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西ドイツ再軍備

1955年、パリ協定でアメリカ・イギリス・フランスが西ドイツの再軍備を承認し、同時にNATOに組み入れた。冷戦下にあったソ連は強く反発し、ワルシャワ条約機構を結成した。

 1955年5月5日西ドイツがアメリカ・イギリス・フランス三国などと前年に締結したパリ協定が発効し、主権回復とともにNATO加盟を条件に独自の軍事力を持つことが認められた。翌5月6日にNATOに加盟した。
 これによって西ドイツが東西冷戦の中で、西側陣営に組み込まれ、その最前線として東側陣営と対峙することとなり、ソ連と東側諸国を硬化させ、東西冷戦を本格化させた。

逆コースの始まり

 第二次世界大戦でのドイツ降伏後のポツダム協定では、ドイツは完全な非軍事化がはかられるはずであった。ところが東西冷戦が進行してくると、アメリカなど西側諸国は共産圏の拡大を恐れるようになった。それは、1950年に朝鮮戦争で現実のものとなり、ソ連=共産圏の西ヨーロッパへの武力侵攻が大きな脅威と考えられるようになった。そこから、西ドイツを再武装し西側の軍事力に組み込むことを考え始めた(いわゆる「逆コース」が始まる)。

ドイツをNATOに組み込む

 また西ドイツのアデナウアーも東ドイツの警察部隊を警戒すると共に、国家主権を回復するために軍隊を持つことを熱望していた。その両者の思惑は50年10月、フランスのプレヴァン外相の「欧州軍」構想として立案され、52年に「欧州防衛共同体(EDC)条約」が締結された。しかし西ドイツは批准したが当のフランス議会がドイツの再軍備に反対して承認せず、「欧州軍」は実現しなかった。続いてイギリスのイーデン首相の構想として西ドイツを西欧同盟に加盟させ、そのもとで主権を回復させて再軍備を認め、ドイツ軍もNATO軍に加えるという案が浮上し、1954年10月、パリで開催された関係国会議でパリ協定が成立し、ドイツの主権回復と共に再軍備が承認された。ドイツ軍はNATOに加盟するにあたり軍備に上限を設け、ABC(A=原子・B=細菌・C=化学)兵器を所有しないことを誓約した。

再軍備の反響

 ドイツの再軍備に対し、国内では野党社会民主党は反対し、若者を中心として徴兵制に反対する運動が起きた。しかし主権回復を歓迎する意見が強く、NATO加盟は議会で多数で承認され、1955年5月5日にパリ協定が発効した。ついで国防省が設置され、基本法の国防関係規定も変更が行われて、翌年には一般兵役義務法が連邦議会で成立した。こうして西ドイツ軍は正式には連邦国防軍として再出発することとなった。このドイツ再軍備およびNATO加盟は、東西冷戦を先鋭化させ、55年同月にソ連と東欧諸国はワルシャワ条約機構を結成する。

Episode 温存された旧ドイツ軍部隊

 西側連合国は、ドイツの完全非軍事化に関するポツダム会談の決定を実行しなかったとしばしば批判される。事実、いくつかのドイツ軍部隊を解散しないでおいたのである。武装解除され、連合軍の軍服を着てであるが、将来のソ連との戦争に備えて、東部戦線で経験を積んでいたドイツ兵を「ドイツ労務部隊」として編成していたのである。さらに参謀本部の軍人でもアメリカ軍の情報収集に協力した者もいた。ベルリン封鎖の時に地上で空輸作戦に協力したのも彼らだと言われている。<マーザー『現代ドイツ史入門』1995 講談社現代新書p.131>
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