アメリカの核実験・核開発
アメリカ合衆国は第二次世界大戦中のマンハッタン計画によって原爆を実用化して広島・長崎に使用した。戦後も1951年にネヴァダ核実験場を開設して核兵器開発を本格化させ、54年にはビキニ環礁で水爆実験を行った。キューバ危機後の63年に部分的核実験停止条約を締結したが、全面的な核実験の停止には至っていない。
第二次世界大戦に参戦したアメリカでは、1942年にF=ローズヴェルト大統領が、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画に着手し、1945年7月に世界に先駆けて実用化し、1945年8月にトルーマン大統領の決断によって広島・長崎に投下した。
1945年11月、アメリカに亡命していたアインシュタインは、アメリカが所有する原爆と製造技術のすべてを「世界政府」に委ねるべきであるという提言を行った。それに対してアメリカが原爆を独占すべきであると考えていた国防省の軍人から現実を無視しているとの批判が行われたが、国内の世論にも影響を与え、原子力の文民管理、国際管理の必要が認識されるようになった。
アメリカの原子力管理委員会設置 核兵器開発と同時に、原子力の利用と管理をどうするか、については政権内部でも激しい議論が続いた。文官・科学技術者は原子力利用は発電など平和利用に限るとし、またその管理は政府の文官が行うべきであると主張した。また、原子力開発をアメリカが独占する事への危惧も指摘されていた。一方、国防総省の軍人や政治家は、原子力は兵器としての開発を主とすべきであり、その管理は軍が行い、その技術は外国には拡げず、アメリカが独占すべきであると主張した。長い議論の末、1946年8月に原子力管理法が成立したが、その基本は核兵の研究や製造を、軍ではなく大統領と文民の官僚機構の管理下に置く、とされた。しかし原子力委員会の委員には軍人も加わり、軍の意向を持ち込む道は残された。
そのころほぼ同時に設立された安全保障理事会でイランでのソ連軍撤退決議に対してソ連が拒否権を行使したことなどから、対ソ強硬論が台頭していた。第1回総会にアメリカ代表として参加したヴァンデンバーグはソ連に対する不信を強め、原子力管理問題でもソ連との妥協を拒否することを主張した。アメリカ国内の原子力管理委員会も8月、最終的に原子力管理を大統領の統制下に置くと同時に委員会に軍人を加えることで軍の意向を通すことができるように修正され、設置が決まった。 <このアメリカに於ける原子力の開発と利用をめぐる議論の経緯は紀平英作『歴史としての核開発』世界リリブレット・山川出版社に詳しい。>
アメリカ合衆国は唯一の核兵器所有国としての軍事的優位をまもるために、1946年7月25日、太平洋上のビキニ環礁で戦後初の原子爆弾の核実験を実行した。<紀平英作『同上書』p.76>
大統領の核のボタン 冷戦最初の危機であった1948年のベルリン封鎖では、アメリカはすでに約50発の核兵器を保有していたが、トルーマンはそれを国防総省に移すすことと自分の持つ核兵器使用権限の委譲を拒んだ。1950年6月25日に始まった朝鮮戦争では、将軍マッカーサーが核兵器の使用を主張したが、トルーマンは「大統領のみが原爆使用を承認できる」としてその使用を認めなかった。この経緯によって、原子爆弾(核兵器)の使用権限は大統領にある、という認識が確定した。その後、いわゆる核のボタンは大統領だけが押すことができるという観念が生まれ、大統領が常にそのボタンをセットした鞄(ラグビーボールという)を所持、携行することとなった。<W.ペリ-/T.コリーナ(田井中雅人他訳)『核のボタン』2020 朝日新聞社 p.35-38>
水爆実験 アメリカは1952年には水素爆弾の実験を成功させたが、水爆実験は1954年からは南太平洋マーシャル群島のビキニ環礁などを実験場として行われるようになる。
