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レオポルド2世

19世紀後半のベルギー国王。アフリカのコンゴの植民地化に着手し列強と競合、1884~5年のベルリン会議で私有の領土と認められコンゴ自由国とし、その国王を兼ねる。象牙、ゴムなどを搾取する苛酷な植民地支配が国際的な批判をうけ、1908年にコンゴ自由国はベルギー政府が管理するベルギー領コンゴに移管された。

ベルギー王国の統一の維持

King Leopold II of Belgium

レオポルド2世

 19世紀後半のベルギー王国の第二代国王(在位1865~1909)、初代のレオポルド1世の子。ベルギー王国は1830年の独立と同時に産業革命を推進し、機械工業や石炭産業を中心に機械輸出国となった。急激な社会の変化は、労働者階層の成長に伴う自由主義や社会主義の浸透、学校教育でのカトリック教育からの離脱の問題などの新しい動きとともに、北部のオランダ語圏(フランデレン地域)と南部のフランス語圏(ワロン地域)の対立などの言語問題も抱え、新生国家の統一維持に苦慮する状況が続いていた。
事実上の公用語はフランス語 ベルギー王国憲法では言語の自由を原則とすると規定されていたが、実際にはオランダからの独立を主導したブリュッセルの上層市民は、かつてナポレオン時代にフランスの支配を受け入れたこともあってフランス語を使用していたので、政治や法律、学校などではフランス語が事実上の公用語となっていた。レオポルド1世は、父はドイツ系であったが演説はフランス語(まだ国際語として通用していた)で行っており、オランダ語は自由に話せなかった。機器工業の盛んなリエージュや石炭の産地のワロン地方など、産業革命の基盤となっていたのがフランス語圏であったことも、その優位の背景にあった。それに対するフランデレン地方のオランダ語を話す人々の不満も次第に強まっており、20世紀後半のベルギーの言語戦争といわれる激しい対立には至っていないが、現在のベルギーが抱える言語問題はすでに表面化していた。

植民地帝国ベルギーを実現

 レオポルド2世は、分裂の要素を内部に抱えたベルギー王国の統一を維持するためには、立憲君主政の枠の中ではあるが国王の強力な指導力を発揮し、列強と同じような植民地か勢力圏を持つことによって小国ベルギーがヨーロッパ列強と対等な存在になることが必要であると考えたのであろう。特に隣国のオランダがオランダ領東インド(インドネシア)経営で大きな成功を収めていることに刺激を受け、同じように植民地として支配できるところを探し、唯一まだ列強の手の及んでいないところとして西アフリカのコンゴ川流域を見つけ出した。国王個人として積極的に動き、1878年にアメリカ人スタンリーを派遣して探検させ、広大なコンゴ盆地を獲得することに成功した。
コンゴ自由国 レオポルド2世は、国王の個人的な権力欲ととられることを避けるために、1883年にコンゴ国際協会を設立し、その保護のもとで文明化し、開発を進めるという形にした。ベルギー王国の侵出を警戒したイギリス、フランスなど列強は、1885年にビスマルクの仲介のもとでベルリン会議を開催、この国際会議でレオオルド2世はベルギー国王の私領としての「コンゴ自由国」を列強に認めさせた。これによってベルギーは本国の実に80倍という広大な領土を間接的に支配し、19世紀末から20世紀の帝国主義時代に植民地帝国として存在することとなった。この植民地帝国を出現させたのがレオポルド2世であったが、コンゴ自由国は国王の私領という変則的な形での植民地支配が行われた。レオポルド2世はコンゴ地方の熱帯雨林を国有とし、現地の黒人から税として象牙やゴムを供出させ、その輸出を国王の許可を得た会社に請け負わせて巨利を得るという方式をとり、反抗する黒人には厳しい罰を与えるとう、奴隷制と同じような苛酷な黒人に対する収奪を行った。その非人道的な植民地支配に対して次第に国際的な非難がおこり、イギリスもレオポルド2世が自由貿易を認めると約束したベルリン条約に違反しているとして抗議したため、1908年にベルギー王国政府はコンゴ自由国を政府が管轄する通常の植民地経営形態であるベルギー領コンゴに転換することとし、レオポルド2世もやむなく承認し、その翌年に死去した。
注意 レオポルト2世は別人 ベルギー国王レオポルド2世は、神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のレオポルト2世(マリー=アントワネットの兄。フランス革命に対してピルニッツ宣言を出した皇帝)と混同しないこと。両方とも Leopold だが、ベルギーでは(フランス語読みか)レオポルド、ドイツやオーストリアではレオポルト(ドイツ語では語尾のdはトと発音する)と表記する。

