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核兵器開発競争

第二次世界大戦中のアメリカの核兵器開発・使用に始まり、戦後、ソ連が核実権を行い、開発競争が始まる。さらに英仏中が核開発に着手した。冷戦期には核戦争の脅威が広がると同時に、核開発が経済成長を阻害していることに明らかとなり、ようやく核開発の抑止の動きが具体化し、1968年に核拡散防止条約(NPT)が締結され、核保有国を5米露英仏中の五カ国に限定する体制ができあがった。2021年には核兵器禁止条約が発効したが、核保有国とその傘下にある国々は批准しておらず核戦争の危機は去っていない。

アメリカによる核開発と最初の使用

 第二次世界大戦中にアメリカはドイツから亡命したユダヤ系物理学者の力を借りてマンハッタン計画を進め、原子爆弾の爆発実験を1945年7月16日に初めて成功した。ナチス=ドイツは5月に降伏していたので対ドイツ戦では間に合わず、対日戦を終結させるという目的で1945年8月、広島・長崎に投下した。しかし、同時にトルーマンアメリカ大統領の視野にあったのは、ソ連の原子爆弾製造に先だって実用化することだった。

米ソ首脳も衝撃を受けた核兵器の脅威

 核兵器が開発され、実際に使用されたことで、その破壊的な爆発力を知ったトルーマン大統領は、それが世界を破滅に向かわす可能性があることを実感し、核の野放図な開発や使用を抑制する必要があることをただちに理解した。また核開発に携わった科学者の多くも、核・原子力そのものが人類の消滅につながる技術であり、人類自らがコントロールしなければならないことを提案した。政府は広島・長崎への原爆投下が戦争を終わらせる上でやむを得なかったという公式見解をくりかえし強調したが、原爆の非人道的な被害が知られるとともに世論に対して核兵器開発への抑止策を示す必要が出てきた。 → アメリカの核実験・核開発
 一方、ソ連は国内の核物理学研究に着手していたものの、まだその真の力を認識していなかった。ポツダム会談でアメリカが新型爆弾実験に成功したことを知ったスターリンは平静を装っていたが、広島・長崎で使用された原爆の脅威を知り、ただちに核開発を急がせた。同時に表向きは核兵器の禁止を国際社会に示す姿勢もとった。 → ソ連の核実験

国連第1回総会での原子力関連決議

 大戦終結翌年の1946年1月10日、ロンドンで開催された国際連合第1回総会は、戦後世界は核兵器という新たに登場した大量殺戮兵器とどう立ち向かうか、というい当然のテーマに取り組んだ。そして第1号決議として核開発の国際的管理機関としての原子力委員会設置と核兵器廃絶を決議したのだった。
 国連原子力委員会での話し合いでは、アメリカは原子力・核開発を国際管理とする案を提出したが、代表のバルークはアメリカの拒否権と違反国への制裁をその案に加え、主導権を維持しようとした。それに対してソ連代表グロムイコはすべての国が核兵器を持つことを禁止する核兵器禁止条約を提案した。今思うとソ連が核兵器禁止を提案したことは意外であるが、この時点で後れをとっていたソ連は、核開発全面禁止を提唱することで、アメリカの核独占を阻止しようとしたのであろう。
 結局、国連原子力委員会はアメリカとソ連の意見の対立が埋まらず、アメリカが採決を急いで自国案を通したが、ソ連はさらに反発し、委員会の継続そのものが困難となり、1952年、国連軍縮委員会に吸収されるかたちで消滅した。こうして冷戦の深刻化で立ち消えになったものの、国連がまず核開発の国際管理、そして核兵器禁止条約を最初に検討したという事実は、忘れるべきではないだろう。

〝冷戦〟の始まり

 原子力委員会の設置・核廃絶への取り組みという、二度と核兵器を使わせないための国連総会の第1号決議はその後、世界の中で忘れ去られた感がある。それは、第1回総会の2ヶ月後の1946年3月5日にイギリスの前首相チャーチルが「鉄のカーテン」演説をおこなったことをきっかけに、風向きが変化し、1947年ごろから明確な東西冷戦が頭をもたげたからであった。人類最初の核兵器使用の責任者であると同時に誰よりもその破壊力を認識したトルーマンは、少なくとも1946年はじめには原子力の国際管理や核兵器の廃絶を決意したのであろう。しかし、東ヨーロッパやイランなどから入ってくるのは、ソ連の軍事力と共産主義の浸透を恐れる現地からの情報だった。アメリカはその年7月に原爆実験を再開する。そして1947年3月のトルーマン=ドクトリンは、明確にソ連を敵視し「封じ込め政策」をとることを示したものであった。