ビキニ環礁の水爆実験は、現地の漁民と日本のマグロ漁船第5福竜丸乗組員が被爆し、大きな衝撃を世界に与えた。そこから、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言が発表され、核兵器廃絶運動が世界的に広がることとなった。
33年後の1996年9月10日に、国連総会で包括的核実験禁止条約(CTBT)が可決されてようやく核実験の全面的な禁止に至ったが、アメリカは批准しなかった。アメリカの批准を求める国際的な世論は強いが、現在もまだ批准がされていない。
→ 核兵器禁止条約 アメリカの核戦略(21世紀)
ところが、『征服者』ロケに参加して、癌で死んだのはジョン・ウェインだけではなかった。相手役のスーザン・ヘイワード、メキシコ人俳優ペドロ・アルメンダリス(癌を苦に自殺)、それに監督以下のスタッフも多くがその後数年の間で癌にかかっている。それだけではなく、セント・ジョージの市民や、インディアン居住地の住民に異常に癌の発症率が高いことがわかってきた。セント・ジョージの街はネヴァダ核実験場の東方約200kmのところにある。アメリカの原子力当局はこれだけの距離があれば、核実験との因果関係は無く、安全であると言っていたが、次第に住民は疑いを持つようになった・・・・。
この事実は、日本のノンフィクション作家広瀬隆が1982年の『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』で明らかにした。同書に拠れば、驚くべきことにウェイン以外にも、1950年代にこの付近でロケに参加した多くの俳優が、癌で倒れているという。ハリウッドで西部劇が急速に制作されなくなった背景でもあると著者は指摘している。広瀬隆はこの本だけでなく、『東京に原発を!』などの反原発論を展開しており、原子力関係者や科学者の中には声高に反論する人々もいるが、広瀬氏の言っていることはなかなか説得力がある。何年にも渡り大気中で行われた核実験で発生した死の灰が風下のユタ州に降り積もり(風向きがラスヴェガスのある南向きやロサンジェルス方面の西向きの時は実験をしなかった)、そこで暮らしたり滞在した人の体内に取り込まれ、ごく微量であっても濃縮され、やがて癌を発症したのだという。日本列島には現在多数の原発や核廃棄物貯蔵施設があるが、実はネヴァダ・ユタ・アリゾナ三州の広さと同じぐらいであるという指摘をうけると、特に地震大国日本ではたして原発が安全なのか、考えさせること大であった。あんのじょう、2011年3月11日、福島原発が地震と津波で破壊され、メルトダウンが起きるという現実を突きつけられることとなった。<広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1982 現在は文春文庫。改訂版もある。>
核開発の文民統制
トルーマン大統領は広島・長崎への原爆投下を最終的に判断した責任者であり、原爆投下によって日本に本土決戦の前に戦争を敗北を受け入れさせ、第2次世界大戦を終わらせた、ということにその正当性を主張した。それはその後もアメリカの一貫した認識である。一方で、トルーマンは核兵器の巨大な威力を認識し、その開発と管理は、軍に任せるのではなく、大統領の文民統制下に置かなければならないことを認識した。1945年11月、アメリカに亡命していたアインシュタインは、アメリカが所有する原爆と製造技術のすべてを「世界政府」に委ねるべきであるという提言を行った。それに対してアメリカが原爆を独占すべきであると考えていた国防省の軍人から現実を無視しているとの批判が行われたが、国内の世論にも影響を与え、原子力の文民管理、国際管理の必要が認識されるようになった。
アメリカの原子力管理委員会設置 核兵器開発と同時に、原子力の利用と管理をどうするか、については政権内部でも激しい議論が続いた。文官・科学技術者は原子力利用は発電など平和利用に限るとし、またその管理は政府の文官が行うべきであると主張した。また、原子力開発をアメリカが独占する事への危惧も指摘されていた。一方、国防総省の軍人や政治家は、原子力は兵器としての開発を主とすべきであり、その管理は軍が行い、その技術は外国には拡げず、アメリカが独占すべきであると主張した。長い議論の末、1946年8月に原子力管理法が成立したが、その基本は核兵の研究や製造を、軍ではなく大統領と文民の官僚機構の管理下に置く、とされた。しかし原子力委員会の委員には軍人も加わり、軍の意向を持ち込む道は残された。
