エジプト
人類最古の文明の発祥の地の一つとされる、アフリカ北部、ナイル川の下流域。ベルベル地方および内陸部のアフリカ世界と、パレスチナを通じてオリエント世界のメソポタミアと、地中海を通じて古代地中海世界や中世以降のヨーロッパ世界と、そして紅海を距ててアラブ世界と、それぞれ接しており、前近代には世界の中心としての役割を担っていたとも言える。その歴史は長大であるが、大きく分ければ、古代文明期~ヘレニズム期、ローマ領期、イスラーム化の時期、近代の植民地化の危機の時代~現代のエジプトの時代、となる。なお、現在の正式国号は「エジプト=アラブ共和国」で、通称が「エジプト」である。ちなみに漢字表記では「埃及」と書く。
エジプト史の概観
ナイル川流域に紀元前3000年ごろ統一国家が形成され、強大な王権を持つファラオのもとに、古王国・中王国・新王国の三期に分けられる王朝支配が続いた。この間、ピラミッド、象形文字などに代表される高度な古代文明を発展させた。前4世紀にアレクサンドロスに征服され、ヘレニズム国家の一つのプトレマイオス朝が成立。前1世紀末にローマの属州となり、ビザンツ帝国に継承される。7世紀にイスラーム勢力が進出しウマイヤ朝の支配を受け、10世紀にファーティマ朝がカイロを建設しカリフを称する。その後、十字軍を撃退したアイユーブ朝、マムルーク朝と続き、16世紀にオスマン帝国領となる。18世紀末のナポレオンの進出を機にトルコ人の支配に対するエジプト人の自立の運動が強まり、ムハンマド=アリーが自立。19世紀後半からはイギリスの進出が著しく、スエズ運河の経営権を獲得したのを足場に、ウラービーの反乱を鎮圧して保護国化を図る。第一次世界大戦後の1922年にエジプト王国として独立したが、王政は腐敗し、第二次世界大戦後の1952年、エジプト革命で倒される。革命を指導したナセルは第三世界のリーダーとして活躍し、同時にアラブの指導者としてイスラエルと戦ったが、第3次中東戦争の敗北によって後退。次のサダト大統領がイスラエルとの共存路線に転換。ムバラクがその姿勢を継承したが、長期政権化して民心が離れ、2011年の「アラブの春」で追放された。しかし、軍政が復活し、国内にイスラーム過激派の動きを抱え、情勢は依然として混迷している。エジプト(1) 古代文明の繁栄
メソポタミア文明の影響を受けながら、ナイル川流域に農耕文明が発展し、紀元前3000年頃、最初の統一国家エジプト古王国が成立した。その後、王朝交代を繰り返しながら、高度なエジプト文明を発展させ、前4世紀後半にはヘレニズム文明に継承された。前1世紀末にローマに征服され、その後ビザンツ帝国の支配が続いた後、7世紀末にイスラーム化が始まる。
エジプト文明の形成
ナイル川流域に新石器文化つまり農耕・牧畜が始まるのは、紀元前5000年ごろ下(しも)エジプト(ナイル川下流、大三角州地帯)においてであり、メソポタミア文明より2000年ほど遅れた。ナイル下流に多くの村落をもとにした小国家(ノモス)が生まれ、その過程で青銅器や神聖文字(ヒエログリフ)の使用、太陽暦などのエジプト文明を形成した。エジプト文明は、メソポタミア文明の影響も受けているので、広くとらえる場合はオリエント世界を構成すると言える。エジプトの王朝時代
前3000年紀ごろに生まれたエジプト王国は、王朝時代を古王国(大ピラミッドが造られた時代)・中王国・新王国(メソポタミアにも進出した)、さらに末期王朝に分け、その間に中間期をおいており、アレクサンドロス大王に征服される前332年までに31の王朝が交替した。古代エジプトの31王朝 エジプト史で「王朝時代」としているのは、紀元前3世紀の初めのマネトという神官が当時のプトレマイオス朝のプトレマイオス2世のためにギリシア語で表した『エジプト史』(原本は伝えられず紀元後1世紀のユダヤの歴史家ヨセフスや3世紀の教父アフリカヌスの著作に抜粋が引用されている)において、最初の統一国家の王メネスからアレクサンドロス大王の征服までを第1王朝から第31王朝までに区分した時代のことである。この区分はトリノ博物館に所蔵される王命表パピルスの王朝区分にも対応している。王朝の中には並列したものがあったり、時期もはっきりしないものが多いが、現在もエジプト史の王朝区分として踏襲されている。そして王朝時代に先行する、ナイル河畔に定住生活が始まってからを「先王朝時代」、アレクサンドロス大王の征服からローマ支配の末期までを「グレコ・ローマン時代」とよばれている。<屋形禎亮『人類の起源と古代オリエント』世界の歴史1 1998 中央公論社 p.381>
