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ビキニ環礁/ビキニ水爆実験

南太平洋のマーシャル群島にある環礁の一つで、アメリカが1954年3月に水爆実験を実施。その近くを通った日本の漁船第五福竜丸が被爆した。ビキニ環礁とエニウェトク環礁を含むマーシャル諸島では1946年の原爆実験から始まり、58年まで水爆実験も含め67回の核実験を行っており、そのときの汚染物質による環境汚染も危惧されいる。

アメリカの水爆実験

ビキニ環礁 GoogleMap

 ビキニ環礁とは、南太平洋のミクロネシアのマーシャル諸島に点在する環礁(サンゴ礁)の一つ。第二次世界大戦後、アメリカの信託統治領となっていた。1946年から、この地はアメリカの核実験の実験場として使用されるようになり、核兵器開発競争が激化する中、1954年3月1日からは新たに水素爆弾が開始された。5月まで6回爆発(うち1回はエニウェトク環礁)させたが、そのうちの第1回3月1日に爆発させた「ブラボー」は広島型原爆の一千倍の威力があった。この実験は付近の海域に放射性物質(「死の灰」と言われた)をまき散らしたが、日本漁船第五福竜丸の被爆は世界的な問題となり、国際的な核実験禁止運動が起きる契機となった。
 太平洋上では、1966年から南ポリネシアのムルロア環礁でフランスが核実験を行っている。

ビキニ死の灰、世界的規模だった

 1954年3~5月のビキニ環礁での水爆実験で、放射性降下物「死の灰」は、太平洋を越えて広がり、日本やアメリカにも及んでいたことが、1984年に機密解除されたアメリカの公文書で明らかになった。当初アメリカが公開した降灰の範囲はビキニ環礁から風下の東に向けて1万8千平方キロに限られるとされていたが、55年にアメリカ気象局を中心にまとめた全227頁の写しが84年に機密解除されたものを広島市立大学広島平和研究所の研究者が分析をすすめた結果、降灰の総領は22.73メガキュリーで、その範囲は東はアメリカ本土、西は日本に及んでいたことが明らかになった。
 当時、付近を航行し被爆した漁船や貨物船は延べ一千隻をこえるともいわれ、元乗組員にも健康被害を訴える人が多いが、研究者は核実験が地球規模の環境汚染問題であることを示しているとして警鐘を鳴らしている。<朝日新聞 2010年9月19日記事による>

ビキニ環礁、世界遺産となる

 ビキニ環礁のあるマーシャル諸島はアメリカ合衆国の統治下にあったが、1990年12月22日に独立し、マーシャル諸島共和国となった。首都は環礁の一つマジュロ環礁にあるマジュロ。5つの島と29の環礁からなる200万平方㎞の海洋国家だ。マーシャル諸島共和国はユネスコにビキニ環礁の世界文化遺産登録を申請し、2010年に登録された。それは、1946年からアメリカの核爆発実験場とされ、特に1954年には世界初の水爆実験場となって全島民は無人島に強制移住させられるなどの負の歴史を忘れないための「遺産」である。 → ユネスコ 世界遺産ホームページ Bikini Atoll Nuclear Test Site
 ビキニ環礁には現在も住民はいないが、短期間の滞在は可能という。もっとも首都マジュロからは船で一日かかる。ガイドサイトには島にはホテルやバーもあると書いてあり、近くの海には戦艦長門が沈んでおり、それを見に来るダイバーも多いという。

エニウェトク環礁の汚染問題

 アメリカは1946年から58年にかけて、マーシャル諸島のビキニ環礁とエニウェトク環礁で計67回の核実験を行った。住民を追い出して核実験を強行したことが批判されるようになったため、アメリカ政府は1977年から住民が帰還できるようにエニウェトク環礁の汚染除去作業を開始、80年にかけてのべ8000人の米兵や民間の技師が現地入りした。核爆発でできたエニウェトク環礁ルニット島のクレーターに放射性で汚染された廃棄物(米本土の核実験場から出た廃棄物も含まれていた)や汚染土壌を流し込み、コンクリートでふたをして覆った。この「ルニット・ドーム」に格納された汚染物質は50mプールの35個分に相当する。
 後になってこの時の除去作業にあたったアメリカ兵の中から被爆後遺症と思われる症状がでるようになった。アメリカ軍では45~62年の核兵器の任務に就いた米兵については「被ばく退役軍人」として治療費などを支援しているが、エニウェトク環礁で作業した元米兵には適用されておらず、放置されている。
 また、マーシャル諸島政府は最近の異常気象で海水面が上昇したことで、ルニット・ドームが崩壊し、汚染物質が流出する危険性が懸念されている。アメリカのエネルギー省は2020年6月に議会に報告書を提出して「ドームが崩壊する危険は無い」としているが、マーシャル諸島政府の外相ネムラ氏は、状況は悪化しているという情報もあり、住民が危険にさらされる恐れがあると米下院公聴会でも訴えている。<日刊赤旗 2021/11/5,6 特集記事>
 南太平洋での核実験の傷痕であり、巨大な「ひつぎ」のような汚染物質貯蔵庫ルニット・ドームはいつまでもつのだろうか。核実験だけでなく原子力発電からでる汚染物質はこれからも人類が持ち続けなければならないゴミなのかも知れない。 → 太平洋の項を参照

第五福竜丸事件

1954年、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で日本漁船が被爆し、一人の死者を出した事件。

 1954年3月1日、太平洋で漁業に従事していた日本の漁船第五福竜丸が、アメリカがビキニ環礁で行った水素爆弾実験によって発生した「死の灰」を浴びた。半月後、焼津港に帰った第五福竜丸の乗組員が身体の異常を訴え、多量の放射能が検出された。乗組員の一人、久保山愛吉さんが9月に死亡した。久保山さんは、広島・長崎に続く、日本人の核兵器による犠牲者となった。
 この事件は世界を驚かし、ロンドンタイムスは「水爆最初の犠牲者、日本人漁民死す」と報じた。アメリカは第五福竜丸をスパイ船の疑いがあると発表しひんしゅくを買う。築地の市場では南太平洋で捕獲されたマグロがまったく売れなくなった。そして世界中からアメリカのアイゼンハウアー大統領宛に抗議の署名が届いた。これを期に原水爆禁止運動の声が上がり、翌55年、第1回原水爆禁止世界大会が広島市で開催された。<浜林正夫・野口宏『ドキュメント戦後世界史』p.109>
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