日本と第二次世界大戦
一般に第二次世界大戦は1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻から始まるとされる。しかし開戦当初はヨーロッパに限定された戦争であり、日本とアメリカは参戦していなかった。1937年7月から日中戦争を続けていた日本が、1941年12月、真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が始まったことでアメリカが参戦、太平洋を含む文字どおりの世界戦争となった。
日中戦争の打開をめざし南進へ 1940年9月
1937年7月7日の盧溝橋事件に始まった日中戦争は、軍の見通しに反して長期化し、重慶に遷った中国政府を支援するアメリカなどの援蔣ルートを遮断するなどの打開策に迫られていた。一方、1939年5月には満州国とソ連の国境でソ連軍と衝突したノモンハン戦争で大きな損害が生じ、さらに8月に独ソ不可侵条約が締結されたため、日本の北進の可能性はなくなった。ドイツのポーランド侵攻 1939年9月1日、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、ドイツがポーランドに侵攻した後に西に転じ、1940年5月にオランダ・フランスを制圧すると、日本は軍部の主導でドイツとの提携と南進を決定し、1940年9月にフランス領インドシナ進駐(北部仏印進駐)を実行して東南アジアに侵出した。同1940年9月27日に日独伊三国同盟を結成し、さらに翌1941年4月13日に日ソ中立条約を結んで北方の安全を図るとともに、南進による米英との衝突に備えた。
日米交渉 1941年4月16日に近衛文麿首相はアメリカとの交渉を開始を指示、駐米大使野村吉三郎と国務長官コーデル=ハルとの会談が始まった。会談内容はフランクリン=ローズヴェルト大統領に逐次報告されたが、満州国の扱いなどで合意は困難で、ローズヴェルトも次第に開戦の傾いていった。
独ソ戦の開始 その間、ドイツはイギリスを除く西ヨーロッパを制圧したナチス=ドイツは、かねてからの東ヨーロッパに生存圏を拡げるという方針のもと、1941年6月22日にソ連攻撃に踏み切り独ソ戦が始まった。それによってソ連のスターリンは急きょイギリス、アメリカへの接近を図り、1941年8月9日にチャーチルとF=ローズヴェルトが提唱した大西洋憲章に賛意を示した。しかしまだアメリカは大戦には参戦していなかった。
アメリカとの全面戦争へ 1941年12月
軍部主導の日本政府は、独ソ戦でのドイツの勝利を確信し、1941年7月に南部仏印進駐に踏み切ったが、それはアメリカ・イギリス・オランダの利害と衝突することとなり、石油輸出禁止などの経済制裁を受けることとなった。日米交渉は行き詰まり、武力解決を主張する軍部の主導によって、1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃、同時にマレー半島占領が実行され、太平洋戦争の開戦となった。これによってアメリカが参戦して第二次世界大戦はアジア・太平洋に拡大するとともに、米ー英ーソの連携する連合国と独ー伊-日本を軸とする枢軸国の対立という世界戦争の様相が鮮明となった。戦局の転換 1942年8月
日本軍は1942年春頃までの緒戦では次々と勝利し、シンガポール、フィリピン、インドネシア、ビルマへと占領地を拡大した。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦の敗北、同年8月のガダルカナル上陸を境に次第に太平洋の制海権、制空権を失い、アメリカを主力とする連合軍が反撃に移った。ヨーロッパにおいても、8月に始まったスターリングラードの戦いでドイツ軍が苦戦、翌1943年2月2日には撤退を開始した。太平洋方面では同1943年2月1日に日本軍がガダルカナルから撤退した。この1943年2月初めが戦局の大きな分岐点となった。ヨーロッパでは1943年9月にイタリアが降伏、枢軸の一角が崩れ、連合国側の勝利が確定的となり、連合国の戦後処理構想のための首脳会談が相次いで開催されていった。1943年11月のカイロ会談では米英中の三首脳会談は日本の戦後処理について話し合われ、中国から蔣介石が参加し、満州・台湾など、日本が日清戦争以降に獲得した領土をすべて返還させることを英米に合意させた。
敗北への道 1944年7月