初期王朝 古王朝に先立つ、前3000ごろから前2650ごろまで。第1王朝~第2王朝。ノモスの首長の影響力から脱したファラオが太陽神の化身としての王権を、灌漑網の整備と対外交易の独占によって強め、上下エジプトの境界近くに新都メンフィスを建設し、王の任命する州知事を各地において支配した。その支配は次第にナイル中流の上(かみ)エジプトに及んでいった。
古王国 古王国時代は前2650年~2160年頃。第3王朝から第6王朝まで。ファラオをいただく中央集権国家体制が完成し、エジプト文明の最初の繁栄期を迎える。この頃成立したエジプト文明の基本パターンは王朝時代末期まで続く。古王国を象徴するのが、キザの三大ピラミッドであり、第4王朝のクフ王、カフラー王、メンカウラー王の王墓兼宗教施設である。しかし、第5王朝になると王権の後退が始まり、州知事は各地で自立し、世襲化される。
第8王朝から第10王朝までは第1中間期とされ、王権は衰え政治的に混乱した。しかしその中で新しい価値観が生まれていった。
中王国 中王国は前21世紀から前18世紀。ヘラクリオポリスとテーベに南北二王朝が並立したが、前2040年ごろ、南のテーベの王によって統一され中王国時代となる。第11王朝から第12王朝の前1786年ごろまで。官僚制度は高度に組織され、支配地はナイル上流のヌビアにまで及び、クレタ文明との交易も行われた。
第13王朝から第17王朝までは第2中間期とされ、エジプトの王権が衰えるとともに、オリエント全体で民族移動が展開され、その動きがナイル川流域まで及んで、エジプトに異民族支配の王朝が現れた。
オリエントの民族大移動 紀元前2000年紀(1000年代)のオリエントはの大民族移動期であった。まずインドヨーロッパ系のヒッタイトが北方からオリエントに侵入、その他、ミタンニ人、カッシート人、フルリ人らが次々と建国した。シリア・パレスチナに進んだこれらの民族の一部と思われるヒクソスは、中王国が衰退したのに乗じ、前1650年頃、エジプトを支配し第15王朝を建設した。これがエジプト最初の異民族王朝である。彼らによって馬と戦車がもたらされ、エジプト文明は大きな影響を与えた。
新王国 新王国の時代は前1552~前1070年ごろ。第18王朝から第20王朝まで。テーベの第18王朝はヒクソスの軍事技術を学び、軍隊の要請に努め、前1542年ごろ、エジプトを解放と再統一を実現した。その後、約500年に及ぶ新王国時代が続く。この間、新王国のファラオトトメス3世は、前1486年、アジアからの再び侵略されないように、シリア・パレスチナにくりかえし遠征軍を送り、カッシート、ミタンニ、ヒッタイト、アッシリアなどと外交交渉をさかんにおこない、国際政治が展開された。しかしこの間、ファラオの崇拝を受けたテーベのアメン神を司る神官団が次第に力を増し、王位継承などに介入するようになった。そこでアメンホテプ4世は一種の宗教改革を中心としたアマルナ革命を行い、前1364年、都をテル=エル=アマルナに移し、自らもイクナートンと改名した。アマルナ文書はこの時代の国際政治の史料となっている。しかし、この改革は一代で終わり、第19王朝(前1306~前1186年)のラメセス2世は外征をさかんに行い、特にヒッタイトとは前1286年、カデシュの戦いを戦った。しかしシリアの要衝カデシュを回復することはできなかった。このファラオの時代には戦勝を祈願するためのアブシンベル神殿その他の大神殿が盛んに建造された。
