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エジプト

 人類最古の文明の発祥の地の一つとされる、アフリカ北部、ナイル川の下流域。ベルベル地方および内陸部のアフリカ世界と、パレスチナを通じてオリエント世界のメソポタミアと、地中海を通じて古代地中海世界や中世以降のヨーロッパ世界と、そして紅海を距ててアラブ世界と、それぞれ接しており、前近代には世界の中心としての役割を担っていたとも言える。その歴史は長大であるが、大きく分ければ、古代文明期~ヘレニズム期、ローマ領期、イスラーム化の時期、近代の植民地化の危機の時代~現代のエジプトの時代、となる。なお、現在の正式国号は「エジプト=アラブ共和国」で、通称が「エジプト」である。ちなみに漢字表記では「埃及」と書く。

エジプト地図

Google Map をもとに作成

エジプト史の概観

 ナイル川流域に紀元前3000年ごろ統一国家が形成され、強大な王権を持つファラオのもとに、古王国・中王国・新王国の三期に分けられる王朝支配が続いた。この間、ピラミッド、象形文字などに代表される高度な古代文明を発展させた。前4世紀にアレクサンドロスに征服され、ヘレニズム国家の一つのプトレマイオス朝が成立。前1世紀末にローマの属州となり、ビザンツ帝国に継承される。7世紀にイスラーム勢力が進出しウマイヤ朝の支配を受け、10世紀にファーティマ朝がカイロを建設しカリフを称する。その後、十字軍を撃退したアイユーブ朝、マムルーク朝と続き、16世紀にオスマン帝国領となる。18世紀末のナポレオンの進出を機にトルコ人の支配に対するエジプト人の自立の運動が強まり、ムハンマド=アリーが自立。19世紀後半からはイギリスの進出が著しく、スエズ運河の経営権を獲得したのを足場に、ウラービーの反乱を鎮圧して保護国化を図る。第一次世界大戦後の1922年にエジプト王国として独立したが、王政は腐敗し、第二次世界大戦後の1952年、エジプト革命で倒される。革命を指導したナセルは第三世界のリーダーとして活躍し、同時にアラブの指導者としてイスラエルと戦ったが、第3次中東戦争の敗北によって後退。次のサダト大統領がイスラエルとの共存路線に転換。ムバラクがその姿勢を継承したが、長期政権化して民心が離れ、2011年の「アラブの春」で追放された。しかし、軍政が復活し、国内にイスラーム過激派の動きを抱え、情勢は依然として混迷している。


エジプト(1) 古代文明の繁栄

 メソポタミア文明の影響を受けながら、ナイル川流域に農耕文明が発展し、紀元前3000年頃、最初の統一国家エジプト古王国が成立した。その後、王朝交代を繰り返しながら、高度なエジプト文明を発展させ、前4世紀後半にはヘレニズム文明に継承された。前1世紀末にローマに征服され、その後ビザンツ帝国の支配が続いた後、7世紀末にイスラーム化が始まる。

 アフリカ大陸の北東部、スエズ地峡をはさんでユーラシア大陸と接している。また地中海、紅海に面し、ナイル川の恵みによってエジプト文明が成立した。「エジプトはナイルのたまもの」というヘロドトスが引用した言葉は有名で、潅漑農業が発達し、現在に至るまで地中海世界の中で貴重な小麦などの穀物の産地である。この地に農耕文明を生み出したのはハム語系の人々といわれていたが、現在ではそのような語系(語族)の存在が否定され、古代エジプト語という分類が用いられている。この古代エジプト語を話した古代エジプト人は、7世紀にイスラーム教が入ってきてからアラブ化が進み、現在のエジプトでは少数のコプト語を話す人々以外はアラブ系の人々が主体となっている。

エジプト文明の形成

 ナイル川流域に新石器文化つまり農耕・牧畜が始まるのは、紀元前5000年ごろ下(しも)エジプト(ナイル川下流、大三角州地帯)においてであり、メソポタミア文明より2000年ほど遅れた。ナイル下流に多くの村落をもとにした小国家(ノモス)が生まれ、その過程で青銅器神聖文字(ヒエログリフ)の使用、太陽暦などのエジプト文明を形成した。エジプト文明は、メソポタミア文明の影響も受けているので、広くとらえる場合はオリエント世界を構成すると言える。