微妙な言語問題などでの妥協

 レオポルド2世は1865年に新国王として即位したが、そのオランダ語能力が疑われ不人気だった。父王のレオポルド1世はベルギーが永世中立を宣言していたことから、オランダ語にも気をくばり、皇太子(後のレオポルド2世)にはオランダ語の家庭教師を付けた。しかしレオポルド2世は生涯オランダ語が不得意で、人前で多くを語らない内気な国王と受けとられた。先王の意向はあったものの、実際に国王をとりまく官僚たちはフランス語を使い、オランダ語を蔑んでいたから、レオポルド2世がオランダ語が上達しないまま成長したのも無理のないことだった。
 1887年にレオポルド2世がフランデレン(オランダ語圏)で演説しなければならなかったとき、フランス語で演説したため、フランデレンの新聞は「この王はフランデレンの王ではない」と批判した。国王と側近はこれではまずいと考え、その後は公式行事でオランダ語を使うようになった。これは二言語国家として当然とも受けとられたが、今度はワロン側の反発が起きてしまう。フレンデレン側はレオポルド2世の不人気に乗じて、議会で司法、行政、教育でオランダ語を使うことを認めさせる「平等法」(1873~83年)を成立させるなど、フランデレン運動を前進させた。 → ベルギーの言語戦争
 レオポルド2世は、この言語問題と結びついた学校教育の統合の要求や労働運動の高まり、普通選挙の実現などの社会立法では妥協を強いられるなか、唯一、父王を超える仕事として、ベルギーの富国強兵に取り組むことに希望を見出し、それを実現するのは植民地獲得という手段しかない、と信じるようになった。<松尾秀哉『物語ベルギーの歴史』2017 中公新書 p.68-75>

植民地獲得を目指す

 1865年にベルギー王国の第二代の国王となったレオポルド2世は、隣国オランダがオランダ領東インドのジャワ島コーヒーなど世界的な需要のある商品作物を政府が管理して生産する政府栽培制度を行って大きな富を得ていることに刺激され、ベルギーも国力増大させ、財政を安定させるために植民地が必要だと信じるようになった。そこで世界地図の中でまだ植民地になっていないところを探し、中国とその周辺、南太平洋、東南アジアなどから可能性を探った。その中には開国したばかりの日本も含まれていた。しかしそのいずれの植民地化はイギリス・フランス・オランダ・ドイツ・アメリカに先取りされて失敗し、最後に残ったのがアフリカの「最深部」、コンゴ川流域だった。この地は1877年に欧米人としてスタンリーが初めて足を踏み入れるまで、帝国主義勢力にとって空白地帯だった。スタンリーの探検を知ったレオポルド2世は自ら彼と会い、翌年再びコンゴ川上流に派遣した。スタンリーは苦心の末、コンゴ川流域からコンゴ盆地にかけてを踏破して、アフリカ人首長と貿易独占条約を締結していった。
 レオポルド2世の行動は、ベルギー議会や国民から支持されなかった。そこで国王は自分の個人的な行動ではないことを示すため「コンゴ国際協会」を設立、その趣旨を未開の地に「文明」の恩恵に浴させるための善意の行動であるとした。そのころ、フランスがコンゴ川右岸に侵出、保護条約を結んで植民地化に乗り出そうとしており(フランス領コンゴ、現在のコンゴ共和国)、イギリスとアメリカはフランスの動きを牽制する意味でレオポルド2世のコンゴ国際協会に事実上の主権を認める姿勢をとった。

ベルリン会議

 このようなコンゴ流域における利害の対立(事実上は、イギリス・フランス・レオポルド2世という三者の対立)を調停するため、当時、公正なる仲介人として国際社会の主導権を握っていたドイツ帝国の首相ビスマルクが調停に乗り出して開催されたのがベルリン会議であった。会議は1884年~85年の長期にわたって行われ、その結果として「コンゴ国際協会」がコンゴ川流域一帯を統治することが認められた。
国王の私領「コンゴ自由国」 レオポルド2世は1885年4月30日にコンゴ領有を宣言、8月1日に「コンゴ自由国」として独立させ、自ら国王となった。レオポルド2世はベルギー国王であると共にコンゴ自由国国王であり、コンゴはベルギー王国のものではなく、レオポルド2世の私領として存在するという異常な形態となった。なお「コンゴ自由国」は正式には「コンゴ独立国」であり、それをイギリスが「コンゴ自由国」と言い換えたに過ぎず、それはイギリスがこの地では自由貿易が行われるというベルリン条約の約束にこだわったからである。決してレオポルド2世が住民の「自由」を認めたのではなく、「自由貿易の地域」を意味するイギリスの呼称だった(それを日本ではイギリスの言い換えのまま使っているにすぎない)。

