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コンゴ/コンゴ王国

アフリカ中央部、熱帯性雨林のひろがるコンゴ川の下流域に14~19世紀に栄えた王国。15世紀末、ポルトガル人が来航し、国王はキリスト教を受容した上で、黒人奴隷貿易を行う。19世紀に衰退し、コンゴ川左岸はベルギー(レオポルド2世)、右岸はフランスの殖民地となる。

コンゴ川

 コンゴ川(ザイール川)はナイル川に次ぐアフリカの大河であり、その流域は大陸のおよそ10分の1を占め、源流はタンガニーカ湖などの湖沼地帯から南のザンビアとの国境地帯の山岳部に発し、多くの支流の水を集めながらコンゴ盆地のサバンナを北上し、キサンガニ(旧名スタンリービル)を過ぎて大きく西に流れを転じ、熱帯雨林の間を縫って流れ、次第に南西に方向を変え、左岸に現在のコンゴ民主共和国の首都キンシャサ(旧名レオポルドビル)、左岸にコンゴ共和国(旧フランス領コンゴ)の首都ブラザビルを見ながら再び西流して下流域に入り、大西洋に注ぐ。

コンゴ王国

 今から4~5000年前にはコンゴ川流域の森林地帯に狩猟採集民が活動していたことがエジプト王朝の記録などで読み取ることが出来るが、その後、コンゴ川下流域にバントゥー語系の人々が、おそらく現在のナイジェリアとカメルーンの国境付近から移動してきたことで大きな変化が起こった。彼らは鉄器の使用と農耕(作物は雑穀、豆類、イモ類)を行っていり、移動性の生活を続けながら幾つかの系統に別れ、紀元1世紀ごろまでには広大なコンゴ川流域に定住していった。
 5世紀ごろ、新たな栽培作物としてバナナが東南アジアから伝わり(バントゥー語の項を参照)、その高い生産性から人口増加がもたらされ、10世紀ごろにはコンゴ川流域各地に定住しながら社会を構成してゆき、共同体的土地保有の上に首長と貴族が生まれ、広域的な交換を巡り、初期的な国家が形成されたものと考えられる。
 このコンゴ川下流域に15世紀ごろに成立したのがコンゴ王国であり、遠く上流域のサバンナ地帯にはルバ王国とルンダ王国という二つの王国があった。コンゴ王国とこれらの王国は、コンゴ川を交通路として結びついていた。1482年にコンゴ川河口にやってきたポルトガル人が初めてコンゴ王国と接触、それ以降、ポルトガルはコンゴ王国と密接な関係を結んでいく。コンゴ川には途中の瀑布地帯は船では通れないが、それ以外は水運に利用され、コンゴ王国とは一つの広大な交易圏を形成していた。しかし、コンゴ川中流から上流にかけての地域はヨーロッパ人が立ち入ることはなく、長く未知の地域となった。1874年から3年の歳月をかけてこの地を探検したスタンリーによって報告されるまで、欧米人には全く知られない地域であり、「暗黒大陸」というイメージで語られることになるが、実はコンゴ王国のように高度に文明化された国家があったことを忘れてはならない。
 コンゴ王国はポルトガル人との接触が始まった15世紀末の前に、全盛期を迎えていた。マニ・コンゴといわれる国王(マニは王の意味)の支配域は南北約480km、東西約320~480kmにおよび、それぞれの州に分けられ、州には知事が置かれて税金と貢物を集め、首都ムバンザ・コンゴの王のもとに届けた。王のもとには総督を務める王宮長官、最高裁判所判事、警察長官、報道官などの役人が置かれていた。地方からの貢ぎ物になったのは、ヤシから作る織物、モロコシ、ヤシ酒、果物、ウシ、象牙などだった。そのころすでに人口は400~500万に達し、ポルトガルの当時の200万という人口に比べても大きな数字だったと言える。
 コンゴ王国と接触したポルトガル人には、一見、ヨーロッパの国家と同じように見え、驚嘆した。しかし、実際には国王の権力は神聖な王として諸勢力の連合の親族的・宗教的な権威として位置付けられており、分権的で流動的であった。<『アフリカの民族と社会』1999 世界の歴史24 中公文庫 p.158/『新書アフリカ史・改訂新版』2018 講談社現代新書 p.72-95 などにより構成>