エジプトの王朝時代

 前3000年紀ごろに生まれたエジプト王国は、王朝時代を古王国(大ピラミッドが造られた時代)・中王国新王国(メソポタミアにも進出した)、さらに末期王朝に分け、その間に中間期をおいており、アレクサンドロス大王に征服される前332年までに31の王朝が交替した。
古代エジプトの31王朝 エジプト史で「王朝時代」としているのは、紀元前3世紀の初めのマネトという神官が当時のプトレマイオス朝のプトレマイオス2世のためにギリシア語で表した『エジプト史』(原本は伝えられず紀元後1世紀のユダヤの歴史家ヨセフスや3世紀の教父アフリカヌスの著作に抜粋が引用されている)において、最初の統一国家の王メネスからアレクサンドロス大王の征服までを第1王朝から第31王朝までに区分した時代のことである。この区分はトリノ博物館に所蔵される王命表パピルスの王朝区分にも対応している。王朝の中には並列したものがあったり、時期もはっきりしないものが多いが、現在もエジプト史の王朝区分として踏襲されている。そして王朝時代に先行する、ナイル河畔に定住生活が始まってからを「先王朝時代」、アレクサンドロス大王の征服からローマ支配の末期までを「グレコ・ローマン時代」とよばれている。<屋形禎亮『人類の起源と古代オリエント』世界の歴史1 1998 中央公論社 p.381>
初期王朝 古王朝に先立つ、前3000ごろから前2650ごろまで。第1王朝~第2王朝。ノモスの首長の影響力から脱したファラオが太陽神の化身としての王権を、灌漑網の整備と対外交易の独占によって強め、上下エジプトの境界近くに新都メンフィスを建設し、王の任命する州知事を各地において支配した。その支配は次第にナイル中流の上(かみ)エジプトに及んでいった。
古王国 古王国時代は前2650年~2160年頃。第3王朝から第6王朝まで。ファラオをいただく中央集権国家体制が完成し、エジプト文明の最初の繁栄期を迎える。この頃成立したエジプト文明の基本パターンは王朝時代末期まで続く。古王国を象徴するのが、キザの三大ピラミッドであり、第4王朝のクフ王、カフラー王、メンカウラー王の王墓兼宗教施設である。しかし、第5王朝になると王権の後退が始まり、州知事は各地で自立し、世襲化される。
 第8王朝から第10王朝までは第1中間期とされ、王権は衰え政治的に混乱した。しかしその中で新しい価値観が生まれていった。
中王国 中王国は前21世紀から前18世紀。ヘラクリオポリスとテーベに南北二王朝が並立したが、前2040年ごろ、南のテーベの王によって統一され中王国時代となる。第11王朝から第12王朝の前1786年ごろまで。官僚制度は高度に組織され、支配地はナイル上流のヌビアにまで及び、クレタ文明との交易も行われた。
 第13王朝から第17王朝までは第2中間期とされ、エジプトの王権が衰えるとともに、オリエント全体で民族移動が展開され、その動きがナイル川流域まで及んで、エジプトに異民族支配の王朝が現れた。
オリエントの民族大移動 紀元前2000年紀(1000年代)のオリエントはの大民族移動期であった。まずインドヨーロッパ系のヒッタイトが北方からオリエントに侵入、その他、ミタンニ人カッシート人、フルリ人らが次々と建国した。シリア・パレスチナに進んだこれらの民族の一部と思われるヒクソスは、中王国が衰退したのに乗じ、前1650年頃、エジプトを支配し第15王朝を建設した。これがエジプト最初の異民族王朝である。彼らによって馬と戦車がもたらされ、エジプト文明は大きな影響を与えた。
新王国 新王国の時代は前1552~前1070年ごろ。第18王朝から第20王朝まで。テーベの第18王朝はヒクソスの軍事技術を学び、軍隊の要請に努め、前1542年ごろ、エジプトを解放と再統一を実現した。その後、約500年に及ぶ新王国時代が続く。この間、新王国のファラオトトメス3世は、前1486年、アジアからの再び侵略されないように、シリア・パレスチナにくりかえし遠征軍を送り、カッシート、ミタンニ、ヒッタイト、アッシリアなどと外交交渉をさかんにおこない、国際政治が展開された。しかしこの間、ファラオの崇拝を受けたテーベのアメン神を司る神官団が次第に力を増し、王位継承などに介入するようになった。そこでアメンホテプ4世は一種の宗教改革を中心としたアマルナ革命を行い、前1364年、都をテル=エル=アマルナに移し、自らもイクナートンと改名した。アマルナ文書はこの時代の国際政治の史料となっている。しかし、この改革は一代で終わり、第19王朝(前1306~前1186年)のラメセス2世は外征をさかんに行い、特にヒッタイトとは前1286年カデシュの戦いを戦った。しかしシリアの要衝カデシュを回復することはできなかった。このファラオの時代には戦勝を祈願するためのアブシンベル神殿その他の大神殿が盛んに建造された。
オリエントの鉄器時代 前1200年ごろ、ヒッタイト王国が海の民の移動に伴う一連の民族移動の結果として滅亡すると、それまでヒッタイトに独占されていた製鉄技術が諸地域に広がり、オリエントは鉄器時代を迎えた。しかし、鉄資源を輸入に依存し、自給できなかったエジプトは第20王朝の終末(前1070年ごろ)には植民地をすべて失い、前1069年、エジプト新王国も海の民の侵攻によって滅亡した。それに対して鉄資源を確保したメソポタミアでは征服活動がさらに活発になり、その中から前12世紀末にアッシリアが有力となっていく。
エジプト末期王朝 第21王朝から最後の第31王朝までを末期王朝という。そのうち、第24王朝までを第3中間期とすることも多い。この時期にはヌビア(スーダン)の黒人王国クシュ王国、メソポタミアに起こったアッシリアに支配されている。アッシリアはアッシュール=バニパル王のとき、前663年にエジプトを征服し、メソポタミアからアジプトを含む全オリエントを初めて統一しアッシリア帝国を出現させた。しかしその武力支配による性急な統一策はまもなく行き詰まって倒れ、オリエントが新バビロニア王国(カルデア)メディア王国リディア王国とエジプトの4国に分立するが、その時代のエジプトは第26王朝の時代といわれている。この王朝のネコ2世は、前600年ごろフェニキア人の海上進出を支援した。前525年にはイラン人のアケメネス朝ペルシアのカンビュセス王がエジプトに侵攻、第27王朝を立てた。その後の第28から第30王朝はエジプト土着王朝が独立を回復したが、前341年にはペルシアのアルタクセルクセス3世が軍隊を派遣してエジプト支配を再開し、第31王朝を建てた。

