フランスの核実験
1960年、フランスはドゴール大統領のもとで核実験を成功させ第4番目の核保有国となった。当初はアルジェリアのサハラ砂漠で実験を行っていたが、アルジェリア独立後、1966年からは南太平洋フランス領ポリネシアのムルロア環礁に移し、1996年まで行った。
ド=ゴール大統領の大国主義
1960年2月13日、フランスのド=ゴール大統領がフランス領アルジェリアのサハラ砂漠で核実験を行い、アメリカ・ソ連・イギリスに続く、第四番目の核保有国となった。米ソの核兵器開発競争が激しくなると、フランスはイギリスの核実験についで核兵器の開発を急いだ。フランスの核開発は第四共和政末期に決定されていたが、ド=ゴールは政権に就くとともにそのための予算を拡大し実験を促進した。
ド=ゴールのねらいは核を背景として米英ソに対抗する独自外交を展開することにあった。1963年にはド=ゴールは米英ソ三国で締結された部分的核実験停止条約(PTBT)への参加を拒否した。いずれもド=ゴールのフランスの大国としての地位と実力を保持するための手段として採られたものであった。
南ポリネシア、ムルロア環礁
ムルロア環礁 GoogleMap
フランスはその後、1995年に社会党のミッテランにかわって大統領に選出された保守派のシラクが、就任早々、南太平洋で核実験を再開して国際的な批判を浴びた。同年9月からムルロア環礁での実験を強行したが、1996年1月の実験を最後とし、その後の永久停止を表明、同時に包括的核実験禁止条約(CTBT)に調印した(98年に批准)。
ポリネシアに残る核実験の爪痕
かつて画家ゴーガンが滞在したことで知られる南太平洋の「楽園」フランス領ポリネシアのタヒチ。中心の町パペーテの海に臨む公園には核実験の犠牲者を追悼する碑が建っている。1966年から始まったフランスの核実験はタヒチから約1000km南東に離れたムルロワ環礁で行われた。その後、1996年までの30年間に193回の実験が行われ、ポリネシアの人々の12万7千人が実験に関わったという。その後住民の中に白血病や臓器の癌が発病、その被害を認定する動きが始まっている。しかしフランス政府やIAEAは、発病と核実験の関係は医学的、疫学的に証明されていないとして保障には消極的であった。核実験に携わった元兵士がフランス国内で訴訟を起こしている。2010年からは政府も因果関係の本格的な調査を進める法律を制定、実態の解明が進むことが期待されている。<朝日新聞 2018/6/23 記事「核といのちを考える」を要約>