ポルトガルの進出

 ポルトガルジョアン2世の時、航海者ディオゴ=カーンはアフリカ西海岸を南下し、一つの大河に行き着き、持参した“パドローネス”といわれる記念の石柱を建てた。現地の住民がマニ・コンゴ川と呼んでいたこの川をリオ・ド・パドロンと命名したが、後になってポルトガル人はそれをザイール川と改めた。それは「河」を意味するエンザディという土地の言葉のくずれたものである。それが現在のコンゴ川である。ポルトガルはローマ教皇からキリスト教を布教することを条件として、金と黒人奴隷を“商品”とする貿易を開始した。

Episode マニ=コンゴからの大使

 1485年にカーンは第2回の航海を行い、再びコンゴ川を約100マイルほど遡った。次いでカーンはポルトガルへの帰還に際し、原住民の首長カスータをマニ・コンゴからの大使として連れていった。カーンの記録はほとんど無く(ポルトガルはアフリカに関する情報を秘密にしていたので)知られることは少ないが、「カスータがどうなったかの記録はなかなか面白い。この原住民の酋長はその仲間と共にキリスト教の教育を受け、盛大な儀式でジョアン・ダ・シルヴァなる洗礼名を授かり、ポルトガル語を教え込まれた。1490年頃、彼はジョアン2世の大使ゴンサロ=デ=ソウサの一行と共にコンゴに送り還され、そしてこの使節団は《コンゴ》という文明と未開が混在したキリスト教国を創成した。このコンゴ王国はポルトガルの強力な影響下で16世紀一杯続くことになる。」<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.56-57>

キリスト教国「コンゴ王国」

 1490~91年のポルトガルのコンゴへの大使派遣は、この地域の支配者達のキリスト教への改宗という結果をもたらし、コンゴ王国の国王と女王は当時のポルトガル王と女王の名に倣ってジョアンとレオノールと名乗った。この国の都サン・サルヴァドールでは怪しげなキリスト教が栄え、リスボンと極めて活発な交流が行われた。沢山の若いコンゴ人が教育を受けるべくポルトガルに送られ、ジョアン王の息子のアフォンソ1世は臣下の族長達に公・侯・伯などの爵位を与え、ポルトガルの大部な法律を読破し、《欧化》を図った。しかし、その領国ではキリスト教は遂に表面以下にまで浸透することはなかった。「ポルトガル人の犯した最大の失敗は、大仕掛けな洗礼さえ続けていれば信心深い住民が出来上がるものと思いこんでいたことである。」<ペンローズ『同上書』p.158>

ポルトガルの後退

 ポルトガルはコンゴ王国とは一見、対等な関係ではあったが、現実には金や象牙を強引に奪い、さらに奴隷貿易を行った。コンゴ川河口に商館を設け、原住民に重税をかけ、鉱山開発や奥地開発を進めようとした。ところが、原住民の断乎たる反抗に遭遇し、奥地ではジャッガ族の襲撃が繰り返され、恐怖の的となった。そこで1560年代から、セバスチャン王は方向を転じ、コンゴ王国の南部の海岸地帯のアンゴラ征服を図ることとなった。
 17世紀後半から、イギリス、オランダ、フランスなどの海外進出が活発となったため、ポルトガルはアジア地域では次第に後退したが、南米のブラジルとアフリカでの植民地を維持し、植民地帝国としてはなおも存続していた。しかし、19世紀に入るとブラジルが独立、その植民地はインドのゴア、中国のマカオ、アフリカのアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウなど、東南アジアでは東ティモールだけとなった。 → ポルトガルのアフリカ植民地支配

