太平洋
世界で最も広大な大洋。紀元前千年紀には現生人類が島嶼を伝わって拡散し、魚業を生業に定住した。ヨーロッパ人は1513年にバルボアが南北アメリカ大陸の地峡を東から西に横断して初めて到達。1519年にマゼランが南米大陸南端を廻って西進し、フィリピンに達した。そのマゼランが「平和の海」の意味で太平洋と名づけた。その後、スペイン、イギリス、アメリカ、ドイツ、日本などによって分割統治された。第二次世界大戦後、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、ナウル、キリバス、サモア、フィジー、トンガ、サモアなどが独立したが欧米諸国領として残っている島もいい。
太平洋の地域区分
太平洋諸島、つまりオーストラリア大陸を除く- メラネシア(黒い島々、の意味)…… ニューギニア・ビスマルク諸島・フィジー・ニューカレドニアなど
- ミクロネシア(小さい島々、の意味)…… マリアナ諸島(グァム、サイパン)、カロリン諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島など
- ポリネシア(多くの島々、の意味)…… ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結ぶ三角形内の島々(タヒチ、サモア、トンガなど)
太平洋への人類の拡散
太平洋では、ミクロネシア人がまずマーシャル諸島やカロリン諸島に住みついた。しかし、壮大な固懐を成しとげたのはポリネシア人たちだった。ニューギニアを出た一行は、紀元前1000年ごろトンガおよびサモアに達し、紀元300年ごろにはさらに東のマルケサス諸島に移動する。その後100~200年かかってイースター島およびハワイ諸島に到達した。太平洋とインド洋上に残された最後の大きな島々に人が住みつくのは、紀元800年ごろのことだ。ポリネシア人はニュージーランドに到達し、インドネシアを出発した人々は、インド洋上の小島をつたってマダガスカル島に移住した。<クライブ・ポンディング/石弘之他訳『緑の世界史上』1994 朝日選書 朝日新聞社 p.56>ヨーロッパ人の進出
大航海時代のさなか、1513年にスペイン人のバルボアはパナマ地峡を横断して、初めてその西に広大な海が広がっているのを見た。バルボアはこの海を「南の海」と命名し、海岸でスペインの領有を宣言した。南の海と名づけたのは、バルボアが横断したパナマ地峡の部分はほぼ東西に走っていたので、陸地から見て海が南に位置していたからである。この呼び方がしばらくの間、ヨーロッパ人たちの間で用いられた。それより前、イタリア人アメリゴ=ヴェスプッチは1503年に、自分が探検したのは「新大陸」に違いないと主張し、それを支持したドイツ人ヴァルトゼーミュラーが1507年に制作した世界図ではこの新大陸に「アメリカ大陸」という名を付けていたが、その大陸の西はどのようにアジアとつながっているかは未知であったので、ぼかすしかほかはなかった。<以下、増田義郎『太平洋―開かれた海の歴史』2004 集英社新書 による>
ポルトガルとスペインの競争
さらにバルボアの太平洋発見の前年、1512年にはポルトガル人は東廻りで香料の産地モルッカ諸島に到達し、スペインは遅れをとっていた。両国は1494年にトルデシリャス条約を締結し、スペインは南米のブラジルを通る南北の子午線の西側を獲得していたが、条約ではその裏側のアジアの境界には言及していなかった。スペインは当然自分たちの領分だと思っていたモルッカ諸島にポルトガル人が先に到達したので、大いに焦り、西回りで到達する必要に迫られた。そのためには新大陸の中にアジアに抜けることのできる海峡を見つけ出さなければならなかった。マゼランの太平洋横断
そこで実行されたのがマゼラン船団による西回り航路の開拓であった。ポルトガル人であったマゼランは東廻りでモルッカ諸島に行ったこともあり、西回りでも自信を持ち、スペインのカルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)を説得、1519年8月にセビリャを出帆した。1520年10月21日、大陸の南端に海峡を発見、38日かかってそれを通過し、11月28日、はじめて大会の中に乗り出した。この海峡は後にマゼラン海峡と名づけられた。マゼランは当初、大陸はインディアス(アジア大陸)から突き出た大きな半島と考え、この海は「大きな湾」であり、香料諸島はその中にあるだろう想像していた。そこで陸地に沿ってしばらく北上すれば湾曲していてそれに沿っていけばモルッカに到達すると考えていたが、陸地はいつまで経っても湾曲せず、やむなく北西に進路を変えてた。その結果、大海を三ヶ月にわたって航海し、グァムに到着するまで約4ヶ月の苦しい航海であったが、その間、嵐には一度もあわなかった。そこでマゼランはこの海を、ラテン語で Mare Pacificum (「平穏な海」の意味)と名付けた。ここから英語で Pacific Ocean と言われるようになり、それを日本語訳したのが「太平洋」である。なお、大西洋は Atrantic Ocean という。