コンゴ自由国の不評

Leopold II of Belgium

レオポルド2世の戯画(1904)

 レオポルド2世は、コンゴ自由国の首都をレオポルドビル(現在のキンシャサ)と名付けた。彼自身は生涯、コンゴに行ったことはなく、広大な領土のジャングルの中に点在する駐在所を設置し、経営を任せた。実際には国王と契約した特殊会社に現地の黒人を働かせ、象牙やゴムなどの産物を集めてベルギーに運び、ヨーロッパに売りさばいて利益を上げた。最初にコンゴの産出品となったのは象牙だった。象牙は世界的に貴重な財宝として売りさばかれ、そのためコンゴ盆地の象は急速に頭数を減らした。1890年代後半からは世界的なゴムの需要が増大すると、ジャングルに自生していたゴムの木から黒人を使役してゴムの原液を集め、輸出した。ジャングルの土地は所有者がいないという理由で国有地とされ、そこに住む黒人に人頭税が課せられたが、それはゴムを採取して納めなければならなかった。ジャングルに自生するゴムの木から原液を採取する作業は困難で、黒人がそのノルマを達成できず、抵抗したり不服従の動きが起きると、白人を指揮官とする公安軍が派遣され鎮圧した。抵抗した黒人に対する罰は厳しく、その手首を切り落とすことさえ行われた。
 また奥地から象牙やゴム原液をコンゴ川河口の港まで運ぶための鉄道が建設されたが、その鉄道建設にはコンゴだけではなく、周辺の地域から労働力として黒人が駆り出され、それでも不足したので中国人の苦力も導入された。高温多湿のジャングルを切り開いての鉄道建設は困難を極め、多くの労働者が命を落とした。
(引用)当時のヨーロッパでは、レオポルド2世は慈善家として知られていた。実際彼は、アフリカ人に暴力を振るわぬよう繰り返し植民地行政官に命じていた。しかしその一方で、彼はゴム生産の拡大も要請し続けた。王は、アフリカ人への暴力の根源に自分が敷いた開発システムが横たわっていることを見ようとしないナイーブな慈善家であった。<『新書アフリカ史・改訂新版』2018 講談社現代新書 p.367>
 『新書アフリカ史・改訂新版』の筆者はコンゴ自由国を“「善意」の帰結”と締めくくっている。しかし、「ナイーブな慈善家」と言うより「アブナイ慈善家」なのではないかと思える。詳細はコンゴ自由国の項を参照。

ベルギー領コンゴへの転換

 このようなコンゴ自由国での非人道的な黒人の扱いが次第に世界に知られるようになり、レオポルド2世は次第に窮地に追いこまれた。特にイギリス人ジャーナリストのモレルが発表した『赤いゴム』はコンゴ自由国の実態を告発し、コンゴ・スキャンダルとして国際的にも非難が高まった。ベルギーの国民もコンゴ自由国の実態を知らされることがなく、また関心も低かったが、政府は国際的な非難をかわすことが出来なくなり、1904年に調査団を派遣し残虐行為の存在が確認されたため、国家による併合の方針を固め、レオポルド2世もそれを認めた。1908年8月にベルギー政府は正式にコンゴ自由国を併合し、政府が管理する「通常の」植民地として「ベルギー領コンゴ」に転換させた。

ドイツの圧力強まる

 コンゴ自由国がベルギー領コンゴに転換した頃、ヨーロッパの帝国主義列強の角突き合いは一層激しくなっていた。特に東からのドイツ帝国の圧力は次第に強まってきた。ベルギー領コンゴでは豊かな地下資源の開発が進んでいたが、ドイツのアフリカ侵出は、ベルギー領コンゴを脅かすようになった。

