印刷 | 通常画面に戻る |

平和のための結集

朝鮮戦争勃発時に、アメリカが提案し、安保理に代わり緊急特別総会で国連として集団的軍事行動を決定できること決議した。その後も安保理が拒否権発動によって機能しないときに緊急特別総会が招集されている。

 朝鮮戦争勃発直後の1950年11月に、国際連合の第5回総会で採択された決議。安全保障理事会において、常任理事国のいずれかの国が拒否権を発動して議決できず、安全保障の任務を果たせなくなった場合、緊急特別総会を開催して、多数決で安保理に代わって軍隊の使用を含む集団的措置をとることができる、とするもの。総会が安保理に代わって安全保障に関する強制行動を決定することができるという画期的な採決であり、総会の権限を大きく強めるものであった。

総会決議の背景

 1950年6月に朝鮮戦争が勃発したとき、安全保障理事会はソ連が中国の代表権問題で異議を表明するため欠席中であったので、他の4国で国連軍の派遣を決定することができた。ソ連はそのため欠席戦術の不利を悟とり、8月には安保理に復帰した。するとアメリカはその後はソ連が拒否権を行使するのではないか、と警戒するようになったことが背景にあった。そこでアメリカは国連総会で多数派工作を行い、「平和のための結集」決議を成立させ、安保理決議がなくともアメリカの意志を通せるようにした。
 当時の国連(加盟60カ国)では社会主義陣営は圧倒的に少数(東欧6カ国のみ)であったので、拒否権を行使できない総会ではソ連の主張を通すことは不可能であったからであり、この決議はソ連の拒否権を無力化するのがねらいであった。しかし、後にアメリカが軍事行動を起こそうとしたとき、総会の多数決でそれが否定されることとにもなり、アメリカの国連離れをもたらすという逆の結果が出ることになってしまう。<河辺一郎『国連と日本』1994 岩波新書 p.42 などによる>

「平和のための結集」にもとづく緊急特別総会

 「平和のための結集」決議の中で、国連史上でもっとも記憶されてよいのは、平和が脅かされているにもかかわらず、常任理事会の不同意のために安保理が活動できない際に、24時間以内に総会を緊急に招集できるという条項だった。緊急特別総会は、安保理のどの9カ国によっても、また国連加盟国の過半数によっても招集できることになった。この条項は、1956年のスエズ戦争(第2次中東戦争)ならびにハンガリー事件、1958年のレバノン紛争、1960年のコンゴ事件や、たびたびの中東問題、1980年のアフガニスタン、1981年のナミビア問題などに適用された。スエズ危機の際、「平和のための結集」決議が6年前にそれを積極的に推進したイギリスとフランスの両国に対して、逆に適用されることになったのは、歴史のめぐり合わせとはいえ皮肉なことだった。<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.122>

その後の緊急特別総会

 1981年12月には、イスラエルによるゴラン高原占領問題で、国連の緊急特別総会が開かれている。その後、冷戦終結後は、1991年の湾岸戦争では安全保障理事会がイラクの侵略を認定して撤退決議を出し、多国籍軍派遣も決議しており、またテロとの戦いという米ソ共通の課題などでは、拒否権が行使されることがなく、緊急特別総会も開かれることはなかった。

40年ぶりの緊急特別総会

 2022年2月24日ロシア連邦プーチン大統領が隣国ウクライナへの軍事侵攻を開始した。このロシアのウクライナ侵攻に対し、翌日、国連安保理が召集されたが、想定されたとおりロシアが拒否権を行使したため、アメリカは安保理全体に諮り、総会に対し緊急特別会合の召集を要請した。それによって約40年ぶりの3月2日に緊急特別総会が開かれ、ロシア非難決議が審議され、長時間の各国代表の発言の結果、1974年の国連総会での侵略の定義の決議にてらして明確な侵略行為であるとの意見が多数を占め、賛成141カ国、反対5カ国、棄権35カ国、無投票12カ国(加盟国総数193カ国)で採択された。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

河辺一郎
『国連と日本』
1994 岩波新書

明石康
『国際連合 軌跡と展望』
2006 岩波新書