核兵器開発競争
第二次世界大戦中のアメリカの核兵器開発に始まり、戦後、ソ連が核実権を行い、開発競争が始まる。さらに英仏中が核開発に着手した。冷戦期には核戦争の脅威が広がると同時に、核開発が経済成長を阻害していることに明らかとなり、ようやく核開発の抑止の動きが具体化し、1968年に核拡散防止条約が締結された。2021年には核兵器希死条約が発効したが、核保有国とその傘下にある国々は批准しておらず核戦争の危機は去っていない。
アメリカによる核開発と最初の使用
第二次世界大戦中にアメリカはドイツから亡命したユダヤ系物理学者の力を借りてマンハッタン計画を進め、原子爆弾をナチス=ドイツに先駆けて成功させた。対ドイツ戦では間に合わず、対日戦を終結させるという目的で1945年8月、広島・長崎に投下した。しかし、すでにトルーマンアメリカ大統領の視野にあったのは、ソ連の原子爆弾製造に先だって実用化することだった。核開発の広がり
ポツダム会談でアメリカが新型爆弾実験に成功したことを知ったソ連のスターリンは、東西冷戦が深刻化したことに併せて核開発を急がせ、1949年9月25日にソ連の原爆実験を成功させた。ここから米ソを初めとする大国による核開発競争が始まり、世界は核戦争の脅威にさらされることとなる。戦後のアメリカの核実験は1951年にネバダ核実験場を建設してから、集中的な核実験に着手した。また1952年には原爆よりも数段破壊力の大きい水素爆弾の実験に成功した。しかし、核兵器開発は米ソにとどまらず、1952年にイギリスが核実験をアメリカの技術援助のもとで成功させ、第三の核保有国となった。
核廃絶の動きと開発の広がり
1954年3月1日のアメリカのビキニ環礁水爆実験では現地の漁民と日本のマグロ漁船第5福竜丸乗組員が被爆したことは世界に衝撃を与えた。核兵器廃絶運動が世界的に広がり、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言は大きな反響を呼んだ。1961年には国連総会は核兵器使用禁止宣言を採択した。50年代後半からは米ソは平和共存路線を模索する一方で力の均衡を図って核開発を続けた。
しかし、1960年2月、サハラ砂漠でド=ゴール政権のフランスが核実験を成功させて、第4番目の核保有国となり、さらに1964年に中国が核実験を行い第5番目となり、インドも1974年に核実験を成功させた。
核戦争の新たな危機
1960年代から激しくなった核兵器開発競争はり、原子爆弾、水素爆弾だけでなく、ミサイルに核弾頭を搭載することが可能となった。1962年のキューバ危機は、米ソ両国が核戦争に踏み切る一歩前までいったが、原爆に対して数倍の破壊力を持つ水爆の使用は、双方の破滅だけでなく、世界に壊滅的な打撃を当たることが認識されるようになり、危機回避に動いた。その後、米ソ両国はようやく核実験の抑制に踏み切り、1963年8月5日に部分的核実験停止条約(PTBT)を成立させた。これによって大気圏内外と水中の実験は禁止されたが、地下核実験はその後も可能であったので、核兵器開発競争は続くこととなった。しかし国民生活を犠牲にした核開発はやがて米ソともに財政負担を増大させ、中国でも大躍進期に核開発を強行したためにかえって大飢饉を誘発することとなり、無制限な核開発は不可能となってきた。デタントと米ソ交渉
1970年代は核兵器削減交渉が進展し、デタント(緊張緩和)の時代となった。その枠組みとして米ソ二大国と、英仏に中国という安保理クラスの5大国が核を独占する体制をとっていおり、1968年6月12日に国際連合総会で可決成立した核拡散防止条約(NPT)の体制が出来上がった。米ソ二大国は1973年には核戦争防止協定を締結、直接交渉の場として70年代に戦略兵器制限交渉=SALTを開始、80~90年代には戦略兵器削減交渉(START・Ⅰ~Ⅱ)を行って、ミサイルなどの削減を実施した。それはいずれの国においても核兵器開発が経済に大きな犠牲を強いており、経済の成長を阻害する要因となっていたからだった。冷戦後の核拡散の危機
米ソの力の均衡という冷戦が終結した1990年代以降は、インド、パキスタン、イスラエル、イラン、北朝鮮などが堂々と核開発を主張し、核の地域的な使用が現実的になってきている。完全な核兵器の廃絶には至っていないのが現状である。NPT体制という核寡占体制が揺らいでいる現状で、あらたな取り組みとして具体化したのが2017年7月、国連総会において採択された核兵器禁止条約である。同条約は2021年1月22日に発効し、核戦争の防止への期待が高まっている。
Episode 核という「ダモクレスの剣」
紀元前4世紀のシラクサの僭主ディオニュシオス2世は「ダモクレスの剣」の話でその名が伝えられいる。あるときディオニュシオス2世の家臣の一人であったダモクレスという男が、主のご機嫌を取ろうとして王位がいかに高く、完全なものであるかと讃えた。王はダモクレスにそんなに王位ついてみたいかと問うと、座興だと思ったダモクレスはハイと答えた。その夕べの宴席で、王位に座らされたダモクレスがふと上を見ると、我が身の真上に鋭い剣が細い馬の毛で吊るされていた。驚き冷や汗を流すダモクレスに対して、ディオニュシオス2世は「王位とはこのようなものだ。いつ何時禍の剣が墜ちてくるか分からない」と教えた。ダモクレスはそそくさと王位から逃げ出すしか無かった。この話は「王の立場とはこのように危ういものだ」というたとえであったが、故事として伝えられ、今でも「ダモクレスの剣」とは「いつ大事故、大惨事が起きるか分からない」という教訓を意味する言葉として使われている。ケネディ統領は1961年の国連演説で、「人類は核という名のダモクレスの剣の下で暮らしている。剣は細い糸でつるされ、いつ切れるか分からない」と核の脅威について警鐘を鳴らした。この演説で、日本でも「ダモクレスの剣」の故事が知られるようになった。たしかに権力者にとっては常に頭上にダモクレスの剣が下がっていることを意識しなければならないだろう。しかし、核というダモクレスの剣を吊るしているのは核保有国の権力者であり、われわれ絶対多数の民衆はその下でふるえるしかない。おもえばアメリカ大統領としてケネディはずいぶんと思いきったことを言ったものだが、ぶっそうな核というダモクレスの剣をアメリカがまず早く引き下ろし、しまい込んでほしいものだ。(2023/11/30記) → 参考 東京新聞 2023年5月7日付 社説・コラム「筆洗」