国連原子力委員会の設置と消滅
アメリカではトルーマン大統領が軍主導の核兵器管理を抑えるために原子力管理委員会による文民統制をめざしていたが、同時に原子力開発・研究と管理についてもアメリカが独占するのではなく国際管理が必要と考えていた。その線に沿って1946年1月10日の国際連合総会の第1号決議は原子力委員会設置と核兵器廃絶を決議した。開設された国連原子力委員会では、アメリカは核開発の国際管理を提案したが、ソ連はそれをアメリカが実質的に核開発の独占を維持するための提案とみて反発し、核兵器禁止法の制定を提案してアメリカの核開発を抑え込もうとした。このように原子力委員会の設置は核戦争防止のための画期的な機構と見なされたが、米ソの意見の対立から、具体的な成果を上げることなく活動を停滞させた。そのころほぼ同時に設立された安全保障理事会でイランでのソ連軍撤退決議に対してソ連が拒否権を行使したことなどから、対ソ強硬論が台頭していた。第1回総会にアメリカ代表として参加したヴァンデンバーグはソ連に対する不信を強め、原子力管理問題でもソ連との妥協を拒否することを主張した。アメリカ国内の原子力管理委員会も8月、最終的に原子力管理を大統領の統制下に置くと同時に委員会に軍人を加えることで軍の意向を通すことができるように修正され、設置が決まった。 <このアメリカに於ける原子力の開発と利用をめぐる議論の経緯は紀平英作『歴史としての核開発』世界リリブレット・山川出版社に詳しい。>
冷戦期の核実験再開
一時は国連の場で核・原子力の国際管理が動き出したかに見えたが、早くも1946年3月にイギリスの前首相チャーチルが「鉄のカーテン」演説をおこなったことから、風向きが変化し、1947年ごろから明確な東西冷戦の時代に入った。アメリカ合衆国は唯一の核兵器所有国としての軍事的優位をまもるために、1946年7月25日、太平洋上のビキニ環礁で戦後初の原子爆弾の核実験を実行した。<紀平英作『同上書』p.76>
大統領の核のボタン 冷戦最初の危機であった1948年のベルリン封鎖では、アメリカはすでに約50発の核兵器を保有していたが、トルーマンはそれを国防総省に移すすことと自分の持つ核兵器使用権限の委譲を拒んだ。1950年6月25日に始まった朝鮮戦争では、将軍マッカーサーが核兵器の使用を主張したが、トルーマンは「大統領のみが原爆使用を承認できる」としてその使用を認めなかった。この経緯によって、原子爆弾(核兵器)の使用権限は大統領にある、という認識が確定した。その後、いわゆる核のボタンは大統領だけが押すことができるという観念が生まれ、大統領が常にそのボタンをセットした鞄(ラグビーボールという)を所持、携行することとなった。<W.ペリ-/T.コリーナ(田井中雅人他訳)『核のボタン』2020 朝日新聞社 p.35-38>
米ソの核開発競争
アメリカの広島・長崎への原爆投下後から直ちに核開発に着手していたソ連は、1949年9月25日に核実験を成功させ、アメリカの優位が揺らぐこととなった。そこでアメリカは、より大規模な核兵器の開発研究を急ぎ、1951年にネヴァダ核実験場を開設し、水素爆弾の開発に着手した。こうして米ソの核兵器開発競争は急激にエスカレートしていった。水爆実験 アメリカは1952年には水素爆弾の実験を成功させたが、水爆実験は1954年からは南太平洋マーシャル群島のビキニ環礁などを実験場として行われるようになる。
ビキニ環礁の水爆実験は、現地の漁民と日本のマグロ漁船第5福竜丸乗組員が被爆し、大きな衝撃を世界に与えた。そこから、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言が発表され、核兵器廃絶運動が世界的に広がることとなった。