ヘレニズム時代のエジプト

 前332年にアレクサンドロス大王がメンフィスを占領してエジプトを征服、前331年アレクサンドリアを建設した。大王の死後はその部将の一人によってプトレマイオス朝が自立し、アレクサンドリアを都として、ヘレニズム三国の中で最も繁栄した。
プトレマイオス朝エジプト プトレマイオス朝はギリシア系国家でいわゆるヘレニズム国家であった。しかし、ギリシア系の王は、エジプト統治にあたって、伝統のファラオの権威を利用しようとして、その文化を採り入れ、次第にエジプト化していった。都のアレクサンドリアは経済的に繁栄しただけでなく、ムセイオン(図書館兼研究機関)が設けられ、ヘレニズム文化の中心地として繁栄した。
 しかし、前1世紀ごろになると、王位継承などで内紛が生じ、それに乗じたローマの介入が始まり、弱体化していった。前1世紀末、女王クレオパトラはローマに介入を依頼し、カエサルと結んだ。カエサル死後、クレオパトラはアントニウスと結んで生き残りを図ったが、前31年(アレクサンドリア建設からちょうど300年)、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスに敗れ、翌年、アレクサンドリアで自殺してプトレマイオス朝は滅亡した。

ローマ領時代

アウグストゥスの支配 オクタウィアヌスは前27年、アウグストゥスの称号を贈られ、実質的にローマ皇帝となった。こうしてエジプトはローマ帝国に組み込まれた。その年、ローマの属州は、元老院が総督任命権を持つ属州と、皇帝(アウグストゥス)が総督としての命令権(プロコンスル命令権)をもつ属州とに分けられたが、エジプトはそのどちらにも属さない、アウグストゥス個人が所有する皇帝財産という特別な土地とされた。アウグストゥスは事実上、エジプト王として君臨した。
属州としてのエジプト そのうえでエジプトはローマ帝国への重要な穀物供給地(実質は他の属州と変わりなかった)とされ、毎年莫大な量の小麦がローマに運ばれ、ローマ市民の食糧として提供されただけでなく、皇帝権力の根源ともなった。その結果、アレクサンドリアはかつての地中海世界の中心的役割が薄くなり、ローマにその地位を奪われた。
 395年にローマ帝国が東西に分裂すると、エジプトは東ローマ帝国の支配下に組み込まれた。東ローマ帝国がビザンツ帝国といわれるようになっても、エジプトは穀物供給地として従属する事に変わりは無かった。

エジプト(2) イスラーム化

641年にイスラーム勢力に征服され、イスラーム化した。ウマイヤ朝、アッバース朝の支配が続いた後、10世紀中頃、シーア派のファーティマ朝がエジプトを支配、新首都カイロを建設した。その後アッバース朝の弱体化以降は、独自のイスラーム政権が興亡する。

イスラーム勢力のエジプト征服

 ビザンツ帝国領としてのエジプトは、ローマ帝国以来の穀倉として位置づけられて重視されていたが、そのエジプトにイスラーム教の勢力が侵入したのは正統カリフ時代の639年、第2代カリフのウマルの時に始まる。636年にシリアでビザンツ帝国軍と戦って勝利した将軍アムルの率いるアラブ軍は、641年にエジプトに侵入、ナイル河畔のビザンツ軍の拠点バビロン(メソポタミアの大バビロンに対し小バビロンとも言われた)を攻撃し、征服した。次いでアレクサンドリアを包囲し、同年11月に降伏させた。
 アラブ軍は、ナイル河畔の軍営地に、新たにエジプト統治のための都市フスタートを建設した。軍営都市フスタートは現在のカイロの元になる都市で、古カイロとも言われる。アレクサンドリアはその後、イスラーム海軍の基地として、その地中海進出の拠点となる。そしてエジプトはその後長くイスラーム世界の一つの中心地として現在まで続く。
エジプトのキリスト教 イスラーム勢力が支配を及ぼした頃、エジプトにはコプト教会というキリスト教の一派(ローマ教会からは異端とされていた)が多かったが、彼らは啓典の民として信仰を認められ、代わりにジズヤとハラージュを負担した。後に十字軍時代にイスラームとキリスト教の対立が激しくなる中で、コプト教会も弾圧され、現在ではその信者は全エジプトの10%程度といわれている。

ファーティマ朝のエジプト

 エジプトは7世紀に正統カリフ時代のイスラーム帝国に支配され、その西方(北アフリカから地中海、イベリア半島)進出の拠点となった。ウマイヤ朝が衰退して9世紀にトゥールーン朝が自立した後、西方のチュニジアに起こったファーティマ朝に征服され、ファーティマ朝は972年、フスタートの北方に新首都カイロを建設した。ファーティマ朝はシーア派の中の最も過激なイスマーイール派を信奉していたので、アッバース朝のカリフを認めず、王は10世紀初めにカリフを称したのでイスラーム世界は3カリフ時代に突入した。カイロはイスラーム世界の一つの中心地として大いに繁栄するとともに、シーア派の中心都市となり、アズハル学院もシーア派法学の研究のためのマドラサとして設立された。