マゼラン船団は1521年3月に太平洋の西端のフィリピンに到達したが、彼自身は翌月、セブ島で現地の首領ラプラプによって殺され、遺された船団が11月に目的のモルッカ諸島に入った。
サラゴサ条約
マゼラン船団の太平洋横断は大航海時代を飾る華々しい成功であったが、スペインはモルッカ諸島に権利を有することには失敗した。それは太平洋を西回りで渡ることはできても、東廻りでアメリカ大陸に帰ることが当時の航海知識と技術では困難だったからである。何度か太平洋に東廻り横断に失敗したスペインはモルッカ諸島を諦める。それが1529年のサラゴサ条約である。その結果、スペインの関心はフィリピンに移る。大圏航路の発見
スペイン国王フェリペ2世はメキシコ副王にフィリピン諸島殖民のための船隊派遣を命じ、1564年にレガスピを総指揮官とする艦隊が派遣された。翌年2月にフリピンに到着したレガスピはフィリピンの領有を宣言した。この艦隊に加わっていたウルダネーダは、メキシコへ帰る艦隊の航路の検討をまかされ、6月1日にサン・パブロ号というガレオン船でセブ島を出帆し、思い切った高緯度に上って日本近海から西に進んだ。10月8日にアカプルコに到着、2万キロを130日で走破することに成功した。これが黒潮に乗って日本近海まで北上し、北緯40度あたりの偏西風をとらえて東に向かう、しかも大圏コースで距離的に最も短いコースであった。このコースは《ウルダネーダの道》と呼ばれ、これによってスペインは、アカプルコとマニラを、行きはほぼ赤道に並行して西に向かう卓越風に乗って航行し、帰りは黒潮と偏西風を利用して大圏コースで帰るという往復コースを「発見」し、ガレオン貿易とフィリピン植民地支配を展開することとなる。18世紀の太平洋探索
16世紀にヨーロッパ人が太平洋に進出、スペイン船が往来するようになったが、その全貌は17世紀後半になって明らかになっていなかった。特に南太平洋はなおヨーロッパ人にとって未知の世界であり、もう一つの大陸があるのではないかとさえ期待されるようになった。17世紀にはオランダ人のタスマンがオーストラリアの周辺を探索してニュージーランドに達したが、その実態はまだ明らかにならなかった。18世紀に入り、イギリス、オランダ、フランスの船が未知の大海を目指して探検船を派遣するようになった。1767年にヨーロッパ人として初めてイギリスのウォリスがタヒチに到達、この遠い海域に大久野島があることが知られ、ついで1768年にフランスのブーゲンヴィルが南太平洋の航海を行ってタヒチに到達し、帰国した後「南海の楽園」として紹介したことから、南太平洋探索の期待はさらに大きくなった。
クックのハワイ到達 ようやく全貌が明らかになったのは、イギリス人クックが1768~1780年にかけて三度にわたって行った探険によってであり、クックはニュージーランド、タヒチ、イースター島などのミクロネシアの島々を巡って新たな島嶼を発見するとともに、海図制作と自然や天然資源の情報を収集した。1778年1月18日、ヨーロッパ人として初めてハワイ諸島に到達したクックは、さらに北太平洋から北極海に抜け、北米大陸の北側を回って大西洋に抜けるコースを探ろうとした。氷山に遮られたためいったんハワイに戻ったところで、現地人とのトラブルによって命を落とした。
太平洋の分割
1848年、アメリカのカリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが起こり、アメリカの領土が太平洋岸に達した。これによってアメリカの太平洋進出が開始され、特に捕鯨業は広い太平洋を漁場として展開され、その際の寄港地が必要になることから、アメリカは1853年、ペリーを鎖国中の日本に派遣して開国を要求した。19世紀後半になると、アメリカだけでなくイギリス、フランス、ドイツが太平洋への関心を強め、そこに明治維新を達成し急速に近代化を遂げつつあった日本が割り込んでくると言う情勢となった。アメリカは1859年、ハワイ駐留海軍のガンビア号がハワイの遥か西方の無人島を発見、1867年にミッドウェー島と名付けて領有を宣言、さらに同年にアリューシャン列島をロシアから購入して北太平洋の漁場を確保した。ハワイ南西のジョンストン島もアメリカは1858年に領有を宣言している。
ハワイ ハワイ諸島はクックの到来後、1810年にカメハメハ王によって諸島が統一され、ハワイ王国が成立していた。アメリカ人(白人)は捕鯨業に続いてサトウキビの栽培と砂糖生産をめざして多数が移住し、かれらは王国の政治と経済を牛耳るようになっていった。1860年代以降は中国人や日本人の移民も増え、白人はハワイをアメリカに併合しなければならないと考えるようになった。1875年には真珠湾をアメリカは優先的に使用できるようにしていた。