核開発の広がり

 東西冷戦が深刻化するなかで、1946年7月25日、太平洋上のビキニ環礁で戦後初のアメリカの原爆実験が行われ、アメリカは同時期に国家安全保障法によって軍事態勢を再編し、核兵器開発を軍が掌握した。
 一方のソ連はさらに開発を急ぎ、1949年9月25日にソ連の原爆実験をカザフスタンのセミパラチンスクで成功させた。
 ここから米ソを初めとする大国による核開発競争が始まり、世界は核戦争の脅威にさらされることとなる。アメリカはさらに1951年にネバダ核実験場を建設して、集中的な核実験に着手した。また1952年には原爆よりも数段破壊力の大きい水素爆弾の実験に成功した。しかし、核兵器開発は米ソにとどまらず、1952年イギリスが核実験をアメリカの技術援助のもとで成功させ、第三の核保有国となった。

核廃絶の動きの広がり

 国連第1回総会決議の米ソに大国の主導による原子力(核兵器開発と平和利用)の国際管理、将来の核兵器の廃絶という目標は(アインシュタインが見抜いたように)、国家主導では出来ないことが明らかであった。世界を核廃絶に向かわせようとする運動を最初に成功させたのは、民衆の力だった。
 1954年3月1日のアメリカのビキニ環礁水爆実験では現地の漁民と日本のマグロ漁船第5福竜丸乗組員が被爆したことは世界に衝撃を与えた。東京杉並区の主婦らが始めた署名運動が世界に広がり、核兵器廃絶運動が興った。1955年ラッセル・アインシュタイン宣言は大きな反響を呼んだ。
 原子力の軍事利用のために繰り返された核実験が、人類の生命と地球環境に計り知れない害を及ぼすことが明らかになり、戦争ではない〝被爆〟も無くさなければならないことが国際世論となっていった。
 1961年には国連総会は核兵器使用禁止宣言を採択した。50年代後半からは米ソは平和共存路線を模索する一方で力の均衡を図って核開発を続けた。

核拡散の脅威

 しかし、1960年2月、サハラ砂漠でド=ゴール政権のフランスが核実験を成功させて、第4番目の核保有国となり、さらに1964年中国が核実験を行い第5番目となり、1974年にはインドが平和目的とはいいながら核実験を行った。軍事的な対立を続けているインドとパキスタンは1998年に競うように核実験を成功させた。

核戦争の新たな危機

 1960年代から激しくなった核兵器開発競争は、原子爆弾、水素爆弾だけでなく、ミサイルに核弾頭を搭載することが可能となった。1962年のキューバ危機は、米ソ両国が核戦争に踏み切る一歩前までいったが、原爆に対して数倍の破壊力を持つ水爆の使用は、双方の破滅だけでなく、世界に壊滅的な打撃を当たることが認識されるようになり、危機回避に動いた。その後、米ソ両国はようやく核実験の抑制に踏み切り、1963年8月5日部分的核実験停止条約(PTBT)を成立させた。これによって大気圏内外と水中の実験は禁止されたが、地下核実験はその後も可能であったので、核兵器開発競争は続くこととなった。しかしICBM(大陸間弾道ミサイル)のような戦略兵器を開発し続けることが国民生活を犠牲にし、米ソともに財政負担を増大させ、中国でも大躍進期に核開発を強行したためにかえって大飢饉を誘発することとなり、無制限な核開発は不可能となってきた。

デタントと米ソ交渉

 1970年代は核兵器削減交渉が進展し、デタント(緊張緩和)の時代となった。その枠組みとして米ソ二大国と、英仏に中国という安保理クラスの5大国が核を独占する体制をとり、1968年6月12日に国際連合総会で核拡散防止条約(NPT)が可決成立した。米ソ二大国は1973年には核戦争防止協定を締結、直接交渉の場として70年代に戦略兵器制限交渉=SALTを開始、80~90年代には戦略兵器削減条約=START・Ⅰ~Ⅱが2次にわたって締結され、ミサイルなどの戦略兵器削減を実施した。それはいずれの国においても核兵器開発が経済に大きな犠牲を強いており、経済の成長を阻害する要因となっていたからだった。しかしそれらは核廃絶を目指すものではなく、いわば米ソ二国間の核戦力管理のための条約という性格が基本だった。

「核の冬」の懸念

 1983年、核物理学や気象学など自然科学者の中から、核戦争による核物質の拡散が地球に及ぼす影響についての科学的研究が公表された。そこで言われたのは、もし全面的な核戦争が勃発し、敵対する両国、あるいは陣営が相互に核兵器を用いて相手国を攻撃した場合、直接的な戦争被害だけでなく、戦争後も地球に破滅的な被害をもたらすだろう、ということであった。それは核戦争によってもたらされる地球環境の寒冷化にあらわれているので「核の冬」と言われた。「核の冬」は次のような状況が想定されている。
  • 急激な気温低下による食糧生産の壊滅とそれによる飢餓。核爆発によって生じた粉塵が地球上を覆い、さらに成層圏に達することで太陽光が遮断されるため、急激な気温低下、農作物の不作などが起こる。
  • 生態系の崩壊による、海洋資源の枯渇。核爆発が全地球的に広がることで植物、動物も被害が及ぶ。食物連鎖が崩壊することで、長期的には海洋の生物資源にも壊滅的な破滅が及ぶ。
  • 疫病の蔓延と医療など社会システムの崩壊。食糧の不足、衛生状態の悪化は病疫病の蔓延をもたらす。医療や社会保障の崩壊が進行し、長期的に社会システムが機能しなくなる。
 全面的な核戦争がこのような地球全体、人間社会の破滅をもたらすことの認識が進んだ一方、核の全面使用(戦略核)は禁止しながら、狭い範囲での限定的な核兵器の使用(戦術核)なら有効で、許される、という思想も生まれ、冷戦構造の中で核を保有する大国以外にも、厳しい地域対立を続ける国が限定的な核兵器を使用するために保有するケースがでてきた。インド・パキスタン・イラン・イスラエル・北朝鮮などで、その他、南アフリカのように核保有を目指したが断念した国も現れた。また、石炭や石油などの旧来のエネルギーが地球温暖化に悪影響を及ぼしていることを理由に、原子力を新しいエネルギーとしようという「核の平和利用」が進み、その境界が不鮮明となった。原子力の国際管理などの必要が高まったと言える。