アイユーブ朝からマムルーク朝へ

 11世紀になるとファーティマ朝は、小アジアから勢力を伸ばしたセルジューク朝によってシリア・パレスチナを奪われた。イスラーム世界がこの二国の対立で弱体化しているところに11世紀末の十字軍の侵攻が始まった。ファーティマ朝はセルジューク朝が十字軍の攻撃を受けている間にイェルサレムを占領したが、結局敗れてパレスチナから撤退した。イェルサレム王国を拠点とする十字軍はその後、たびたびエジプトにも侵攻するようになるが、すでにファーティマ朝にはエジプトを亡命する力は無く、十字軍に対する反撃は、シリアのザンギー朝によって開始され、さらにその部将であったサラーフ=アッディーンがエジプトに派遣されて、ファーティマ朝の宰相に任命され、実権を奪ってアイユーブ朝を樹立した。しかしアイユーブ朝は間もなく分解し、その軍事力を担っていたマムルークがエジプトの実権を奪ってマムルーク朝(13世紀)が成立した。
シーア派からスンナ派へ アイユーブ朝・マムルーク朝はいずれもスンナ派を信奉していたので、エジプトのシーア派色は一掃され、アズハル学院もスンナ派の研究機関に変質した。マムルーク朝はシリア方面にも勢力を及ぼしたので、カイロは再びイスラーム世界の中心都市として繁栄し、特にカーリミー商人と言われる遠隔地取引を行う商人が紅海から地中海、インド洋に進出し活躍した。

オスマン帝国の支配

 マムルーク朝は小アジアから起こったオスマン帝国セリム1世の時、1517年に攻撃されて滅亡、エジプトはオスマン帝国の領土となった。オスマン帝国はバルカン半島、小アジア、エジプトという東地中海を支配する大帝国となり、これによって聖地メッカメディナの保護権を得たので、イスラーム世界の盟主となったとされている。その後、オスマン帝国のエジプト総督(太守)が置かれ、オスマン帝国の重要な資源供給地となって近代まで支配が続くこととなる。
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書籍案内

屋形 禎亮・佐藤 次高
『西アジア上』
地域からの世界史7
1993 朝日新聞社

イスラーム化以降のエジプト。回路の繁栄まで。

永田雄三・加藤博
『西アジア下』
地域からの世界史8
1993 朝日新聞社

オスマン帝国の支配~近代化と独立へ。

エジプト(3) 近代エジプトの苦闘

18世紀末から民族的自覚が強まり、19世紀始めにムハンマド=アリーが自立する。しかし、次第に列強の干渉を受けるようになり、19世紀末にはイギリスの実質的植民地支配を受ける。

ムハンマド=アリー朝

 オスマン帝国の衰退に伴うアラブの民族的覚醒が強まる中、1789年のナポレオンの遠征の刺激もあって独立運動がおこり、1805年にエジプト総督ムハンマド=アリーが自立して、ムハンマド=アリー朝エジプトが事実上の独立を達成する。ムハンマド=アリーは、宗主国オスマン帝国からの完全な独立をめざし、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国に対抗出来るだけの国力をつけるための富国強兵策を進めた。その障害となるマムルーク勢力を一掃して近代化に着手し、全国の土地調査を実施し、政府が直接に徴税する体制をつくり、また西欧の技術を導入した近代的工場の建設を進め、とくに紡績、織機、兵器生産などに力を入れた。
 一方でムハンマド=アリーはオスマン帝国の弱体化につけ込んで周辺に勢力を伸ばし、アラビア半島のワッハーブ王国を倒し、ギリシア独立戦争ではオスマン帝国を助けた代償としてクレタ島とキプロス島を獲得、さらにスーダンにも進出した。ついにシリア領有権を主張して1831年から2次にわたるエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国と戦い、一時はシリアを占領したが、この勢力拡大を警戒したイギリス・フランス・ロシアの介入によって東方問題といわれるようになり、1840年のロンドン会議で、ムハンマド=アリーはエジプトとスーダンの総督の地位の世襲を認められたが、その他の領土は放棄した。
 ムハンマド=アリー朝は国際的にもその実質的独立は認められたが、農民に対する徴税やエジプト=トルコ戦争などでの兵役負担は次第にその不満を増大させていった。

エジプト財政の破綻

 ムハンマド=アリー朝のエジプトは、形式的にはオスマン帝国を宗主国としていたので、オスマン帝国がイギリスと結んだ不平等条約であるトルコ=イギリス通商条約が適用され、関税自主権はなく、治外法権が認められている状態であった。しかし、ナイル川流域の豊かな小麦・綿花などの農業生産力を有しており、次第に力をつけていった。サイードとイスマーイールの二代の副王(実質的には国王)の下で鉄道の敷設などの近代化を進めた。サイードはフランス人レセップススエズ運河の開削計画を許可し、1859年から工事が開始され、10年後の1869年に完成、エジプトの出資するスエズ運河会社として運営されることとなった。

