奇妙な戦争
1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まりイギリス・フランスがただちにドイツに宣戦したにもかかわらず、陸上では1940年5月まで交戦しなかったことからこの言葉がある。
1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻に対し、イギリス・フランスはポーランドと相互援助条約を締結していたので、ただちに宣戦布告を行い、第二次世界大戦が開始された。しかし両国とも軍隊の派遣などのポーランドへの軍事支援を行わず静観した。これはネヴィル=チェンバレン内閣が依然として宥和政策に固執しており、ドイツの真意を見誤っていたためである。またヒトラーも、ポーランド作戦の勝利によって英仏を講和に引きずり込もうと考えていた。そのため、ドイツと英仏連合軍は宣戦布告を交わしているにもかかわらず、1940年5月まで半年以上にわたり、交戦がなかった。また、イタリアも漁夫の利を占めようという態度で参戦していなかった。
海上では互いの封鎖作戦を阻止すべく海戦が行われていたが、この陸上での戦闘のない戦争、にらみ合い状況はフランスでは「奇妙な戦争」、イギリスでは「いかさま戦争」と言われている。また、チャーチルは、自伝<『第二次世界大戦』1 p.273~>の中でチェンバレンの言ったという「たそがれ戦争」をその章名につけている。1940年5月にチェンバレンにかわって内閣を組織したチャーチルは、宥和政策をきっぱりと捨てたが、ヨーロッパの英軍はすでに追いつめられており、やむなくダンケルクでの撤退作戦を実行せざるを得なかった。
海上では互いの封鎖作戦を阻止すべく海戦が行われていたが、この陸上での戦闘のない戦争、にらみ合い状況はフランスでは「奇妙な戦争」、イギリスでは「いかさま戦争」と言われている。また、チャーチルは、自伝<『第二次世界大戦』1 p.273~>の中でチェンバレンの言ったという「たそがれ戦争」をその章名につけている。1940年5月にチェンバレンにかわって内閣を組織したチャーチルは、宥和政策をきっぱりと捨てたが、ヨーロッパの英軍はすでに追いつめられており、やむなくダンケルクでの撤退作戦を実行せざるを得なかった。