1944年6月にサイパン島に上陸したアメリカ軍は7月に占領、このサイパンが陥落は太平洋の絶対国防圏が敗れたことを意味し、本土空爆を許すこととなり、11月から本土空襲が激しくなった。ヨーロッパでは6月に連合軍がノルマンディーに上陸してドイツ軍は追いつめられていった。1945年2月には米英ソ三首脳によるヤルタ会談が行われ、戦後のドイツの分割統治ともにソ連の対日参戦などが決まった。日本軍はなおも戦争継続の道を選び、沖縄を本土防衛の決戦場とすることとし、1945年4月のアメリア軍上陸を迎え撃って沖縄戦が始まったが、6月には守備隊が全滅した。この間、1945年4月30日にヒトラーが自殺して1945年5月7日にドイツは無条件降伏、戦局は日本に集中するようになった。アメリカはこの間、5月東京大空襲などの日本に対する空襲を強化するとともに、原子爆弾の開発を急いだ。7月にポツダム会談を開いた連合国首脳はポツダム宣言で日本に無条件降伏を勧告した。日本政府がそれを無視したことを受け、8月に広島・長崎に原爆を投下した。ソ連とは日ソ中立条約を締結していたがその期限切れに対して延長せず、連合国との協定通り、同じく8月、日本に宣戦布告して満州に侵攻、ソ連の対日参戦を実行した。
日本はこれらの事態を受けて8月14日、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏、1945年8月15日に天皇が放送で受諾を国民に知らせた。こうして日本は日中戦争からアジア・太平洋地域に広がり、15年に及んだ戦争を終えることになったが、国民とアジアの人々に多大な犠牲を出した敗戦となった。
戦争と歴代内閣のかかわり
1939年8月の独ソ不可侵条約の締結に対し、日本の平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」という声明を出して対処しきれず総辞職した。次に阿倍信行内閣にかわったところで9月1日のドイツのポーランド侵攻が始まり、第二次世界大戦が勃発した。阿倍内閣は日中戦争に全力であたるとしてヨーロッパの戦争には不介入を宣言した。次の米内光政内閣も親英米であったので参戦しなかった。しかし、軍部は軍部大臣現役武官制を利用して米内内閣を倒し、第2次近衛文麿内閣(1940年7月~)を成立させた。第2次近衛内閣は「大東亜共栄圏」の建設を掲げ、そのもとで外務大臣松岡洋右がドイツ・イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結して枢軸国との連携を推進し、一方でソ連とも日ソ中立条約を締結した上で南進の勢いを強くし、米英との対決姿勢を強めた。国内的には大政翼賛会を組織して全体主義体制を作り上げた。
第3次近衛内閣のもとで駐米大使野村吉三郎とアメリカ国務長官ハルの間で日米交渉が続けられたが、独ソ戦の開始を受けて早期の武力決着を主張する軍部におされ、帝国国策遂行要領を決定して、日米交渉の不調の場合の対米戦争開始を決定した。近衛首相はなおも交渉を継続しようとしたが軍との溝が深くなって辞任、次に東条英機内閣が成立した。
東条内閣は首相と陸相などを東条英機が兼ねる軍主導の内閣であった。東条内閣はアメリカとの交渉は続けたものの、1941年11月5日の御前会議(天皇の出席する国策決定の最高会議)で11月末でに交渉が成立しなければ開戦すると決定、開戦準備に入った。11月26日にアメリカ国務長官ハルからいわゆるハル=ノートが提示されたが、その内容は戦争回避条件が明確では無かったので、交渉は打ち切られることになり、東条内閣は予定通り、1941年12月8日に日本軍が真珠湾奇襲その他の攻撃を実行、開戦に踏み切った。
太平洋戦争でアメリカ・イギリスと全面的な戦争を開始され、アメリカは日本と同時にドイツにも宣戦布告して、第二次世界大戦に参戦した。日本軍は開戦当初はマレー半島、香港、フィリピンなどを次々と攻略、その勢力圏を東南アジアに拡げていった。東条内閣はその一方で大東亜会議を開催するなど、戦争目的をアジアの解放に置く姿勢を示した。しかし、中国戦線も依然として膠着する中、太平洋に広大な戦線が拡がると、次第に補給網、制海権、制空権を失い、1944年7月、サイパンが陥落したことにより東条内閣は総辞職、小磯国昭内閣が成立した。
小磯内閣は戦争終結への模索が始めたが、戦争継続を主張する軍部を抑えることはできなかった。沖縄戦が戦われる中、小磯内閣は総辞職、代わった鈴木貫太郎内閣は、ソ連を通しての和平工作にあたったが不調に終わった。結局、鈴木内閣はポツダム宣言を黙殺し、戦争継続を表明、広島・長崎の原爆投下、ソ連参戦の事態となり、ようやく8月14日、御前会議でポツダム宣言受諾を決定した。