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国連軍

国際連合の国際平和と安全の維持を任務とした安全保障理事会の管轄下にある軍事力。実際に常置されているわけではなく、平和維持活動に際して通称的に用いられる。

 国際連合国際連合憲章には「国連軍」という文言はなく、第42条の「安全保障理事会は、第41条に定める措置(注・経済的制裁などの非軍事的措置)では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。」とあるところの、強制力を伴う軍事力のことを一般に国連軍と言っている。また、第43条〔特別協定〕には「国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き且つ一つ又は二つ以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。・・・」とあり、安保理との特別協定に従って加盟国が兵力を出すことになっている。これは集団安全保障の理念にもとづく規定である。

実態のない国連軍

 以上のような国連憲章に基づいた「国連軍」はまだ作られていない。常置の国連軍が存在するわけではない。国連創設後、5大国の参謀総長などが憲章規定に基づく軍事参謀委員会を開催したが、国連軍の規模(アメリカは強大な常設の国連軍の設置を主張、ソ連は小規模な軍事力の供出を主張)などで意見がまとまらず、1948年までで検討は打ち切られた。さらに冷戦以来、安全保障理事会の常任理事国である米ソの対立が続いたため、安保理常任理事国が全員一致で軍事行動を起こすことで合意した例はまだない。

国連の軍事行動の実際

 1950年の朝鮮戦争ではソ連が不参加の安保理で朝鮮国際連合軍が派遣されることが決定されたが、実質はアメリカ軍司令官の統一指揮下にあるアメリカ軍が国連軍の名称を使用したものであった。その後、1956年のスエズ戦争、60年のコンゴ動乱などの際の国連の指揮下で派遣された軍隊も「国連軍」と一般に言われることがあるが、それらは国連の「平和維持活動(PKO)」の一部を成す「国連平和維持軍(PKF)」であった。
 また1991年の湾岸戦争では国連の安保理決議にもとづいて、アメリカ軍を中心とした多国籍軍がイラク軍のクウェートからの排除ために戦闘を行った。冷戦終結後はPKOによる軍事行動が急増する一方、2001年の9.11同時多発テロ以降は、アフガニスタン空爆やイラク侵攻、あるいはNATO軍のセルビア空爆のように国連の統制外のアメリカ軍主体の軍事行動が多くなっている。これらのように、国際連合憲章に基づく集団安全保障の理念からはずれた、集団的自衛権(しかも先制攻撃的自衛権)の行使を口実とした軍事行動が行われてきた。

朝鮮戦争での国連軍

朝鮮戦争に際し、国際連合は北朝鮮による平和に対する破壊行為であると判断し、安保理決議に基づき国連軍を派遣したが、その実態はアメリカ軍であった。

 1950年6月に勃発した朝鮮戦争に際し、国連が派遣した軍を一般に国連軍と言っているが、それは国際連合憲章の規定に従ったものではなかった。北朝鮮軍が侵攻を開始したとき、安全保障理事会ソ連が中国代表権をめぐってアメリカと対立し、欠席戦術をとっていた。ソ連欠席のまま(欠席、棄権は拒否権とは認められないので)北朝鮮の攻撃を「平和の破壊」(国連憲章の用語で「侵略」の一歩前)にあたると認定し、韓国に対して必要な支援を提供することを国連加盟国に勧告することが採択された。さらに提供された軍隊はアメリカの統一指揮下に置き、アメリカ軍人を司令官に任命し、国連旗を使用することを認める決議を行った。国連憲章では国連軍は安全保障理事会と兵力を提供する加盟国との間で「特別協定」を結ぶ必要があったが、そのような手続きはとられなかった。このように朝鮮戦争の時の国連軍の出動は、正規のものとはいえないが、アメリカも不十分ではあれ、国連の枠内での軍事行動という原則を守ろうとしていた。<最上敏樹『国連とアメリカ』2005 岩波新書 p.148->

「国連軍」の実際

 上記の通り、朝鮮戦争の「国連軍」はソ連欠席中の安保理決議に従い、自発的な参加を呼びかけたものであったので、国連憲章の構想した「国連軍」とはまったく違ったものであったが、それでも第二次大戦後の国際機構が軍事的強制行動に乗り出した最初のもであり、アメリカをはじめ16カ国が地上軍を参加させた。その軍事行動は、アメリカのつくる国連軍統合司令部の司令官(マッカーサー)の指揮下で行われ、国連旗の使用も認められることになった。そのため、一般に「国連軍」と言われることとなった。
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書籍案内

最上敏樹
『国連とアメリカ』
2005 岩波新書