イギリスによる実質的支配

 また、外国資本の進出も活発となり、1862年にはじめて外債を募集、以後雪だるま式に外債が増加した。1869年にはスエズ運河が完成したが、エジプト王国は財政難に陥り、早くも1875年にはイギリスにスエズ運河株を売却した。翌76年、エジプト財政は破綻し、イギリス・フランス二国に財政を管理されるこという事態に陥った。ここからイギリスのエジプトに対する帝国主義的進出が本格化し、スエズ運河の経済的、軍事的価値を重視し、エジプトに対する財政支援を続け、実質的な支配を確立していく。

ウラービー運動

 19世紀末にはエジプトは外債が累積して財政は破綻してイギリス・フランス両国による二重管理下に置かれ、イギリス人・フランス人が内閣に入閣するまでになった。そうした中、1881年にエジプト人将校ウラービー大佐が蜂起し、「エジプト人のためのエジプト」をかかげたウラービー革命(ウラービーの反乱)が起こった。
ウラービー革命 これはウラービーが組織したワターニュン(愛国者たち、ワタン党)を中心とした、エジプト最初の民族主義運動であり、反ヨーロッパ列強(英仏二重管理批判)、反オスマン帝国、反エジプト副王(当時はエジプト総督は副王=ヘディーウを称号としていた)など多面的な反乱であり、議会制の樹立、外国軍隊の撤退、自国軍の増強などを掲げてた、「ウラービー革命」と言うべき動きだった。またこの革命にはアフガーニーとその弟子のムハンマド=アブドゥフなどのウラマー(イスラーム知識人)が加わっており、後のパン=イスラーム主義への出発点ともなった。

イギリスのエジプト保護国化

 革命的動きに押された副王政府はウラービーを陸軍大臣に就任させ、憲法を制定して議会開設を決定し、革命は成就したかと思われたが、1882年7月、イギリス軍が直接介入、アレクサンドリアに砲撃を加えた上で上陸して、革命軍を鎮圧した。ウラービーは反乱を起こしたとして捕らえられてセイロン島に流刑となり、1882年9月13日にエジプトはイギリス軍の単独軍事占領下に置かれ、事実上の保護国とされることとなった。 → エジプトの保護国化
 こうしてウラービー革命はイギリス軍によって抑圧されたが、革命途中からウラービーが掲げた「エジプト人のためのエジプト」のスローガンは、その後のエジプト民族運動が継承して掲げることとなった。その運動は、「ウラービー運動」として継承された。その後継者の一人、ムスタファ=カーミルは1907年にあらたに国民党を結成して反英独立を説いたが病に倒れた。

イギリスのスーダン進出

 19世紀末、イギリスはエジプトから勢力を南下させ、スーダンに勢力を伸ばしていた。1881年、エジプトでウラービーの反乱が起きると、それに呼応してマフディーの反乱が起こった。イギリスはエジプト軍と共同して出兵し、苦戦の上、ようやく鎮圧し、その後は形の上ではイギリスとエジプトの共同統治、実質はイギリスの植民地として支配することとなった。

エジプト(4) イギリス支配から独立へ

19世紀末からイギリスの保護国とされたが、第一次世界大戦後の民族主義の高まりの中でエジプト王国が独立。

イギリス帝国主義による支配

 1882年にエジプトを事実上の保護国としたイギリスは、エジプトを中東をへてインドに及ぶイギリス帝国の支配ルート、いわゆる「インドへの道」の中継地として重視していた。さらにイギリスはエジプトと南アフリカのケープ植民地とを結ぶアフリカ縦断政策をとり、サハラからジブチに向かうアフリカ横断政策をとるフランスとの間で、1898年にファショダ事件が起こった。しかし全面的衝突を避けたイギリスとフランスは、1904年には英仏協商を締結し、イギリスはフランスのモロッコ支配を承認する代わりに、フランスはイギリスのエジプト支配を承認させた。こうしてエジプトは、帝国主義列強の世界分割の中でイギリスの勢力圏とされることが確定した。

第一次世界大戦とエジプト

 1914年に第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がドイツ・オーストリア側に参戦すると、イギリスは正式にエジプトを保護国とすることをオスマン帝国に通告した。大戦が始まると、イギリスはカイロを拠点に、パレスチナやアラビア半島に進出してオスマン帝国領を脅かした。カイロはイギリスのオスマン帝国との戦闘の指揮所として機能したということができる。
ワフド党の活動 しかし大戦中の民族自決の風潮はエジプトにも及び、1919年にはサアド=ザグルールを指導者とする全国的な反英民族独立運動が生まれた。サアド=ザグルールは第一次世界大戦のパリ講和会議にエジプト代表を参加させる運動を組織、それがワフド党(ワフドは「代表」の意味)である。
 サアド=ザグルールとワフド党は、エジプトがイギリスの保護国である体制を打破し、独立国としてパリ講和会議への出席を要求したのであったが、その要求はイギリス当局によって拒否された。
1919年革命 1919年3月、ワフド党の要求がイギリスによって拒否されるとエジプトでは急速に反英ムードが高まった。事態を恐れたイギリスはザグルールを逮捕し、マルタ島に送還して運動を弾圧した。それに対してエジプト国民は各地で抗議のデモやストライキに起ち上がった。この1919年革命はイギリスによって押さえ込まれ、失敗に終わったが、エジプトが明確な独立を指向する運動の最初の動きとなり、20世紀に生まれたエジプトの若者にとって民族独立運動の出発点として思い起こされることとなった。

