カサブランカ会談
第二次世界大戦中の、1943年1月に開催されたアメリカ・イギリスの首脳会談。連合軍のシチリア島上陸作戦で合意した。これ以降、戦局が連合国軍優位に転換し、戦後処理構想が具体化されていく。
第二次世界大戦の連合国の戦後処理構想の形成過程での米英首脳会談。1943年1月14日~26日、モロッコのカサブランカでイギリス首相チャーチルとアメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトの二者によって開催された。
翌2月の初めには、日本軍がガダルカナル撤退を開始、ドイツ軍はスターリングラードで敗北し後退を開始、戦局転換が明確になった。カサブランカ会議で合意された連合軍のシチリア島上陸作戦は1943年7月6日に実行され、それによって間もなく1943年9月8日にイタリアが降伏、枢軸国の一角が崩れることとなった。
連合軍のシチリア上陸作戦を決定
北アフリカ戦線での連合軍の勝利が確定的となり、次の作戦目標をどこにするか決定することが目的であった。協議の結果、シチリア島への上陸作戦を行うことで一致した。この会談には、北アフリカでドイツと戦ったフランス軍のジロー将軍と、ロンドン亡命政府のド=ゴールも招かれ、両者の協調がはかられた。翌2月の初めには、日本軍がガダルカナル撤退を開始、ドイツ軍はスターリングラードで敗北し後退を開始、戦局転換が明確になった。カサブランカ会議で合意された連合軍のシチリア島上陸作戦は1943年7月6日に実行され、それによって間もなく1943年9月8日にイタリアが降伏、枢軸国の一角が崩れることとなった。
戦後処理構想の進展
カサブランカ会議は、1941年8月9日の大西洋上会議(大西洋憲章を発表)、同年12月のアルカディア会談(ワシントン)に続く首脳会議であった。会議後の2月に前述のような大きな戦局の転換がはじまるので重要な会議ではあるが、現在の高校世界史では取り上げられることは少なく、次の連合国首脳会議である1943年11月のカイロ会談以降の英米首脳に中国・蔣介石、ソ連・スターリンを加えた本格的な戦後処理構想からが重視されている。Episode F=ローズヴェルトのフライング発言「無条件降伏!」
カサブランカ会談で、枢軸国に対して「無条件降伏」を求めることが決定された、とされている。またその言葉がドイツや日本の死にものぐるいの抵抗を呼び起こし戦争を長びかせたとも批判された。ところが、この言葉は予定された共同コミュニケには無く、会談後の記者会見でのローズヴェルトがいきなり発言し、チャーチルがとっさに口裏をあわせたものであった。以下、チャーチルの回顧談による。(引用)一月二十四日の記者会見で、大統領がわれわれが敵全体に対して”無条件降伏”を強いるだろうというのを聞いて、私はいささか驚いた。・・・またコミュニケが作成されたときの三軍参謀首脳の会議に全部出席していたイズメー将軍も驚いた。大統領の後を受けた演説で、もちろん私は大統領を支持し彼が述べたことに同意した。このような場合とこのようなときにおいて、われわれの間に少しでも相違があったり、あるいは少しでも省略することでもあれば、それはわれわれの戦争努力に害を、あるいは危険をさえもたらすことになったろう。・・・<チャーチル『第二次世界大戦回顧録』3p.296 佐藤亮一訳 河出文庫>なぜローズヴェルトの口からこの言葉が飛び出しかというと、原注によれば、このときフランスのジローとド=ゴールの対立を南北戦争のグラントとリーの間を取り持つのと同じぐらい困難だと考えていた彼が、グラントが Old Unconditional Surrender と言われていたことを思い浮かべ、それを口に出してしまったらしい。 → 日本の無条件降伏