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イギリス領マラヤ

19世紀にマレー半島は全域がイギリスの植民地支配をうけることとなった。それを総称してイギリス領マラヤという。1957年にマラヤ連邦として独立した。

 19世紀イギリスが植民地化したマレー半島(マラヤ)を総称してイギリス領マラヤという。マレー半島はマラッカ王国が衰退した後、多くのイスラーム教国の小国に分裂している状態であった。その地に19世紀に入ってイギリスの進出が積極化する。その形成過程は次のようにまとめられる。
1786年
イギリス東インド会社、マレー半島西側のペナンを獲得。
1819年
ラッフルズシンガポールに上陸。ジョホール王から商館建設を認められる。
1823年
シンガポール、イギリス領となる。
1824年
イギリス=オランダ協定 マレー半島を勢力圏とすることをオランダが認める。
1826年
ペナン、マラッカ、シンガポールを海峡植民地とする。
1867年
海峡植民地三カ所を直轄地とする。
1870年代
マレー人の小国、セランゴール、ネグリセンビラン、パハンなどの内紛に介入する。
1874年
パンコール協定 マレー人の小国にイギリス人理事官を起き助言する権限を認めさせる。
1895年
マレー人の小国4カ国を保護国とし、マレー連合州とする。
19世紀末
非連合州に対する圧力を強め、事実上植民地支配下に置く。
1909
北部の4州をタイから割譲される。
 こうしてマレー半島は、直轄植民地(シンガポール、マラッカ、ペナン)、マレー連合州4州、その他非連合州という程度の差こそあれ、ほぼ一括してイギリス植民地となった。イギリスはマレー半島で19世紀にはスズ、20世紀にはゴム園プランテーションで大きな利益を上げ、シンガポールは自由貿易港として東南アジア最大の貿易港に発展した。しかしその反面、マレー半島には中国の華僑資本が進出し、さらに多くの中国人労働者(苦力)やインド人労働者(印僑)が流入して土着のマレー人は少数派となり、独立後も複雑な人種問題を残している。 → マラヤ連邦の独立

日本軍のマレー占領

1941年12月8日、太平洋戦争勃発と同時に日本軍がマレー半島に侵攻、42年2月にシンガポールを攻略し、マレー半島はそれ以後日本の軍政下に入ることとなった。

   日本は中国での日中戦争に行き詰まり、アメリカの経済封鎖もあって東南アジア方面に進出して打開を図ろうという南進論を強めていった。1941年7月南部仏印進駐を実行したが、その先の目標の一つが錫、ゴムなどの資源の豊かなマレー半島であった。この動きにイギリスはアメリカと同調して警戒するようになった。1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃と同時(厳密にはそれより約1時間早く)にマレー半島北部のコタバル付近などに上陸、タイおよびイギリス領マラヤへの侵攻を開始した。直後に日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告、イギリスもまたアメリカとともに日本に宣戦布告し、両国は太平洋戦争に突入した。

マレー沖海戦

 イギリスは、日本のマレー半島上陸を想定して本国から最新鋭の大型戦艦プリンスオプウェールズとレパルスを派遣したが、12月10日のマレー沖海戦で日本海軍はこの二艦を撃沈、イギリスはチャーチル首相を始め大きな衝撃を受けた。
 陸上でも日本軍は半島を南下してシンガポールに迫り、1942年2月15日、シンガポールは陥落した。マレー作戦を指揮した日本軍の山下奉文将軍は「マレーの虎」と威名をとり、シンガポールでのイギリス軍パーシバル将軍に対し「イエスかノーか!」と降伏を迫ったことは有名。

日本軍による虐殺と強制献金

 シンガポールを占領し、軍政を開始した日本軍は現在もシンガポールにおける反日感情の要因となっている二つの行動を行っている。一つは華僑(中国系住民)に対する残虐行為であり、60万人に及ぶ住民を3日間にわたって尋問、反日的あるいは共産主義とみなされたものを東海岸のセントサ島に連行して殺害した。その犠牲者数は4~5万ともいわれた。もう一つは、日本軍は統治に必要な費用を現地から得ようとして、華僑協会を作って募金活動に従事させ、強制的に割りあてて徴収した。この強制献金も日本の占領政策に対する強い不満をもたらした。
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書籍案内

高島伸欣他
『マレーシア』
旅行ガイドにないアジアを歩く
2018 梨の木社

旅行案内というより、日本軍のマレー半島における行動をくまなく石碑などを訪ねて明らかにした本。心して読む必要がある。