マーシャル=プラン
1947年、米国務長官マーシャルが発表した西欧諸国復興支援計画。冷戦体制のなかで、西側諸国の復興に大きな力となった。同時に東西冷戦構造を固定化させる結果を招いた。
1947年6月5日、アメリカ大統領トルーマン政権の国務長官マーシャルが発表した、ヨーロッパ経済復興援助計画 。ヨーロッパ諸国の戦後復興にアメリカが大規模な援助を提供し、経済を安定させて共産主義勢力の浸透を防止する狙いであった。これは、トルーマン政権の「封じ込め政策」の一環であり、共産主義の脅威に対抗するものであった。
ヨーロッパの分断
その受入をめぐり、ヨーロッパ諸国は対応が二分され、西側諸国は受け入れ、東欧諸国は拒否した。またチェコスロヴァキアはいったん受入を表明したがソ連の圧力で撤回し、それをきっかけに共産党政権が成立した。受け入れた西側諸国には1948年に受入機関としてヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を組織し、総額100億ドル以上の援助を得て、イギリス、フランス、西ドイツ、イタリアなどが大戦での経済基盤の破壊を克服して、復興を成し遂げることができた。ソ連はマーシャル=プランの受入で動揺した東側諸国を引き締めるために、1947年9月にコミンフォルム(共産党情報局)を結成、さらに49年には経済相互援助会議(COMECON)を結成、こうして冷戦構造は本格化した。 → アメリカの外交政策東欧諸国の動揺
ソ連共産党はコミンフォルムを結成し、マーシャル=プラン受け入れの動きを示したポーランドでは共産党指導者ゴムウカを失脚させ、チェコスロヴァキアでは大統領ベネシュを共産党のクーデターで倒し、独自路線を目指したユーゴスラヴィアではティトーをコミンフォルムから除名した。このようにマーシャル=プランはソ連の東欧支配にくさびを打ち込むことになり、危機感を持ったスターリン体制下のソ連共産党が強く反発、東欧諸国への軍事介入、直接介入を強めることとなった。マーシャル=プランの意義
マーシャル=プランには次のような注目すべき意義がある。- ヨーロッパの復興をもたらす重要な要素となった。第二次世界大戦で大きな被害を受け、基盤が破壊されていたヨーロッパ経済を復興させることとなった。イギリスの外相ベヴィンは「溺れゆくものへの命綱」だといい、敗戦国であった西ドイツとイタリアがこの援助をバネに「奇跡の復興」をとげた。
- 東西冷戦体制を固定化させることとなった。支援の対象としてソ連と東欧諸国をも含んでいた、少なくとも建前は。結局、ソ連のスターリンはマーシャル=プランの本質はアメリカ帝国主義による世界支配の一環であると判断して、その受け入れを拒否し、東欧諸国にも圧力をかけて受け入れを拒否させた。結果的に、東西陣営の対立を際立たせることとなった。
- ヨーロッパ統合へのきっかけとなった。アメリカは支援を押しつけと捉えられることを恐れ、ヨーロッパ側が自主的な受け入れ体制を作ることを条件とした。そのために作られたのが、ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)であり、その発足はヨーロッパ統合への動きにもつながった。
- アメリカ合衆国の伝統的な孤立主義外交(モンロー主義)を完全に脱することとなった。第二次世界大戦中の武器貸与法や、国際連合加盟に対しても、アメリカ国内にはなおも反対する保守的な勢力(主として共和党)があったが、マーシャル=プランに対しても保守派の反対が予想された。しかし、トルーマンおよびマーシャルらは、このプランの人道的な復興支援という面を強調し、世論の支持を取り付けた。議会審議も難航が予測されたが、48年にチェコスロヴァキアの共産党クーデターが起きると共産主義への恐怖感が強まり、上院では賛成69、反対17、下院では賛成329、反対74という圧倒的な賛成で承認を受けた。こうしてアメリカ合衆国の戦後の世界政策が一歩踏み出された。
- アメリカ経済へ環流するしくみであった。このプランで提供された資金の多くは使途を指定され、生産に必要な機械類や生活に必要な農作物に限定されており、それらはアメリカ産のものを買うことになるので、結果として資金はアメリカに環流する仕組みになっていた。ヨーロッパ経済が復興しなければ、ヨーロッパ各国がドル(外貨)準備ができず、アメリカの輸出もできなくなることになる。ヨーロッパを復興させることはアメリカ経済にとっても不可欠だった。
マーシャル=プランの援助金額
実際に援助が始まった1948年から、終了した1951年6月までの間の援助金額総額は、102億6000万ドルであり、そのうち91億2800万ドルが贈与(返済の義務がない)であった。国別では、イギリス(26億ドル)、フランス(20億ドル)、西ドイツ(11億ドル)、イタリア(10億ドル)が多く、次いでベルギー、オーストリアなどにトルコを含め、東欧諸国とフランコ独裁下のスペイン、中立国スイスを除いた国、地域すべてに及んだ(援助金額については136億ドル説や120億ドル説などもありはっきりしない)。マーシャル=プランの終了
朝鮮戦争が起こり、東西冷戦が激化するなか、アメリカの対外援助が経済援助と軍事援助を一体化させることとなった。1951年10月の相互安全保障法(MSA)の成立に伴い、MSAに統合されることとなり、1952年には終了した。MSAは経済援助の被援助国に防衛協力の義務を負わせるもので、より軍事色の強い援助体制と言うことができる。<以上この項、永田実『マーシャル=プラン』1990 中公新書 などによってまとめた>