ネヴァダ核実験場
ネヴァダはアメリカ西部の州。アメリカはこの実験場で、1951年から58年までは地上(大気中)での原爆実験を97回実施した。1963年以降は部分的核実験停止条約(PTBT)が成立、アメリカも批准したため、地下核実験に切り替えられた。現在では臨界前実験を行っている。別データによると、1951年から1992年にかけて、925回の核実験が行われたという。ネヴァダ核実験場の周辺は砂漠地帯であるが、その南方にはラス・ヴェガスがある。1970年代から、周辺のユタ州などの周辺地域住民に放射線被害と見られる癌の多発などが問題となっており、訴訟も起こされている。33年後の1996年9月10日に、国連総会で包括的核実験禁止条約(CTBT)が可決されてようやく核実験の全面的な禁止に至ったが、アメリカは批准しなかった。アメリカの批准を求める国際的な世論は強いが、現在もまだ批准がされていない。
→ 核兵器禁止条約 アメリカの核戦略(21世紀)
Episode ジョン・ウェインはなぜ死んだ?
1954年、ユタ州セント・ジョージ市郊外の砂漠地帯で、ハリウッド映画『征服者』のロケが行われた。主役は西部劇のスター、ジョン・ウェイン。ジンギスカンを描いた大スペクタクル映画で、監督(ディック・パウエル)以下、スタッフ数百人が滞在、近くのインディアン居留地からも多数のエキストラが動員された。ロケは数ヶ月に渡り、砂漠の中で撮影が行われた。その後もウェインは西部劇スターとしてユタやアリゾナのロケに参加した。その10年後、ウェインは激しい咳に苦しむようになり、肺ガンだと診断された。手術でいったんは克服したが、胃に転移し、1979年、大腸癌で死亡した。ところが、『征服者』ロケに参加して、癌で死んだのはジョン・ウェインだけではなかった。相手役のスーザン・ヘイワード、メキシコ人俳優ペドロ・アルメンダリス(癌を苦に自殺)、それに監督以下のスタッフも多くがその後数年の間で癌にかかっている。それだけではなく、セント・ジョージの市民や、インディアン居住地の住民に異常に癌の発症率が高いことがわかってきた。セント・ジョージの街はネヴァダ核実験場の東方約200kmのところにある。アメリカの原子力当局はこれだけの距離があれば、核実験との因果関係は無く、安全であると言っていたが、次第に住民は疑いを持つようになった・・・・。
この事実は、日本のノンフィクション作家広瀬隆が1982年の『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』で明らかにした。同書に拠れば、驚くべきことにウェイン以外にも、1950年代にこの付近でロケに参加した多くの俳優が、癌で倒れているという。ハリウッドで西部劇が急速に制作されなくなった背景でもあると著者は指摘している。広瀬隆はこの本だけでなく、『東京に原発を!』などの反原発論を展開しており、原子力関係者や科学者の中には声高に反論する人々もいるが、広瀬氏の言っていることはなかなか説得力がある。何年にも渡り大気中で行われた核実験で発生した死の灰が風下のユタ州に降り積もり(風向きがラスヴェガスのある南向きやロサンジェルス方面の西向きの時は実験をしなかった)、そこで暮らしたり滞在した人の体内に取り込まれ、ごく微量であっても濃縮され、やがて癌を発症したのだという。日本列島には現在多数の原発や核廃棄物貯蔵施設があるが、実はネヴァダ・ユタ・アリゾナ三州の広さと同じぐらいであるという指摘をうけると、特に地震大国日本ではたして原発が安全なのか、考えさせること大であった。あんのじょう、2011年3月11日、福島原発が地震と津波で破壊され、メルトダウンが起きるという現実を突きつけられることとなった。<広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1982 現在は文春文庫。改訂版もある。>