エジプト王国の名目的独立

 イギリスは1922年2月28日に一方的にムハンマド=アリー朝のエジプト王国として独立を認めたが、イギリスの通信・運輸施設、防衛、外国人などの保護、スーダン統治の4点はイギリスの特権を残す条件が付けられた。つまり、独立と言っても名目的なものに過ぎなかった。王国内部はイギリスに追随する宮廷派と真の独立を求めるワフド党の対立が続いた。
ワフド党政権 ワフド党は広範な階層を含む民族主義政党となったが、次第に地主や民族資本家などの利益を代表するようになり、政治的には立憲君主政を掲げるようになった。1924年には政権党となった。
 ようやく1936年8月26日に、イギリスが譲歩し、エジプト=イギリス同盟条約を締結してエジプトの完全な主権を認めた。しかしイギリス軍はスエズ運河地帯とスーダンへの駐屯はそのまま継続した。イギリスは名目的なエジプト独立を認めながら、スエズ運河の権利を守るため軍隊駐留権だけは残したのだった。
イスラーム原理主義の萌芽 エジプト王国のワフド党政権は次第に保守化、世俗化の傾向を強めて、外交ではイギリス追従を続けていった。それに対して1929年にハッサン=アルバンナーによって結成されたムスリム同胞団は、コーランに基づく平等を説いて都市民や農民に支持を広げ、民族の枠を超えたアラブの団結を訴えるようになった。この組織が現代におけるイスラーム原理主義運動の源流となっていく。
 1930年代のエジプトではこのイスラーム同胞団の他に、学生を中心に組織され国王の下で強力な国家を建設することを主張する青年エジプトの運動も始まり、また少数ではあるが共産主義のグループも生まれ、第二次世界大戦後に大きな組織へと成長していく。またエジプト軍はこのころからイギリスからエジプト王国の管轄に遷り、若い士官候補生の中にエジプトの変革を志向する勢力が現れた。それがナセル、アーメル、サダトなどの自由将校団グループだった。

エジプト(5) パレスチナ戦争の敗北と革命

パレスチナ戦争でイスラエルに敗れ、王政への不満が強まり、1952年、エジプト革命によって王政が倒されエジプト共和国が成立。権力を握ったナセルは、アラブ世界の指導者としてスエズ運河国有化などに踏み切る。

 第二次世界大戦では、イギリスはエジプト=イギリス同盟条約をもとにエジプトにイギリス軍を駐屯させ、ドイツ・イタリアとの闘いの拠点として利用した。エジプトは隣国リビアがイタリアによって支配され、枢軸軍のロンメルが国境に迫ると、国王ファルークはイギリスの支配から脱する好機ととらえ、枢軸側に協力する動きを示した。イギリスはカイロの王宮を精鋭部隊で包囲して国王の動きを抑えた(1942年2月4日事件)。イギリスは実力でエジプトを連合国側に止めることに成功し、1943年には連合国首脳のカイロ会談が開催された。
 大戦中の1945年3月、エジプト王国のファルーク国王はカイロでパン=アラブ会議を開催、アラブ諸国を結集してアラブ諸国連盟を結成、アラブの未独立国の支援を掲げた。

パレスチナ戦争の敗北

 第二次世界大戦後の中東情勢は、イギリスの後退と共に激変し、パレスチナへのユダヤ国家建設問題が大きく浮上した。エジプトを中心とするアラブ諸国連盟はそれを阻止しようとして、発足したばかりの国際連合を舞台に動いたが、1947年11月に国連ではパレスチナ分割案が成立し、それ受けてイスラエルが建国されることとなった。1948年5月15日、それを阻止すべく、エジプトなどアラブ諸国はイスラエルを攻撃し、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)となったが、アメリカやイギリスの軍事支援を受けて近代的な装備をもち、組織も近代化されたイスラエル軍に対して、アラブ諸国軍は王政の下での半封建的な軍隊組織が続いていたため、戦争はイスラエルの一方的な勝利となり、事実上建国は動かない事実となった。

エジプト革命

 この敗北はアラブ諸国に大きな衝撃となり、社会主義の影響も受けたアラブ民族主義運動が活発化する契機となった。ファルーク国王はワフド党を政権に復活させたが、イギリスとの関係が悪化し、またその特権層や地主と結んだ支配に対する国民的は反発が強まっていった。そのような中、かねて王政では危機を救えないと考えていた青年将校らを中心として革命機運が高まり、1952年7月、ナセルの指導する自由将校団がクーデタを決行して国王ファルークを追放、エジプト革命が開始され、革命政権は1953年6月18日にムハンマド=アリー朝を廃止してエジプト共和国の樹立を宣言してナギブとした。これはアラブ圏で最初の民族独立・民主主義を実現した革命であった。エジプト革命は中東のアラブ諸国の民族主義に大きな影響を与えた。
注意 新しいエジプト革命 世界史の用語としての「エジプト革命」は、従来この1952年のナセル・ナギブら自由将校団による王制打倒と翌年のエジプト共和国を樹立した変革のことを指していたが、最近は、2011年のムバラク大統領を辞任に追い込んだ民主化闘争(「アラブの春」ともいわれる)のことを指すようになっている。ただ、2011年の民主化闘争を「革命」と言えるか、についてはまだ疑問が残っており、教科書的には定着していないので、ここでは従来通りの意味で使用した。

