サンフランシスコ会議
第二次世界大戦中の1945年4月、連合国50カ国が参加した国際会議で、6月に国際連合設立を決定した。
まだ第二次世界大戦が終わっていない1945年4月から6月の2ヶ月間、アメリカのサンフランシスコで連合国50カ国が参加して開催された、国際連合設立に関する国際会議。6月25日に国際連合憲章を採択し、1945年6月26日に参加50カ国が調印して、戦後世界の国際協力体制を作り上げる会議となった。
連合国の戦後処理構想の形成
国際連盟に代わる、より有効な国際平和機構の設立については、連合国の戦後処理構想の形成過程で、まずアメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトが提唱し、イギリス首相チャーチルとの1941年8月9日の大西洋会談で合意され、大西洋憲章として打ち出された。ついで1942年1月に連合国共同宣言が出され、ソ連も同調してコミンテルンを解散し、1943年10月19日のモスクワ宣言で具体化が始まった。同年11月のカイロ会談(アメリカ・イギリス・中国の三首脳会談)・テヘラン会談(アメリカ・イギリス・ソ連の三国首脳会談)で首脳間の合意が進み、1944年のダンバートン=オークス会議、45年2月のヤルタ会談で国際連合憲章原案が検討され、最終的合意を図るため、連合国のサンフランシスコ会議が召集された。しかし、提唱者F=ローズヴェルト大統領は、1945年4月12日に死去し、会議開催には間に合わなかった。国連憲章の採択
会議はアメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連が招請国となって、50カ国の連合国代表(連合国は51カ国であったがポーランドは代表権をめぐって内部に争いがあったため参加できなかった)が参加して開催された。1944年のダンバートン=オークス会議、45年2月のヤルタ会談で検討された国際連合憲章原案について、テーマごとに12の小委員会に分かれて討議を行った。4大国、とくに米英ソがヤルタ会談でほぼ合意に達していたが、サンフランシスコ会議では初めて国際連合憲章に関して議論に加わった中小国から、様々の意見が出され、次のような点で激論が戦わされた。- 拒否権問題 米英ソはヤルタ会談で5大国に拒否権を認めることで合意したが、オーストラリアやニュージーランドなど中小国が、拒否権が軍事的紛争だけでなく、平和的解決の場合も認められるのは不平等だとして反発した。
- 安全保障理事会は強制行動に関して唯一の権限を持つとされた点で、総会にその権限をゆだねるべきだという意見が強かった。最終的には国際の平和と安全の維持については総会は討議と勧告はできるが安保理優位は変更されなかった。
- ラテンアメリカ諸国から地域的集団保障機構のもつ自衛権を認めよという声が上がった。その議論の中から個別的自衛権と併せて集団的自衛権を認めることが加えられ、ソ連の意見で、それは安保理の処理がなされるまで、という制限が加えられることとなった。
補足 アメリカ議会の国連憲章承認
(引用)国際連合はアメリカの強い願望と意志によって生まれた。もしその動因を、多国間主義的な秩序への理想と、単独行動主義的な支配への意欲とにあえて二分するなら、大西洋憲章からサンフランシスコ会議集結までの期間は、おおむね前者がまさっていたと言ってよい。・・・国内的には、国際連盟不参加の時ほどに声高な反対は形成されなかった。とはいえ、「アメリカの上に立つ超国家を作るのではないか」という反対論を常に警戒しなければならなかった・・・。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.100-102>サンフランシスコ会議の後の7月9日から13日まで上院外交委員会で公聴会が開かれ、アメリカ合衆国の主権が侵されるのではないか、国家の自由のさまたげになるのではないか、再びイギリスの下風にたつか、ソ連に屈服することになるのではないか、などの反対論が出た。それに対してトルーマン大統領ら政府側は、国連加盟によってアメリカの自由が制限されることはない、と説明して乗り切った。7月28日の批准評決は賛成82、反対2で可決された。各国の批准書はアメリカ政府に寄託することになっていたので、アメリカは8月8日(日本時間9日)、自国政府に批准書を寄託する。その日、長崎に原爆が投下された。<最上敏樹・同上>