Episode 悪人の国王と癇癪持ちの皇帝の会談

 ドイツ帝国のヴィルヘルム2世は、フランスと戦争になることを決意したが、先手を取ってフランスに侵攻するには中立国ベルギーを通過しなければならない。それは国際的に非難されることになるので、1904年に密かに国王レオポルド2世をベルリンに招き、「世にもやさしい態度で」彼を誘った。
(引用)長身で、黒いスペード型のヒゲをつけた堂々たるレオポルド2世は、情婦、金銭、コンゴでの残虐行為、その他いろいろのスキャンダルから生まれた悪人の風貌を身につけていた。オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世に言わせるとレオポルドは「真底から悪玉」だった。・・・数々の不徳のなかでも、ひときわ目立っていたのが貪欲さだったので、その貪欲さが常識をうち負かしてしまうだろうとカイゼル(ヴィルヘルム2世)は考えた。<バーバラ=タックマン/山室まりや訳『八月の砲声』1962 ちくま学芸文庫版 2004年刊 上 p.71-73>
 ヴィルヘルム2世はレオポルド2世に、その先祖のブルゴーニュ公の領地だったフランス西部のアルトワ、仏領フランドル、仏領アルデンヌなどをあわせてブルゴーニュ公国を再興してやろうと持ちかけた。あっけにとられたレオポルドは、15世紀の昔と違うから、閣僚と議会が同意しないだろう、と答えた。するとヴィルヘルムは持ち前の癇癪を起こし、国王たるもの、議会の言い分を聞くとは何事か、と叱りとばした。そして「ヨーロッパの戦争で、わしにつかないものは、みんな敵にまわしてやる」と言い放った。<タックマン『上掲書』p.71-73>
 悪人の国王と癇癪持ちの皇帝の妙な会談だったが、案の定、ドイツ=ベルギー同盟は実現しなかった。その後もドイツはベルギーを軽視する風は改まらなかったが、レオポルド2世が1909年に死ぬと、彼とは似ても似つかぬ甥のアルベールが国王となった。第一次世界大戦がはじまり、ドイツがシュリーフェン計画にもとづいて、ベルギー侵攻を開始すると、国王アルベールは敢然と抵抗し、全土が占領されても降伏せず抵抗を続けた。

NewS ベルギー現国王、今後植民地支配に「遺憾の極み」表明

 2020年5月25日、アメリカのミネアポリスで起きた、白人警官の過剰な拘束によって黒人ジョージ=フロイドが死亡した事件をきっかけに、黒人差別に対する抗議としてのBLM運動が世界中に巻き起こり、さらに黒人奴隷制度とそれを生み出したアフリカ植民地支配という歴史に対する抗議に発展した。欧米各地で黒人奴隷制や植民地支配にかかわって顕彰された人物の銅像が引き倒されたり、破壊される事態が続いた。
 ベルギーにおいても、6月に入り、アフリカ・コンゴでの苛酷な植民地支配を行ったレオポルド2世のブリュッセル王宮前の銅像などが激しい抗議に晒され、ペンキで汚される事件がおこった。
 おりしも、コンゴは1960年に独立したので2020年が独立60周年に当たっており、6月30日、ベルギーのフィリップ国王はコンゴ民主共和国大統領に書簡を送り過去の植民地支配にたいして「遺憾の極み」であると表明した。以下、AFP BB NEWS の記事を転載する。
(引用)ベルギーのフィリップ国王(King Philippe)は30日、自国によるコンゴ民主共和国の植民地支配がもたらした被害について、ベルギー国王として初めて「遺憾の極み」との思いを表明した。
 フィリップ国王は、コンゴの独立60周年を記念して同国のフェリックス・チセケディ(Felix Tshisekedi)大統領に送った書簡の中で「過去の傷について、遺憾の極みと伝えたい。その傷の痛みは今日、私たちの社会に依然存在する差別によって呼び覚まされている」と記した。
 米国でアフリカ系のジョージ・フロイド(George Floyd)さんが白人警官の拘束下で死亡した事件を受けて、ベルギーでも過去の植民地支配をめぐる議論が活発になっている。
 歴史学者らによると、現在のコンゴ民主共和国に当たる地域で、ベルギーのレオポルド2世(King Leopold II、1865~1909年在位)が所有していたゴム園※の労働者数百万人が、殺害されたり体を切断されたり、病気で亡くなったりしたという。
 フィリップ国王はレオポルド2世の名には触れなかったものの、当時「暴力的で残虐な行為があり、それが私たちの共通の記憶に重くのしかかっている」と述べ、「それに続く植民地時代(1908~60年)も、苦痛と屈辱をもたらした」と認めた。
 フィリップ国王はあらゆる形態の人種差別に立ち向かっていくと表明し、植民地支配の記憶が静まるよう、ベルギー議会が提起したこの問題に対して反省を促していきたいと語った。
 ベルギーではここ数週間、レオポルド2世の複数の像が反人種差別抗議デモの参加者によってペンキをかけられたり倒されたりしており、像の撤去を求める請願運動も始まっている。AFP BB NEWS 2020/6/30
※コンゴのゴム採取はゴム園ではなく、ジャングルに自生するゴムの木から原液を採集する危険な労働だった。