レーガン・ゴルバチョフ、核軍縮で一致

 1985年11月19日レーガン大統領とゴルバチョフ書記長がジュネーヴで会談、「核戦争に勝者はいない。戦ってはならない」と合意した。この核軍縮の気運は1987年12月の米ソ間の中距離核戦力(INF)全廃条約締結を実現させた。さらに、1989年の東西冷戦の終結、91年のソ連解体という大きな変化が起こり、新しい時代を迎えた。

冷戦後の核拡散の危機

 米ソの力の均衡という冷戦が終結した1990年代以降は、インド、パキスタン、イスラエル、イラン、北朝鮮などが堂々と核開発を主張し、核の地域的な使用が現実的になってきている。完全な核兵器の廃絶には至っていないのが現状である。
 1996年9月10日には、核実験による環境破壊に対する国際的な批判が強まり、国連総会で包括的核実験禁止条約(CTBT)が採択されたが、アメリカなどの批准がなされず、まだ発効していない。

核兵器禁止条約の発効

 NPT体制という核寡占体制が揺らいでいる現状で、あらたな取り組みとして具体化したのが2017年7月、国連総会において採択された核兵器禁止条約(TPNW)である。同条約は2021年1月22日に発効し、核戦争の防止への期待が高まっている。
 しかしアメリカは、NPT体制による核拡散防止を維持する立場であることを理由に核兵器禁止条約(TPNW)に加わっていない。ロシア、イギリス、フランス、中国の核保有国も同調しており、NPTに加盟していないが核保有を公然化しているインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮も未加盟である。唯一の被爆国である日本でも国内には核兵器禁止条約への参加を求める声も多いが、政府は「アメリカの核の傘」の下にあるかぎり、アメリカに同調せざるを得ないという姿勢を崩していない。 → アメリカの核戦略(21世紀)

Episode 核という「ダモクレスの剣」

 紀元前4世紀のシラクサの僭主ディオニュシオス2世は「ダモクレスの剣」の話でその名が伝えられいる。あるときディオニュシオス2世の家臣の一人であったダモクレスという男が、主のご機嫌を取ろうとして王位がいかに高く、完全なものであるかと讃えた。王はダモクレスにそんなに王位ついてみたいかと問うと、座興だと思ったダモクレスはハイと答えた。その夕べの宴席で、王位に座らされたダモクレスがふと上を見ると、我が身の真上に鋭い剣が細い馬の毛で吊るされていた。驚き冷や汗を流すダモクレスに対して、ディオニュシオス2世は「王位とはこのようなものだ。いつ何時禍の剣が墜ちてくるか分からない」と教えた。ダモクレスはそそくさと王位から逃げ出すしか無かった。この話は「王の立場とはこのように危ういものだ」というたとえであったが、故事として伝えられ、今でも「ダモクレスの剣」とは「いつ大事故、大惨事が起きるか分からない」という教訓を意味する言葉として使われている。
 ケネディ統領は1961年の国連演説で、「人類は核という名のダモクレスの剣の下で暮らしている。剣は細い糸でつるされ、いつ切れるか分からない」と核の脅威について警鐘を鳴らした。この演説で、日本でも「ダモクレスの剣」の故事が知られるようになった。たしかに権力者にとっては常に頭上にダモクレスの剣が下がっていることを意識しなければならないだろう。しかし、核というダモクレスの剣を吊るしているのは核保有国の権力者であり、われわれ絶対多数の民衆はその下でふるえるしかない。おもえばアメリカ大統領としてケネディはずいぶんと思いきったことを言ったものだが、ぶっそうな核というダモクレスの剣をアメリカがまず早く引き下ろし、しまい込んでほしいものだ。(2023/11/30記) → 参考 東京新聞 2023年5月7日付 社説・コラム「筆洗」

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紀平英作
『歴史としての核時代』
世界史リブレット 50
1998 山川出版社

小冊子ですが、核兵器は実験・使用と同時にその廃絶がアメリカでも検討され、世界的な課題となっていたことを明らかにする。

川崎哲
『核拡散:軍縮の風は起こせるか』
岩波新書 2003