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真珠湾攻撃

1941年12月8日、日本軍がアメリカ海軍のハワイ真珠湾基地を奇襲、同日、日本軍はマレー上陸も敢行、日本はアメリカ・イギリスとの戦争に突入、アメリカも参戦して第二次世界大戦は新しい段階となった。この太平洋戦争は1945年8月15日まで続く。

太平洋戦争の開戦

 アメリカ合衆国は満州事変など中国大陸への侵出を進めつつあった日本軍の動きを警戒して、1932年にアメリカ艦隊の主力を本土基地からハワイの真珠湾(パールハーバー)へ移動させていた。ハワイは太平洋のほぼ中央に位置し、日本に対する示威的・牽制的軍事基地として重要な位置を占めていた。

真珠湾

 ハワイは1810年にカメハメハ王によって統一された独立国ハワイ王国があったが、早くからアメリカ人が捕鯨や製糖業で進出、1893年にハワイ王国を滅ぼし、1898年には併合していた。ホノルルから西に数十キロのところにある真珠湾(パールハーバー)はすでに1875年にアメリカ以外の国に貸与しないという取り決めを行い、1887年には海軍補給基地を建設していた。真珠湾と言われるように美しく、水深が20mぐらいありながら、湾の出入り口が狭く、波静かな良港だった。ハワイを併合したアメリカは1901年から湾の出入り口を広くする浚渫工事を開始、近代的な軍港となった。第一次世界大戦では太平洋上の最大の海軍基地となっていた。

太平洋戦争の開戦

 1941年12月8日(現地時間7日)早朝、日本海軍の特別攻撃隊が真珠湾を奇襲、多大な被害をあたえた。日米両国は4月から日米交渉を続けていたが、東条英機内閣は11月末までの交渉が不調であったことを受け、12月1日の御前会議で開戦を最終決定した。しかし、戦力的に不利な日本海軍が勝利を占めるには敵の不意を突く必要があるとの判断に立ち、緒戦の勝利によって早期の講和に持ち込みたいという考えで、攻撃は宣戦布告と同時に行うと予定された。実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告が届いたため、アメリカ側はこれを奇襲と受け取った。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトは日本のだまし討ちであるとして非難し、国民に「パールハーバーを忘れるな!」と呼びかけ、戦争意欲を高めた。
パールハーバーの12月7日  真珠湾攻撃の日付はハワイ時間では12月7日にあたっている。日曜日の朝7時55分、攻撃が始まると教会に行く準備などをしていた人びとは、一瞬、訓練かとも思ったが、すぐに日本軍の空襲だと判った。ハワイの人びとにとってもその日は忘れられない日となった。停泊中のアリゾナは爆撃による火災が弾薬庫に引火して大音響とともに転覆し、逃げ遅れた乗組員1177人が艦とともに海底に沈んだ。攻撃は二波におよび午前10時頃終わった。日本軍による数時間の攻撃で死亡した人の数は2488人にのぼった。その大半は軍関係者であったが、一般市民も46人が犠牲となった。

奇襲とその結果

 日本海軍の連合艦隊機動部隊は赤城以下6隻の空母から、第一陣が戦闘機(ゼロ戦)43機、爆撃機51機、魚雷攻撃機89機で行われ、真珠湾などに停泊中のアメリカ海軍の艦船を破壊し、約2500人に近い死者を出した。第2次攻撃隊も発進したが、敵の反撃が想定されたため引き返し、機動部隊の南雲忠一中将の指揮でそれ以上の深追いをせず攻撃を切り上げた。アメリカの空母エンタープライズは外洋におり、戦闘には間に合わなかったが生き残った。
 この奇襲成功は国民の愁眉を開いたとして歓迎され、日本中が勝利に沸いた。真珠湾攻撃が行われたのと同じ12月8日、日本軍はマレー半島上陸作戦を成功させ、10日は海軍がマレー沖海戦でイギリス海軍を撃破、陸軍はグァム上陸をおこなった。さらに翌42年春まで、香港マニラシンガポール占領という勝利が続き、戦争の行方は楽観視されるようになったが、東南アジアから太平洋におよぶ広大な戦線を維持するための兵力や石油を始めとする物資の補給に次第に苦しむこととなる。

第二次世界大戦の展開

 日本の宣戦布告は12月8日であったが、真珠湾奇襲から遅れてアメリカ・イギリスに通告された。この遅れは意図したものとも翻訳に手間取ったためとも言われ、はっきりしない。F=ローズヴェルトが故意に遅れて受けとったという説もある。いずれにせよ、予測はされていたので、アメリカもただちに宣戦布告、日米戦を主軸とする太平洋戦争(当時の日本は大東亜戦争と言った)が開始された。12月11日はドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告、アメリカも両国に宣戦したので、これによってアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦することになった。これまではヨーロッパ大陸と中国大陸での戦闘であったものがこれによって太平洋という広大な海域を戦場とする、戦艦、空母、航空機を駆使した海上の機動力が帰趨を決する戦争へと変質した。 → 日本と第二次世界大戦

真珠湾の世界史的意義

 日本ではアメリカ・イギリスという工業化の最高水準にある国家と対等に戦う戦争に突入し、しかも緒戦の勝利を占めたことで、民族的自信や自尊の気風が強まった。しかし、第二次世界大戦の経緯から見れば、真珠湾奇襲の意味は、アメリカの第二次世界大戦参戦(しかも感情的な日本の奇襲に対する反感を持って)が実現した、という点にあった。すでにヨーロッパ大陸では独ソ戦が開始されて大きく局面が変化し、ローズヴェルト大統領も参戦は必至と判断しており、真珠湾奇襲の4ヶ月前の8月、チャーチルとの間に大西洋憲章を出し、ファシズムとの戦いという戦争目的で合意していた。しかし国内では孤立主義に固執する人々や依然としてドイツよりもソ連を危険視する保守派も多く、参戦には踏み切れないでいた。ひそかにローズヴェルトとその閣僚は国民を納得させる参戦の機会が来るのを待っていたのだった。4月から続けていた日米交渉も、日本に譲歩する考えはなく、追い込んで戦争に持ち込みたいのが本音であったと思われる。日本軍の真珠湾攻撃はこのようにアメリカに参戦の絶好の口実をあたえたことになった。アメリカの参戦を心待ちにしていたチャーチルは、日本軍の真珠湾攻撃の知らせを聞いて「これで勝てる!」と確信し、その夜はぐっすりと眠れたと『第二次世界大戦回顧録』に書いている。
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