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中国人民義勇軍

成立直後の中華人民共和国が、朝鮮戦争で北朝鮮を支援するために派遣した軍隊。

 1950年10月19日中華人民共和国の国家主席毛沢東は人民義勇軍(志願軍)を派遣して朝鮮戦争に参戦、鴨緑江を越えた。人民義勇軍とはいえ、じっさいには正規軍であった。参戦理由は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)金日成政権の瓦解を阻止すること、およびアメリカ軍を主力とする国連軍が中朝国境の鴨緑江にまで迫り、中国の安全が脅かされたからであった。

朝鮮戦争での攻勢と後退

 中国軍はこの戦争を設立されたばかりの中華人民共和国の存亡を賭けた戦いと位置づけ、毛沢東の人民戦争戦略・戦術で戦った。国連軍司令官マッカーサーは中国軍を過小評価し、「クリスマスをアメリカ本土で」という楽観的見通しであったが、人海戦術で攻撃する中国軍はアメリカ・韓国軍に大攻勢をかけ、1951年1月ソウルを奪還した。
 しかし、中国軍の補給線が延びきったところでアメリカ軍は反撃に転じ、人海戦術に対して最新兵器を駆使した機動部隊で押し返し、5月には北緯38度線まで押し戻した。中国軍は地下陣地を構築して対抗し、戦線が膠着した。1953年7月に停戦が成立、撤兵を開始した。朝鮮戦争に投入された中国軍の総兵力は公表されていないが、約500万と思われる。<平松茂雄『中国人民解放軍』岩波新書 1987 p.72>

Episode 朝鮮戦争で死んだ毛沢東の長男

(引用)毛沢東の実質的な最初の妻、楊開慧は3人の男の子を産み、1930年、30歳の時に国民党に逮捕されて、処刑された。長男の毛岸英は1950年、29歳の時に朝鮮で戦死している。この人はなかなか出来がよくて毛沢東も将来を期待していた。朝鮮戦争に行かせたのは、修行の意味もあり、主席自らむすこを前線に送ったという格好をつける必要もあったのだろうが(朝鮮に行った中共軍は一応『志願兵』ということになっているから)、戦死したと聞いて、なぜそんな危ない戦場へ出したのかと激怒したということだ。<高島俊男『中国の大盗賊・完全版』2004 講談社現代新書  p.290>
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書籍案内

高島俊男
『中国の大盗賊・完全版』
2004 講談社現代新書