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ネヴィル=チェンバレン

イギリス首相としてナチス=ドイツに対する宥和政策で対応、ミュンヘン会議でズデーテン地方の割譲を承認した。第二次世界大戦でドイツ軍のスウェーデン上陸を阻止出来ず、1940年5月、首相を辞任。

 イギリスの著名な政治家一家の出身。父のジョセフ=チェンバレンは19世紀末の植民地相として帝国主義政策を推進した。兄はロカルノ体制の時の外相オースティン=チェンバレン。ネヴィル=チェンバレンは保守党党首として首相(在任1937~40年)を務め、ナチス台頭期のイギリスの舵取りを行った。

宥和政策

 第一次世界大戦後のイギリスには、フランスが対ドイツの強硬策を主張したのに対して、賠償問題では敗戦国ドイツの復興を支援して負担を軽減し、あるいは軍備の平等化というナチス=ドイツの要求を正当なものと容認しようという意見が強かった。また一部にはナチス=ドイツの影響を受けたイギリス=ファシズムも台頭していた。またナチス=ドイツの台頭はボリシェヴィキのソ連を抑えるためには有効だという見方も強かった。イギリスの労働組合のストライキはコミンテルンが裏で糸を引いているという疑念を資本家階級は強く持っており、政権にとってもナチス=ドイツよりもソ連を危険視する見方が強かった。

ミュンヘン会談

 ネヴィル=チェンバレンもそのような宥和政策を継承し、さらにナチス=ドイツの領土的野心が露骨になる段階においても、一定程度の妥協をすることによってヒトラーを押さえ込むことが出来ると考えた。ヒトラーがオーストリア併合を実行し、ズデーテン地方の割譲を要求すると、民族自決というヒトラーの掲げる大義名分に反論することなくそれを容認した。1938年9月のミュンヘン会談ではフランスのダラディエに働きかけ、宥和政策によってヒトラーの要求をのみ、それに以上の侵略行為を阻止出来ると判断した。ネヴィル=チェンバレンの判断は、当時においてはヨーロッパの平和を維持するための現実的で勇気ある判断として大いに評価され、ミュンヘン会談を終えてロンドン空港に帰ったチェンバレンはイギリス国民から大歓迎を受けたのだった。

チェンバレンの誤算

 しかし、ミュンヘン会談のチェンバレンの判断はドイツ人の民族自決を認める一方で、主権国家であるチェコスロヴァキアとチェコ人の民族自決を無視するという最大の誤りの上に成り立っていた。また、議会制民主主義の破壊、国内での人権や自由の無視というヒトラーの独裁政治にたいしても無批判であり、単なる国家間取引で平和を維持出来るという楽観的な誤りであった。その背景にはソ連を危険視する前提があったことは確かである。結果として、ミュンヘンでのチェンバレンの判断はヒトラーの野心を野放しにするという、決定的な誤算となって現れた。

第二次世界大戦

 ヒトラーはミュンヘン会談によって承認されたズデーテンを足場に、チェコスロヴァキアを解体し、東方へのドイツ人の生存圏の拡張という目標を具体化させていった。1939年、ヒトラーがポーランドに対してダンツィヒの併合を要求するにおよんで、チェンバレン首相はポーランドとイギリスは同盟関係にあったので、ついにドイツとの戦争を決意、9月、ポーランドに侵攻すると、イギリスはフランスとともにただちに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。たが、チェンバレン首相はポーランド救援に派兵することはせず、宣戦布告しても戦闘はしないという奇妙な戦争といわれる状態になった。東部戦線で勝利を占めたドイツは、1940年4月、その矛先を西に向け、デンマーク・ノルウェー侵攻した。特にノルウェーをドイツに占領されることは大きな危機であるので、イギリス海軍が派遣され、ドイツ軍のノルウェー北部への上陸作戦を妨害しようとしたが失敗した。チェンバレン内閣はこの海戦の敗北の責任をとる形で総辞職し、1940年5月に対独強攻策を主張していたチャーチルが首相に就任した。
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