エジプト(6) エジプト共和国・アラブ連合共和国

エジプト共和国は1953年に樹立された。実権を握ったナセル大統領の主導のもと、58年にはシリアとのアラブ連合共和国となったが、61年に解消、しかしその後も国号はそのままとした。ナセル死後の1972年に現在のエジプト=アラブ共和国となる。

 1952年のエジプト革命によってファルーク国王を追放し、翌1953年6月18日に王政を廃止して、正式にエジプト共和国として共和政に移行した。初代大統領は自由将校団の指導者で首相だったナギブが就任した。

エジプト共和国 ナセルの時代

 しかし、その同志で実質的な革命の指導者あったナセルは穏健なナギブに不満を抱き、1954年にナギブを追放して首相として実権を握り、民族主義に社会主義を加味した独自の社会改革を進めた。ナセルは外交面では1955年にバンドンでのアジア=アフリカ会議に参加し、インドのネルーやインドネシアのスカルノらとともに第三世界のリーダーの一人となった。さらに非同盟主義をかかげて非同盟諸国首脳会議に加わり、米ソ二大国を牽制した。
スエズ運河国有化  これらの実績をもとに、1956年には大統領に就任し、名実ともにアラブの指導者となった。ナセルはエジプト産業の基幹としてアスワン=ハイダム建設を計画、西側諸国にも支援を要請したが、アメリカや世界銀行などがそれを拒否したため、同1956年7月26日にはスエズ運河国有化を宣言した。反発したイギリス・フランスはイスラエルをさそってエジプトに対する攻撃を行い同年10月29日第2次中東戦争が起こった。エジプト軍はイスラエル・英仏の三国軍の攻撃を受けて苦戦に陥りシナイ半島を占領されたが、国際世論は英仏・イスラエルを非難し、アメリカのアイゼンハウアー大統領も英仏を支持しないことを表明、そのため英仏・イスラエル軍は撤退し、エジプトのスエズ運河国有化を認めざるを得なかった。実質的勝利を勝ち取ったナセルのエジプトはアラブ世界の盟主としての地位を強めた。

アラブ連合共和国の結成

 スエズ運河の利権を失ったイギリスが西アジアでの発言権を失ったスキに、ソ連が進出することを恐れたアメリカは1957年1月、アイゼンハウアー=ドクトリンを発表して西アジアへの軍事介入を辞さないことを表明した。それに対抗してナセルは、1958年2月22日にはシリアと合同して「アラブ連合共和国」を結成、アラブ世界の統合に乗り出した。ナセルのエジプトでアラブ民族主義が高揚したことは周辺に強い影響を与え、イラクでは1958年7月にイラク革命が起こり、王政が倒されてイラク共和国が成立、同年、レバノンではレバノン暴動が起こった。
このころがナセルが最も輝いていた時代であったが、61年にアラブ連合共和国でシリアが離脱したことから、その権威には動揺が始まった。

エジプト(7) エジプト=アラブ共和国

ナセルに代わって大統領となったサダトのもとで、1971年に国号が現在のエジプト=アラブ共和国に変更された。サダトは73年に第4次中東戦争で緒戦に勝利したが、1977年に和平方針に転換した。サダトが81年に暗殺されムバラクが後継となったが、長期化した強権姿勢に国民が反発し、2011年に崩壊した。その後、民主化が続いているが、軍の政治介入、宗教的対立など問題が多く、混迷が続いている。

第3次中東戦争

 シリアの離脱でアラブ連合共和国の実体はなくなり、エジプトの単独国家となったが、国号はそのままにした。このころからナセルの指導力にかげりが生じ、1967年の第3次中東戦争ではイスラエル軍の奇襲に敗れ、シナイ半島などを奪われ、その権威は大きく失墜し、失意のうちに1970年にナセルが急死した

サダトの時代

 ナセルのあとは同じ軍人で、政権を支えていたサダトが大統領に就任し、71年9月から国名をエジプト=アラブ共和国に改称した。これが現在の正式国号であり、「エジプト」はその通称である。
第4次中東戦争 サダト大統領は一気に劣勢を跳ね返そうとして軍備増強に努め、1973年の第4次中東戦争でイスラエル奇襲に成功し、またイスラエルの反撃をアラブ諸国の石油戦略で押さえ込んで一定の勝利を収めた。しかし同時にイスラエルを消滅させることも困難であることを認識するに至った。

対イスラエル和平の実現 サダトの転換

 中東情勢はその後もテロの応酬が続いて混迷を続け、ついにサダトのエジプトは急激にイスラエルとの和平に転換し、1977年にサダトがイスラエルを訪問、またアメリカのカーター大統領の仲介によって1979年にエジプト=イスラエル平和条約を締結した。これによってパレスチナ情勢は激変、中東戦争のようなエジプト・イスラエルを軸とした全面対決はなくなったが、パレスチナ難民の組織であるパレスチナ解放機構(PLO)を中心としたアラブ過激派のテロ活動とそれに対するイスラエルの反撃が激しくなっていった。
 またエジプトもアラブ連盟から脱退し、アラブ民族の盟主であることを放棄することとなった。そしてサダトはイスラエルとの和平に反対するイスラーム原理主義者によって1981年に暗殺され、ムバラクが大統領となった。