オリエントの鉄器時代 前1200年ごろ、ヒッタイト王国が海の民の移動に伴う一連の民族移動の結果として滅亡すると、それまでヒッタイトに独占されていた製鉄技術が諸地域に広がり、オリエントは鉄器時代を迎えた。しかし、鉄資源を輸入に依存し、自給できなかったエジプトは第20王朝の終末(前1070年ごろ)には植民地をすべて失い、前1069年、エジプト新王国も海の民の侵攻によって滅亡した。それに対して鉄資源を確保したメソポタミアでは征服活動がさらに活発になり、その中から前12世紀末にアッシリアが有力となっていく。
エジプト末期王朝 第21王朝から最後の第31王朝までを末期王朝という。そのうち、第24王朝までを第3中間期とすることも多い。この時期にはヌビア(スーダン)の黒人王国クシュ王国、メソポタミアに起こったアッシリアに支配されている。アッシリアはアッシュール=バニパル王のとき、前663年にエジプトを征服し、メソポタミアからアジプトを含む全オリエントを初めて統一しアッシリア帝国を出現させた。しかしその武力支配による性急な統一策はまもなく行き詰まって倒れ、オリエントが新バビロニア王国(カルデア)メディア王国、リディア王国とエジプトの4国に分立するが、その時代のエジプトは第26王朝の時代といわれている。この王朝のネコ2世は、前600年ごろフェニキア人の海上進出を支援した。前525年にはイラン人のアケメネス朝ペルシアのカンビュセス王がエジプトに侵攻、第27王朝を立てた。その後の第28から第30王朝はエジプト土着王朝が独立を回復したが、前341年にはペルシアのアルタクセルクセス3世が軍隊を派遣してエジプト支配を再開し、第31王朝を建てた。
ヘレニズム時代のエジプト
前332年にアレクサンドロス大王がメンフィスを占領してエジプトを征服、前331年にアレクサンドリアを建設した。大王の死後はその部将の一人によってプトレマイオス朝が自立し、アレクサンドリアを都として、ヘレニズム三国の中で最も繁栄した。プトレマイオス朝エジプト プトレマイオス朝はギリシア系国家でいわゆるヘレニズム国家であった。しかし、ギリシア系の王は、エジプト統治にあたって、伝統のファラオの権威を利用しようとして、その文化を採り入れ、次第にエジプト化していった。都のアレクサンドリアは経済的に繁栄しただけでなく、ムセイオン(図書館兼研究機関)が設けられ、ヘレニズム文化の中心地として繁栄した。
しかし、前1世紀ごろになると、王位継承などで内紛が生じ、それに乗じたローマの介入が始まり、弱体化していった。前1世紀末、女王クレオパトラはローマに介入を依頼し、カエサルと結んだ。カエサル死後、クレオパトラはアントニウスと結んで生き残りを図ったが、前31年(アレクサンドリア建設からちょうど300年)、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスに敗れ、翌年、アレクサンドリアで自殺してプトレマイオス朝は滅亡した。
ローマ領時代
アウグストゥスの支配 オクタウィアヌスは前27年、アウグストゥスの称号を贈られ、実質的にローマ皇帝となった。こうしてエジプトはローマ帝国に組み込まれた。その年、ローマの属州は、元老院が総督任命権を持つ属州と、皇帝(アウグストゥス)が総督としての命令権(プロコンスル命令権)をもつ属州とに分けられたが、エジプトはそのどちらにも属さない、アウグストゥス個人が所有する皇帝財産という特別な土地とされた。アウグストゥスは事実上、エジプト王として君臨した。属州としてのエジプト そのうえでエジプトはローマ帝国への重要な穀物供給地(実質は他の属州と変わりなかった)とされ、毎年莫大な量の小麦がローマに運ばれ、ローマ市民の食糧として提供されただけでなく、皇帝権力の根源ともなった。その結果、アレクサンドリアはかつての地中海世界の中心的役割が薄くなり、ローマにその地位を奪われた。
395年にローマ帝国が東西に分裂すると、エジプトは東ローマ帝国の支配下に組み込まれた。東ローマ帝国がビザンツ帝国といわれるようになっても、エジプトは穀物供給地として従属する事に変わりは無かった。