スターリングラードの戦い
1942年8月から翌年2月初頭までの、ナチス=ドイツ軍とソ連軍(赤軍)のスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)攻防戦。ソ連領内に侵攻したドイツ軍がスターリングラードを占領したが、ソ連軍が逆襲して包囲し、補給の断たれたドイツ軍が降伏、厳寒の中、多数の犠牲と捕虜をだした。ここから独ソ戦におけるドイツ軍の後退が始まり、第二次世界大戦でのドイツ敗北への転機となった。
スターリングラードはソ連の時の独裁者スターリンの名前を冠した都市で、スターリン批判後はヴォルゴグラードと改められている。ロシア南部のドン川とヴォルガ川が最も接近する地点にある工業都市。戦車、火砲などの大型武器の生産拠点であった。この地で第二次世界大戦における独ソ戦で、最大の、そして戦局を大きく左右する戦闘が行われた。
11月になると、ドイツ軍(及び枢軸側のルーマニア軍)の外側にソ連軍が現れ、ドイツ軍は逆に包囲されることとなった。ドイツの現地指揮官は脱出をはかったが、ヒトラーは「撤退不可、現地を死守せよ」と命令、雪の中ドイツ軍は孤立することとなった。ヒトラーは救援軍を派遣したが、それも厳冬に阻まれて行動の自由がきかず、行動は停滞した。
このドイツの敗北は、第二次世界大戦の帰趨を決することとなり、以後ドイツ軍は後退を開始することとなる。43年7月、モスクワの南方のクルスクで、ドイツ軍は最新鋭の戦車を投入して大機甲部隊をソ連軍に向かわせ、起死回生をはかったが、地雷や対戦車砲によって阻まれ、失敗した。このクルスク戦車戦は史上最大の陸上の戦闘といわれる。<アントニー・ビーヴァー『スターリングラード』2005 朝日文庫 など>
年に数日だけ、スターリングラードという「ソ連時代の象徴」であった都市名が復活するわけだ。ソ連時代への郷愁なのか、対独戦勝利という国家の栄光への回帰なのか、歴史は簡単に清算できないと言うことであろう。
スターリングラード攻防戦
1942年8月末、ヒトラーの命令下、ドイツ軍はスターリングラードを圧倒的な火砲と戦車によって完全に包囲、9月中旬から市内への突入を開始した。それに対してソ連軍と工場労働者、市民は工場や団地の建物に潜み、抵抗を続けた。市街戦では戦車は行動の自由がきかず、狙撃兵が廃墟に隠れてドイツ兵を狙い、その行動を攪乱した。凄惨な市街戦が続く中、10月にはドイツ軍はレニングラード市街地のほぼ9割を制圧したが、完全に占領することはできず、ヴォルガ川をこえることもできなかった。11月になると、ドイツ軍(及び枢軸側のルーマニア軍)の外側にソ連軍が現れ、ドイツ軍は逆に包囲されることとなった。ドイツの現地指揮官は脱出をはかったが、ヒトラーは「撤退不可、現地を死守せよ」と命令、雪の中ドイツ軍は孤立することとなった。ヒトラーは救援軍を派遣したが、それも厳冬に阻まれて行動の自由がきかず、行動は停滞した。
ドイツ軍の降伏
翌43年1月、食料と弾薬が底をつき、ドイツ軍司令官パウルスはヒトラーの命令に反して降伏を決意、2月2日にソ連軍側に通告し、ここにスターリングラードの戦いはドイツ軍の全面的敗北に終わった。30万のドイツ兵は、20万が死傷し、10万が捕虜となった。ソ連の収容所に連行されたドイツ兵捕虜は15年間抑留され、祖国に帰ったのはわずか6000名と言われている。このドイツの敗北は、第二次世界大戦の帰趨を決することとなり、以後ドイツ軍は後退を開始することとなる。43年7月、モスクワの南方のクルスクで、ドイツ軍は最新鋭の戦車を投入して大機甲部隊をソ連軍に向かわせ、起死回生をはかったが、地雷や対戦車砲によって阻まれ、失敗した。このクルスク戦車戦は史上最大の陸上の戦闘といわれる。<アントニー・ビーヴァー『スターリングラード』2005 朝日文庫 など>
Episode スターリングラードの復活
スターリングラードは帝政ロシア時代にはツァリーツィン(「女帝のもの」の意味)といわれ、1925年にスターリングラードと改称された。第二次世界大戦後の1956年のスターリン批判から風向きが変わり、1961年、フルシチョフ政権のもとで独裁者の名前を排除し、ヴォルゴグラードに改められた。これは「ヴォルガ川の町」の意味である。ところが、祖国防衛戦勝利の象徴である「スターリングラードの戦い」への郷愁は多くのロシア人にあったらしく、市名復活を求める署名運動が起こった。そしてスターリングラードの戦いの70周年にあたる2013年1月13日、市議会はスターリングラード攻防戦の開始された8月23日と終結した2月2日、ヨーロッパ戦勝記念日の5月9日、対日戦勝記念日の9月2日などの記念日に限定して市名をスターリングラードに戻すことを決定した。<Wikipedia ヴォルゴグラードの記事による>年に数日だけ、スターリングラードという「ソ連時代の象徴」であった都市名が復活するわけだ。ソ連時代への郷愁なのか、対独戦勝利という国家の栄光への回帰なのか、歴史は簡単に清算できないと言うことであろう。