サモア ポリネシア群島の一つサモア島は1722年にオランダ人のロッヘフェーンが発見。19世紀後半にアメリカ、イギリス、ドイツの三国がそれぞれ戦略上の要地であることからサモアの領有をめぐって激しく争っていたが、1899年に原住民の王位継承問題で対立が再燃し、3月には流血の惨事が起こった。前年にドイツのヴィルヘルム2世はこの島の分割案をイギリスに提案し、イギリスを説得するためセシル=ローズを利用しようとした。ドイツはサモア諸島を三国で分割しようとするものであったが、セシル=ローズは1895年末のジェームソン侵入事件の失敗でケープ植民地首相を辞任しており、往年の力を無くしていたため、イギリス政府ソールズベリ内閣は拒否し、妥協は成立しなかった。<鈴木正四『セシル・ローズと南アフリカ』1980 誠文堂新光社 p.203>
注意 太平洋戦争という矛盾 1941年12月8日、日本軍による真珠湾攻撃から始まった日米間の戦争は「太平洋戦争」といわれる。誰しもその戦争の名を口にするが、それは「平和な海」戦争、という自己矛盾した名称であったことに気付かないわけにはいかない。 → 南洋諸島
太平洋での核実験
マーシャル諸島は第一次世界大戦で日本の委任統治領となり、第二次世界大戦後はアメリカの信託統治領となった。その時期の1946年から1958年まで、マーシャル諸島の中のビキニ環礁、エニウェトク環礁、ロンゲラップ環礁などでアメリカの核実験が繰り返えされた。1954年3月1日にはビキニ環礁で水素爆弾の実験を行い、その時日本の漁船第五福竜丸が被ばくするという事故が起こっている。太平洋・オセアニア地域の独立つづく
1960年代から70年代にかけて、太平洋上に点在する島嶼が次々と独立を宣言した。1962年には西サモアが南太平洋地域で初めて独立を達成した。サモア諸島の西部であるこの地はドイツ領を経て1919年にニュージーランドの委任統治、ついげ信託統治領となり、イギリス連邦内の立憲君主国として独立した(1997年にサモアと国名を変更)。以後、独立したい国の主なものは次の通りである。( )内は独立前の状況。1968年にナウル(イギリスなどの信託統治領)、1970年トンガ(イギリス領から独立した王国)、同年フィジー(イギリス領)、1975年パプアニューギニア(オーストラリアの信託統治領)、ツバル(イギリス領)、1978年ソロモン諸島(イギリス領)、1979年キリバス(イギリス)、1980年バヌアツ(イギリス領)、1981年パラオ(国連信託統治領から自治国都なり、94年に独立)。南太平洋フォーラム
1971年、南太平洋地域の独立国・自治国の15ヶ国地域協力機構として南太平洋フォーラムを結成した。これはフランスの核実験が1966年からフランス領ポリネシアに属するムルロア環礁で開始され、毎年のように繰り返して行われるようになった(1996年までつづく)ことに対する抗議であり、また共通の海洋資源の保護、熱帯雨林の保護などの環境問題にとりくむための協力機構だった。2000年には太平洋フォーラムと改称している。南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)
相次ぐ核実験と環境の悪化に危機感を持った南太平洋地域諸国は、1975年にフィジーで非核太平洋会議を開催、フランスのムルロア環礁における核実験に抗議、さらに1985年に南太平洋フォーラムを構成する諸国は南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約という)を締結し、核実験の禁止と共に核兵器の保有、配備なども禁止した。これは地域的な核兵器を禁止する国際協定として、1967年に中南米諸国32ヶ国で締結されたトラテロルコ条約に次ぐものであり、広い意味での核兵器廃絶運動の大きな前進という意義をもっている。NewS マーシャル諸島外相、アメリカ下院で訴える
2021年10月21日、アメリカ下院天然資源委員会の小委員会はオンラインで公聴会を開き、太平洋の小さな島国マーシャル諸島共和国のネムラ外相が核実験の影響に関する証言を行った。外相は健康被害、国土の破壊、補償の不十分さなどを告発し「アメリカは核実験の結末について責任を取っていない」と述べた。外相によれば、マーシャル諸島でアメリカが行った核実験は広島型原爆1.7個を12年間毎日爆発させた規模に匹敵しており、ビキニ環礁では核実験のために全島民が移住させられてから、アメリカ政府の韓国で帰島したものの、放射線汚染で安全な食べ物もなく再移住を余儀なくされている。水爆実験の死の灰で汚染されたロンゲラップ環礁では骨のない赤ん坊が産まれた。ビキニ環礁の西にあるエニウェトク環礁では、核爆発でできたクレーターに放射能汚染廃棄物や米本土の核実験場の汚染土を流し込んでコンクリートでふたをした「ルニット・ドーム」があるが、気候変動で海水面が上昇しドームのコンクリートが浸食され廃棄物がもれる危険性が指摘されている。外相は「住民は合意のまいまま人体実験に晒され、犠牲者は不平等に扱われている」とアメリカ政府を厳しく批判した。<日刊赤旗 2021/10/23 記事> → ビキニ環礁の項を参照