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ド=ゴール 第二次世界大戦

フランスの軍人、政治家。第二次世界大戦でドイツの侵攻を受けると、抗戦を主張し、容れられずにロンドンに亡命して自由フランス政府を樹立。国内に向けて抵抗を呼びかけ、その組織化を図り、44年8月にパリに帰還、臨時政府の首相となって戦後経営に当たった。

 ド=ゴール Charles André Joseph Marie de Gaulle 1890-1970 は、現代フランスを代表する政治家。フランスの軍人として第一次世界大戦に従軍し、ペタン参謀長の幕僚として活躍した。第二次世界大戦でレイノー内閣の陸軍次官。ドイツ軍の侵攻に対しフランス軍は敗北を続けたがド=ゴールは抗戦を主張、ペタン将軍の休戦協定締結に反対してフランスを離れ、ロンドンに亡命した。

レジスタンス

 フランスの降伏後、ロンドンで亡命政権の自由フランス政府を樹立し、1940年6月18日にイギリスBBC放送を通じ、対独レジスタンスを呼びかけた。

パリ帰還と首相就任

 第二次世界大戦は1944年6月、連合軍のノルマンディー上陸作戦からドイツ軍の敗走が始まり、8月25日にアメリカ軍によってパリが解放された。翌26日、ド=ゴールはパリに入り、シャンゼリゼを行進し、フランス解放の英雄として迎えられた。ド=ゴールは国内でレジスタンスを続けた共産党系の勢力が力を付けることには警戒し、臨時政府の首相となることを承認し、45年11月に就任した。しかし、共産党との対立などから閣内不一致となり、1946年1月、首相を辞任した。

ド=ゴール 第四共和政から第五共和政へ

第二次世界大戦後、臨時政府の首相を務めたが、共産党などと対立して辞任、その後はフランス人民連合を率いて保守政治への転換を図った。アルジェリア問題で政府が混迷する中、1958年、保守派に支持されて首相に復帰した。憲法改正を実現させて第五共和政を樹立し、自ら初代大統領に当選した。アルジェリア独立を承認して問題を解決し、その後はアメリカ・イギリスと対抗して冷戦下で独自の外交を展開した。しかし68年、長期政権に対する学生反乱などから支持を失い、翌年辞任した。

第四共和政

 戦後フランスで最初の1946年の総選挙でフランス共産党が躍進、議会で多数を占めるようになると、社会党も含めた連立内閣となり、そのもとで、フランス第四共和政憲法が成立した。
 ド=ゴールは首相辞任後、いったん政界から引退したが、次第に反共産党勢力の結集を図るようになり、「フランス人民連合」(RPF)を結成して、憲法改正による大統領権限の強化を実現し集権的な権力の下でのフランスの再生を主張し、支持を集めるようになった。

アルジェリア問題の混迷

ド=ゴール

ド=ゴール 1890-1970

 1948年にフランス植民地のアルジェリア民族解放戦線(FLN)が結成され、1954年に独立を求めて武装蜂起し、アルジェリア戦争が始まった。フランス国内ではその対応をめぐって対立が生じ、アルジェリア問題が深刻化した。国内の第四共和政政府は独立容認に傾いたが、現地のフランス人入植者(コロン)と現地軍は反発しより強力な指導力を持つ政府の出現を望むようになった。

ド=ゴール大統領の登場

 1958年5月、一部の右翼勢力が本国政府に反旗を翻してアルジェ政庁を占領し、ド=ゴールを首班とする政府の樹立を要求するという事件が起こった。第四共和政の下で対立を繰り返していた諸政党は対応するすべが無く、ド=ゴールの登場を要請、それを受けて6月1日、ド=ゴールは首相に就任、挙国一致内閣を組織し、アルジェの反乱軍には統治権を認めて事態を収拾した。

アルジェリア問題を解決

 ド=ゴールの起草した第五共和政憲法1958年10月の国民投票で承認され、11月の総選挙でもド=ゴール派の新共和国連合が第一党となり、1958年12月の大統領選挙でも圧勝したド=ゴールは第五共和政初代大統領となった。ド=ゴール大統領は 一転して軍部保守派、現地軍の反対を抑えて、1962年3月、アルジェリアの独立を承認し、アルジェリア問題を解決した。 → ド=ゴール時代のフランス

フランスの栄光の再現

 アルジェリア独立によって旧フランス植民地帝国は解体したが、ド=ゴールは失われた大国フランスの威信の回復を目指して「フランスの栄光」を掲げ、1960年には核実験を強行、62年10月には大統領を国民が直接選出する憲法改正を国民投票にかけて成立させ、65年には大統領に再選された。国内に確固とした基盤を築くと、強大な大統領権限を行使し、ド=ゴール外交といわれる、アメリカに追随しない独自の外交路線を展開した。

ド=ゴール外交

 ド=ゴール大統領の外交政策は、「フランスの栄光」を掲げて、核武装を達成し、独自外交を展開することであった。その基本は次のような諸点である。
  1. 西ドイツとの関係改善:西ドイツ=フランス友好条約締結など、従来のドイツ敵視を終わらせた。
  2. 1966年7月1日NATO軍事機構脱退:アメリカ主導に反発。同等の権利を主張し脱退。
  3. ヨーロッパ統合:積極的に推進したが、原則はあくまで主権国家のままでの対等な統合であり、強力な超国家的機関の設置に対しては反対した。
  4. イギリスのヨーロッパ経済共同体(EEC)加盟反対:イギリスはアメリカの「トロイの木馬」と評し、アメリカのヨーロッパへの発言力強化につながるとして反対した。
  5. 独自外交:アメリカのベトナム政策を批判し、中華人民共和国を承認した。

ド=ゴール辞任

 このようなド=ゴールの政治は、ド=ゴール主義(ゴーリズム)と言われ、当初は国民的な支持を受けていたが、権力が長期化する中で、経済成長は続いたが格差の拡大や若者の疎外感が深まり、1968年5月のいわゆる五月危機という学生、労働者の反体制運動が激化ししてその権威が揺らいだ。一旦は乗り切ったド=ゴールは国民に信任を問う意味で、地方制度の改革と上院改革を内容とする憲法改正を提案し、国民投票にかけることとした。危機にあっては強い指導者ド=ゴールを支持した国民であったが、政治の新しい展開には80歳近い老人に見切りを付けていた。
 1969年4月に実施された国民投票はド=ゴール提案は反対52%で否決された。国民投票で信任を問うというド=ゴール政治の敗北であり、「英雄の時代」は終わったと言える。ド=ゴールは直ちに辞任を表明し、辞職後18ヶ月経たない70年11月に死去した。次期大統領選挙は69年6月に行われたが、左派陣営は分裂していたため、ド=ゴール派のポンピドゥーが当選、ド=ゴール政治を継承することとなった。 → ド=ゴール後のフランス

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渡辺和行
『ド・ゴール―偉大さへの意志』
世界史リブレット 人
2013 山川出版社