ムバラク長期政権

 1981年に始まるムバラク大統領の下で、翌82年にシナイ半島返還が実現した。ムバラクは長期政権を続け、イスラエル・アメリカとの友好関係を維持する一方、アラブ諸国との関係回復に努め、1989年にアラブ連盟に復帰した。
 1990年の湾岸戦争においては多国籍軍に参加した。しかし、かつてのナセル時代のようなアラブ世界・第三世界のリーダーとしての影響力は失われてた。またムバラク政権の親米・世俗化路線に反発するイスラーム過激派の運動も活発で、1997年11月には、ナイル川上流の遺跡見学中の日本人を含む観光客がイスラーム原理主義ムスリム同胞団系のテロ集団によって多数殺傷されるというルクソール事件が起こっている。ムバラク政権は、イスラーム原理主義に対しては厳しい態度で臨み、そのテロ活動を取り締まった。

ムバラク政権の崩壊

 ムバラク長期政権は国内の反対派を厳しく抑え込み、言論の自由を奪い、一方で一族が利権を独占するなどの腐敗を生じさせた。2011年、チュニジアで起こった長期政権反対の民衆運動による政権交代から始まったアラブの春は、エジプトにも大きな影響を及ぼし、ムバラク長期政権に対する不満が一気に爆発、2011年1月25日にカイロなどで大規模なデモが行われ、2月11日についに大統領は辞任に追い込まれた。1日で一挙にエジプトの政局を転換させたので、特に「1月25日革命」とも言われている。

Episode SNSで始まった革命

 ムバラク体制に対し、自由を求める若者の運動はすでに始まっていた。2008年4月6日、フェイスブック上で若者がストを呼びかけたのがきっかけで「4月6日運動」が始まった。さらに2010年6月、アレクサンドリアでハレド・サイードという青年が警察官が押収した麻薬を横流しする映像をユーチューブに投稿し、そのため警察に逮捕され、顎の骨を砕かれる暴行を受けて死亡する事件が起き、忽ち全国で抗議の反政府デモが続発した。
 2011年1月14日にチュニジアでベンアリ大統領が追放されたことが伝わると、1月25日、フェイスブックなどを通じてエジプトの変革を求める若者が呼びかけ、約1万人が民主主義と自由、社会の不正義の是正と公正を求めてカイロ中心部のタハリール広場に集まった。<森戸幸次『中東和平構想の現実―パレスチナに「二国家共存」は可能か』2011 平凡社新書 p.107>

ムバラク後のエジプトの混迷

 2011年の「1月25日革命」でムバラク政権は倒され、1981年から続いた長期独裁政治は終わりを告げ、エジプトは新たな民主化に歩み始めた。しかし、その後の歩みは混迷が続いている。
ムルシー大統領 2012年6月、大統領選挙が行われ、「自由と公正党」のムルシーがイスラーム系保守派のムスリム同胞団の支持を受けて当選、大統領となった。ムルシーは学者であり、エジプトで最初の文民(非軍人)大統領で、民主化が進むと期待されたが、その支持母体であるムスリム同胞団の主張に従い、エジプトにイスラーム主義の原理主義的政策を強行しようとした。そのため、世俗化の維持を主張する軍との関係が次第に悪化していった。また大統領がイスラーム主義の憲法を制定しようとしたことに民衆が反発、経済の悪化も加わり、不安定な状況となった。2013年6月にはカイロを始め各地で反政府デモが起こった。
再び軍が政権握る ムルシー大統領の政権運営を批判した国防大臣シーシは、2013年7月1日、大統領退陣要求を声明、政権がそれを認めなかったとして3日に軍事行動を開始、3日に臨時政権が樹立され、ムルシ-は軍に身柄を拘束されて、政権は1年で崩壊した。またムスリム同胞団も幹部が逮捕され、活動は停止された。
 軍が、選挙で選ばれた大統領が強制的に退陣させた形となったくーデタは、民主化に逆行するとしてオバマ大統領を始め国際世論は批判的であり、国内でもムルシー支持派が行動を起こし、8月には軍・暫定政府側とムスリム同胞団などムルシー支持が衝突、流血の事態となった。しかし国内世論は、イスラーム主義への転換への拒否、世俗化維持を支持する声が強く、イスラーム穏健派、キリスト教徒、コプト教徒も暫定政府側を支持した。両派の散発的は衝突は次の年も続いたが、暫定政府側はムルシー派をテロ活動として排除する動きを強めた。
 ムルシー政権を倒したのは明らかに軍のクーデタであったが、次第に国際社会でもこれをクーデタとは見ない状況が強まった。
シーシ大統領 2014年5月の大統領選挙でムルシー政権を倒す上で主導権を握っていた元国軍司令官シーシ自身が出馬、圧勝して大統領に就任した。これによって政権交代は正当に行われたこととして定着した。この政権交代により、前々大統領ムバラクに対する裁判はやり直しとなり、最終的に無罪となった。 その一方でムルシー前大統領は2015年6月、刑事裁判所で同じように反政府デモ隊への殺害を煽動した罪として死刑が宣告された。前大統領は2019年6月、獄中で病死した。