たした。翌41年正月の年頭教書では「四つの自由」を擁護する責任を表明、3月に議会に武器貸与法を提出し、成立させた。これによって連合国に対する武器貸与という形で実質的に参戦を果たし、イギリス・中国に武器を貸与した。6月に独ソ戦が始まると、アメリカはソ連に対しても武器貸与を行い、連合国の結束を強めた。1941年8月、F=ローズヴェルトとイギリス首相チャーチルは大西洋上で会談して大西洋憲章を発表、民主主義をファシズムから守るという戦争目的を明らかにした。太平洋戦争とアメリカの参戦
世界大戦が独ソ戦という新たな戦争に転換したことを受け、日本軍はこの際、日本に対する輸出制限を強化しているアメリカに決戦を挑み、東南アジア方面への進出を実行すべきであるとの強硬論が台頭し、1941年7月、南部仏印進駐に踏み切った。それに対してアメリカは8月、日本への石油輸出全面禁止で応じ、対立は決定的になった。すでに連合国と枢軸国の明確な対立軸は形成されていたが、アメリカは根強い孤立主義があったために、ローズヴェルト大統領は正式に参戦できないでいた。日米間の衝突回避のための日米交渉も断続的に行われていたが、アメリカは日本に対する経済制裁を緩めず、日本もまた中国での利権維持にこだわったため交渉は決裂、日本軍は1941年12月8日、真珠湾攻撃に踏み切り、太平洋戦争が始まった。これによってアメリカに参戦の口実を与えることになった。日本の攻撃を受けたアメリカが日本に宣戦布告したため、日独伊三国同盟の第3条により、ドイツ・イタリアもアメリカに対する宣戦布告に踏み切った。三国同盟は当初はこれでアメリカの参戦を抑止できるして構想されたものであったが、日本自身がアメリカとの戦端を開いたことによってアメリカの参戦を招き、自動的にドイツ・イタリアも参戦してヨーロッパとアジアで別々に展開されていた戦争が、まさに世界戦争への転換したことになる。
まとめ
三国の共通性 日独伊三国同盟は、日本・ドイツ・イタリアの三国(後にいくつかの親ドイツ国が加わる)が、それぞれが抱える戦争での勝利という国家目標を達成するために手を結んだ、軍事同盟であった。この三国に共通する歴史的性格は次の三点が指摘されよう。・いずれも国際連盟から脱退し、孤立状態にあった。
・ファシズム国家(独裁政治)、あるいは軍国主義国家(軍事政権)であった。
・19世紀に近代的国家統合をとげた、比較的、新しい勢力であった。
軍事同盟思想の崩壊 三国同盟であり、アメリカの参戦を抑止するための軍事同盟であったが、結局はアメリカの参戦を抑止することはできなかった。軍事同盟による世界秩序維持という、ビスマルク外交の構想が崩壊して第一次世界大戦となったことを反省して、20世紀は国際連盟を中心とした集団安全保障による世界平和の維持という構想が打ち出されていたが、国際連盟自身の無力化もあって、そこから脱退した三国が、旧態然たる軍事同盟を結んだこと自体が歴史に逆行することであったと言える。もはや軍事同盟間の武力均衡によって戦争を抑止するという思想は、日独伊三国同盟のように、むしろ戦争の導因となり、平和を破壊するものであることが明確になっている、と認識すべきであろう。
参考 日本にとっての三国同盟
日本が狙ったこと 日独伊三国同盟締結で日本が意図したことは、条文上ではドイツ・イタリアにアジアにおける日本の主導権、いわゆる「東亜新秩序」構想を承認してもらうことであったが、背景には長期化した日中戦争の打開と、ドイツ・イタリアと結ぶことで、アメリカを牽制することにあった。しかし具体的なねらいとしてそこに含まれていたのは、東南アジアの石油その他の資源の確保にあった。陸軍は当時、ドイツの勝利は確実と考えていたので、ドイツと同盟を結んでおくことで、戦後の有利な立場を得ようとした。つまり、ドイツが勝った場合、ドイツがイギリス・フランス・オランダなどの植民地を独占する恐れがあるので、事前にドイツと同盟し、東南アジアでの実績をつくっておくことが必要と考えていた。(引用)端的に言いまして、日独伊三国軍事同盟を日本が締結した目的は、別なところにあります。日本に何をもたらしたか 「バスに乗り遅れるな」というかけ声で、ドイツの勝利を信じ、手を結んでしまった日本であったが、それが誤った選択であったことはまもなく判明した。独ソ戦の戦況は、1943年2月のスターリングラードの戦いでドイツの敗北へと向かい始め、太平洋では同じ時期にガダルカナル撤退が始まり、ドイツと日本の敗色が濃くなり、まず1943年9月にイタリアが降伏、ムッソリーニは脱出したものの44年6月にローマが解放され、ドイツは45年4月にヒトラーが自殺、翌月降伏した。日本は最後まで戦い、45年4月の沖縄戦で国土が戦場となり、8月の広島・長崎への原爆投下、ソ連参戦による満州その他への侵攻によって8月15日無条件降伏で終わった。このように見ていくと、日本にとって日独伊三国同盟の締結は、太平洋戦争という敗戦への道に向かっていく上で、ポイント・オブ・ノー・リターンとなった、と見ることができる。 「三国軍事同盟締結は何をもたらしたか」という問いに対する、半藤一利さんの発言を聞いてみよう。
1940年6月にフランスがドイツに降伏しますが、そうなると、第二次世界大戦でドイツを相手に戦っている国はイギリスしかありません。ということは、そのまま終戦になるのではないかという見通しもありましたから、終戦になったときは、東南アジアに植民地をもっている宗主国――イギリスがその最たるものですが――、フランスやオランダも含めて、植民地の主がいなくなってしまう。となれば、戦勝国であるドイツがすべてかっさらっていってしまうかもしれない。日本はドイツと防共協定を結んでいましたが、それだけではもったいない。軍事同盟にしておいて、講和会議に日本も戦勝国として参加しよう………そういう狙いがあったのです。<半藤一利・加藤陽子・保阪正康『太平洋戦争への道1931-1941』2021 NHK出版新書 p.160 加藤陽子さんの発言>
(引用)端的に言えば、アメリカを戦争に参加させるための「証文」をつくってしまったようなものです。アメリカ人は、中立法を守って、できるだけヨーロッパ戦争に参加しないという世論がものすごく強かったのですが、三国同盟以後は、アメリカ人もナーバスになり、日本を敵視するようになります。…………だから三国同盟は、一言で言えば、アメリカを戦争参加に促したと言っていいでしょう。そして、日本はこのときノー・リターン・ポイントを超えたのです。もはや戻れないところに、その先の一歩に踏み出してしまったと、私は思います。<半藤一利・加藤陽子・保阪正康『太平洋戦争への道1931-1941』2021 NHK出版新書 p.160 半藤一利さんの発言>