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エジプト革命

1952年、自由将校団を率いたナセルらのクーデタによりエジプトの王政が倒され、エジプト共和国が成立した。

 エジプトでは、第二次世界大戦後もムハンマド=アリー朝のエジプト王国が続いていた。1948年、パレスチナにイスラエルが建国されたことに対して、他のアラブ諸国と共に軍事行動を起こしたが、そのパレスチナ戦争で一方的に敗北してしまった。ファルーク国王は王制批判が高まる中、反イギリスの姿勢に転じていたワフド党を起用して国民の支持を高め、権威の再建を図った。ワフド党はスエズ駐留のイギリス軍を挑発したが、反英蜂起に失敗し、信望を無くしていった。またワフド党は特権層や大地主の支持を受けており、その権力は次第に腐敗し、王政は民衆の支持を失っていた。
 そのような中、1949年にナセルら軍の青年下士官が結成した自由将校団は、軍の中に次第に支持者を拡げていった。かれらはエジプトの改革の指針として、①帝国主義の終結、②封建主義の排除、③独占的資本主義の阻止、④社会公正の実現、⑤強力な軍隊の創設、⑥健全な民主政治の復活、の六原則をたてた。

自由将校団の決起

 1952年7月23日ナセルの指導するクーデタはそのシナリオに基づいて計画通りに実行された。将校たちは首都カイロをはじめ、各地の主要な拠点を制覇し、数時間後にはエジプト全土を手中に収め、兵士二人の死者があったものの、軍部と国王側の大きな抵抗もなく、ほぼ無血クーデタを成功させた。軍事拠点を制圧した自由将校団は、続いて諸官庁や王宮を占拠した。将校らはクーデタの成功を確認すると、それまで計画の蚊帳の外に置かれていた名目上のリーダーであるナギブを軍本部に迎えた。
 26日朝、将校らはアレクサンドリアに滞在するファルーク国王に国王退位と国外追放の最後通牒を突きつけ、抵抗する術のない国王はイタリアに亡命、このときは王位は1歳に満たない息子に託された。
 9月には、農民の要求が強かった農地改革を実行した。旧体制を牛耳っていた大土地所有者の権力基盤を崩す目的であったが、改革は比較的穏健で、接収された土地は全農地の約10%にとどまり、しかも政府の再建で補填された。しかし王族の土地や財産は賠償なしに没収された。

共和政の実現

 1953年1月から「革命評議会」が設置され、ナセルら自由将校団は直接的な革命に乗り出した。腐敗していたワフド党などの政党活動を禁止した。また当初は友好関係にあったムスリム同胞団と共産主義勢力とも一線を画し、次に非合法化した。さらに同年6月、ファルーク前国王の息子ファードが王位継承を否定し、ここにムハンマド=アリー朝は廃止されて、エジプトは共和政国家となった。1953年6月18日エジプト共和国が樹立され、ナギブが大統領に就任、ナセルは副首相となった。<以上、池田美佐子『ナセル』世界史リブレット 人シリーズ 2012 山川出版社 による>
 エジプト革命は中東における王制打倒、民族主権の確立をもたらした最初の社会革命であり、アラブ世界に大きな衝撃を与え、イラク革命などに飛び火していく。またナセルはナギブを失脚させて独裁的な主導権を握り、スエズ運河国有化などを断行して、「アラブの英雄」、第三世界のリーダーの一人としての脚光を浴びることとなる。 → パレスチナ問題