印刷 | 通常画面に戻る |

モスクワ宣言

1943年10月、アメリカ・イギリス・ソ連・中国の四ヶ国代表が署名した、第二次世界大戦後の国際平和機構樹立に合意した宣言。それに先立ちモスクワで開催された米英ソ三国外相会議で合意が成立、中国代表も署名して、四ヶ国宣言となった。国際連合の設立(1945年)にむけての重要なステップとなった。

 第二次世界大戦が進行する中、連合国の戦後処理構想の一環として、アメリカ、イギリス、ソ連の三国外相会議がモスクワで開催され、国際的平和機構樹立に関する合意に達した。さらに中国代表が宣言に参加し、アメリカ・イギリス・ソ連・中国の連合国4ヶ国の宣言として、1943年10月19日に発表された。
 三国外相会議に参加した各国代表は、アメリカがコーデル=ハル、イギリスがイーデン、ソ連がモロトフ。中国の駐ソ大使傅平勝は会議には参加しなかったが、宣言に署名した。
 モスクワ三国外相会議では、平和機構設立の課題以外にオーストリアとイタリアの戦後処理についてなども話し合われているが、世界史学習上、取り上げられるのは国際平和機構設立に関する四ヶ国宣言である。

アメリカのかかわり

 第二次世界大戦は1941年6月の独ソ戦の開始で大きく情勢が転換、ソ連がアメリカ・イギリスと提携し、ドイツなどの枢軸国と戦う陣営に入った。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトはイギリス首相チャーチルとの1941年8月9日に出した大西洋憲章で、戦争後の国際的な平和機構の樹立を構想し、合意に達したが、ヨーロッパ戦線ではソ連との提携も不可欠となった。外相レベルでの交渉に入ったローズヴェルト大統領は、かつてウィルソン大統領がアメリカ議会の反対で国際連盟に加盟できなかったことを踏まえて、その具体化には慎重を期していたが、同年12月、日本の真珠湾攻撃を受けて参戦したことで、国内世論の支持を受けたことを確信、12月末に「戦後外交政策に関する諮問委員会」を設置、その下に国際機構をk検討する小委員会をつくった。さらにその作業は本格化し、43年8月には「国際連合憲章草案」がつくられている。国務長官コーデル=ハルは国際連盟に代わる新たな国際組織は、平和を望む多くの国が結集することが必要と考えていたが、ローズヴェルトはアメリカ・イギリス・ソ連に中国を加えた四大国が常任理事国として強い権限をもって新しい国際機関を主導し、世界の平和維持に責任を持たなければならない、と考えていた。
 このように三国外相会議はアメリカの主導のもとで進められ、ソ連の同意を取り付け、さらに中国を宣言に加えることがポイントとみなされた。コーデル=ハルの狙い通り、三国が新たな平和機構を設立することの合意形成に成功した。中国を宣言に三に加えることにはスターリンが日本との間で1941年に日ソ中立条約を締結していたので、ソ連代表が難色を示したが、アメリカの立場を了解して承認した。

F=ローズヴェルトの積極的関与

 ローズヴェルトの指示でアメリカ国務省で原案を作成し、1943年9月に上院で国際平和組織への参加支持が可決されるのを待ち、世論の動向も見た上で、同年10月モスクワ外相会談に原案を提案した。ソ連は消極的、イギリスは「地域評議会」形式を主張したが、討議の結果、主権平等原則に基づいて国際的な平和機構を樹立することで初めて合意した。このモスクワ宣言は中国も合意し国際連合樹立への第二歩となった。<油井大二郎/古田元夫『第二次世界大戦から米ソ対立へ』世界の歴史28 中央公論社>

モスクワ宣言から国際連合発足まで

 連合国による戦後処理の調整のなかで最も中心的な課題だった国際連盟に代わる国際的平和機構樹立構想は、1943年11月のF=ローズヴェルト・チャーチル・蔣介石によるカイロ会談、F=ローズヴェルト・チャーチル・スターリンの三首脳会談であるテヘラン会談で改めて確認された。さらに1944年8月21日~10月のダンバートン=オークス会議で連合国の法律専門家による国際連合規約原案の検討を経て、1945年2月4日ヤルタ会談(F=ローズヴェルト・チャーチル・スターリン)で国際連合の設立の最終的合意が行われ、1945年4月~6月の連合国50ヵ国によるサンフランシスコ会議国際連合憲章が採択され、国際連合が設立された。1945年10月24日に正式に発足した。