奴隷貿易とコンゴ王国の衰退

 1490年、コンゴ王国アフォンソ1世(キリスト教の洗礼名)はポルトガルのマヌエル王との間で兄弟の関係を結び、両国は対等な関係になった。このころからコンゴ王国からの奴隷の輸出が始まっていたが、コンゴ王は従来の戦争捕虜を奴隷として供出するものの無差別な奴隷狩りは行われていなかった。しかし、16世紀に入ると、両国間の対等な貿易という図式は崩れ、コンゴ王国は一方的にヨーロッパに従属する近代世界システムに組み込まれていった。それは、中心であるヨーロッパに資本の本源的蓄積と産業資本主義が形成され、周縁であるアフリカを物的・人的供給源、さらに市場として確保するという従属的関係の確立を意味していた。
 コンゴ川水系の西側からヨーロッパ世界との接触が始まったのに対し、東側からは現在のタンザニアを越えて浸透してきたイスラーム教勢力との接触が15世紀ごろから始まった。18世紀にはイスラーム勢力はアフリカ内陸部から象牙や奴隷をインド洋沿岸部まで運び、アラビアと交易を行ったが、その活動はタンガニーカ湖を越え、コンゴ川流域に及んできた。しかし、イスラーム勢力はこの地でガーナやマリ、ソンガイなどのようなイスラーム国家を築くことはなかった。
 17世紀には、アフリカ大陸はアメリカ新大陸で急増した奴隷の需要に応えて黒人奴隷を搬出することで世界システムに組み込まれ、コンゴ川流域もその一部となった。この大西洋黒人奴隷貿易では、1680年から1836年に奴隷貿易の法的禁止までの間に、コンゴの大西洋岸の港ルアンダとベンゲラからだけでも約200万人が積み出されたという。密貿易による非合法な搬出まで加えればコンゴとアンゴラの古い国家から連れ去られた奴隷の合計は約500万と推定される。<『新書アフリカ史・改訂新版』2018 講談社現代新書 p.101>
 奴隷貿易が急速に拡大すると、従来の戦争捕虜だけでは追いつかなくなり、部族の首長を使って強制的に「奴隷狩り」を行うようになった。弱小部族は内陸の森林に逃れて行き、コンゴ王国はそれらを保護することが出来ず、次第に保護者としての権威を失っていった。19世紀には王国はすでに統治能力を失い、コンゴ川流域の内陸は誰の統治も及ばない、空白の地域となっていった。ベルギーのレオポルド2世が植民地化に着手する前のコンゴ盆地は、そのような状況だった。

ベルギーの植民地支配

 替わって19世紀後半、帝国主義列強によるアフリカ分割が進み、コンゴ川左岸の広大な内陸のコンゴ盆地にはベルギーレオポルド2世が目をつけ、アメリカ人探検家スタンリーを雇って現地部族の首長に領有権を認めさせ、植民地経営に乗り出した。これはアフリカ分割を進める帝国主義諸国との紛争を生み、1884年にドイツ帝国の宰相ビスマルクが調停してベルリン会議が開催され、その結果としてコンゴ盆地はレイポルド2世の私領として認められ、1885年にコンゴ自由国が成立した。レオポルド2世はこの地で象牙やゴムを手に入れるため現地の黒人に過酷な労働を強制したため国際的非難が持ち上がり、1908年からはベルギー領コンゴとして政府が植民地支配を行うようになった。これが第二次世界大戦後の1960年に独立しコンゴ民主共和国(一時、国名はザイールとなる)である。

フランスの植民地支配

 これに対してフランスはコンゴ川右岸(北側)に侵出し、19世紀後半、探検家ド=ブラザが拠点を建設、ブラザビルと名づけられ、1882年にフランス領とした。さらにアフリカ横断政策を掲げ、コンゴ川沿いに東進し、ジブチから西進した部隊と連結することを目指し、スーダン南部の要地ファショダに到達したが、スーダンを抑え、そこから南下して南アフリカと結ぶアフリカ縦断政策をとっていたイギリスと1898年9月19日ファショダ事件となった。フランスはこのときはイギリスに譲歩し撤退した。
 コンゴ川右岸はその後も植民地支配を続けたが、第二次世界大戦後の1960年に、こちらはコンゴ共和国として独立した。