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胡耀邦

1980年、中国共産党の総書記として改革開放路線を推進したが、鄧小平らと対立し、87年に失脚。89年4月、その死をきっかけに学生・市民が決起し第2次天安門事件が起きた。

胡耀邦

胡耀邦総書記

 こようほう。1915-89 戦前からの中国共産党員で幹部養成機関である共産主義青年団の出身であったが、文化大革命で一時失脚した。1978年の文化大革命の終了近くなって、鄧小平が復権すると、その改革開放路線を進める片腕として協力、1979年に政治局員に抜擢されて趙紫陽とともに鄧小平政権を支えた。<以下、天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 などによる>

1981年「歴史決議」をとりまとめる

 鄧小平は文化大革命後の中国の指針として、1978年12月18日改革開放路線を提唱、大胆な資本主義導入に舵を切った。そのためには、中国共産党として文化大革命をどう評価するか、を明確にしなければならなかった。前年には華国鋒が文化大革命の終了を宣言していたが、それは文化大革命は勝利のうちに終わった、というもので清算し切れていなかった。そこで鄧小平は胡耀邦に文化大革命と毛沢東を総括する文案の作成を命じた。1979年1月から鄧小平・胡耀邦は慎重に検討を進め、1981年6月27日「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」(歴史決議)として11期六中全会に提案、採択された。それは文化大革命は誤りであり、中国を混乱させ、その責任は毛沢東にあると明確に結論づけるものだった。ただし、共産党結党、共和国建国における毛沢東の功績は不動であるので、毛沢東は誤りよりも功績が大きい、とされた。いずれにせよ、共産党はこれによって脱文化大革命を明らかにして新たな方向に向かうことになったが、そこでの胡耀邦の役割は大きかった。

共産党総書記に就任

 1982年9月に中国共産党は集団指導体制を確立する意味から党主席制を廃止して総書記制を導入、胡耀邦が総書記に就任した。鄧小平は表に立たなかったが、総書記の胡耀邦と国務院総理の趙紫陽を従えた「鄧胡趙トロイカ体制」とも呼ばれる体制を作り上げた。総書記とは党書記局の長の意味であるが、毛沢東-華国鋒-胡耀邦とつないできた党主席(正式には党中央委員会主席)に代わってもうけられた、実質的な党最高の地位であり、胡耀邦の後、趙紫陽-江沢民-胡錦濤-習近平と続いていく。

改革開放経済を推進

 胡耀邦は総書記となったものの、鄧小平は中央政務局常任委員という肩書きだけだったが隠然とした力を維持し、鄧小平政権ともいえるのが実質であり、胡耀邦・趙紫陽はそれを支える存在であった。そのもとで中国はいよいよ改革開放政策に本格的に取り組むことになって、胡耀邦は特に人民公社の解体や経済特区の設置など具体策を立案していった。次の段階での社会主義市場経済の導入においても胡耀邦が重要な役割を果たした。これらの政策は「社会主義」や「共産主義」を理念としては掲げているものの、毛沢東時代の中華人民共和国および中国共産党の階級闘争によって社会主義を建設しようというイデオロギー路線から大きな転換を図るものであった。また胡耀邦は、市場経済の導入は政治改革と不可分であると考え、一定の政治の近代化にも着手した。しかしその路線が共産党一党支配を揺るがすことを警戒する鄧小平らとの違いが次第に明確になっていった。

民主化に理解を示し、解任される

 この経済自由化への転換は、当然政治の民主化も伴うものと学生・知識人は期待し、共産党一党独裁の見直し、政治的発言の自由を求める声が強くなった。しかし、鄧小平は「四つの原則」を曲げることには応じず、政治改革の言論を厳しく取り締まるようになった。そして1987年1月、鄧小平は突然、胡耀邦総書記は「民主化を主張する知識人・学生に対し軟弱な態度を取った」として責任を取らせ、辞任に追いこんだ。

Eisode 中曽根首相に「年寄りを引退させる」と明言

 胡耀邦は率直な人がらであったが、時としてその発言は軽率すぎると共産党の長老たちから危惧する声が上がっていた。1986年11月8日、日本の中曽根康弘首相が訪中して会談したとき、胡耀邦はこんなことをしゃべった。「解決すべき問題は新旧交替である。その幅は貴総理には想像が出来ないかもしれないが、大幅な調整を行う予定である。中壮年幹部を登用し、年寄りを引退させる。明年度には党内でこれが明らかになろう」。これは間近に迫った第13回党大会を前にして総書記としての意気込みを語ったのだったが、この発言を聞いた薄一波ら党長老たちはカチンときた。おれたち年寄りを引退させると外国の首脳に告げるなんて行き過ぎだ、許せない、と言うわけだ。鄧小平はそれまで胡耀邦に目をかけていたが、やはり胡耀邦の軽はずみな言動には苦々しく思うようになっていたので、党長老の言い分に動かされた。この会見からわずか2ヶ月後、胡耀邦は総書記を解任され、失脚する。このときの中曽根-胡耀邦会談の詳細が、30年後の2017年12月、外務省の外交文書公開で明らかにされた。そこには二人が率直に語り合ったことが綴られている。<朝日新聞 2017/12/21 記事>
 中曽根と胡耀邦の二人は、以前からパイプがあったとされている。日中間にはすでに教科書問題や尖閣問題など難しい問題が生じていたが、当時は日本の首相もたびたび訪中し、パイプを絶やさないようにしていた。現在の日中首脳では考えられないような親密さだったようだ。その中曽根は、2003年、時の首相で自民党総裁小泉純一郎が議員定年73歳制を打ち出し、引退を勧告され、結局引退した。中曾根には、17年前の胡耀邦と、その時の小泉純一郎が重なって見えたかも知れない。

死後、第2次天安門事件が起きる

 1989年4月15日、胡耀邦が心筋梗塞で急死したことが伝えられると、彼を追悼する集会が北京の天安門広場で開催された。1989年6月4日、集まった学生・市民は政治活動の自由を認めない鄧小平に対する怒りを爆発させ、騒乱状態となった。胡耀邦に代わって総書記となっていた趙紫陽は学生の要求を聞こうとしたが、暴動化した群衆を説得することはできず、ついに中国人民軍が出動し、暴動は鎮圧された。鄧小平は、事件を「動乱」ときめつけ、趙紫陽を学生運動を抑えられなかった責任をとらせ、辞任させた。これが第2次天安門事件であり、鄧小平の改革が経済の自由化に限ったものであり、政治の自由化は否定され、共産党独裁の下での改革開放という方向が明確になって終わった。辞任した趙紫陽に代わって江沢民が総書記となり、鄧小平路線が継承された。

参考 胡耀邦の再評価

 2002年に中国共産党総書記になった胡錦濤は、胡耀邦と同じく、共産主義青年団(共青)出身で、かつて地方官だった時代に接点があったことから同情的とみられている。天安門事件から21年経った2010年には首相の温家宝が胡耀邦追悼の文を党機関紙人民日報に寄稿し、注目を浴びている。胡錦濤は表面には出てこないが、胡耀邦復権につながるかもしれない。しかし、天安門事件で失脚した趙紫陽についての再評価の動きはない。胡錦濤の次の総書記と見做されている習近平も共産主義青年団であるが、胡耀邦再評価は政治活動の自由を認めることになりかねないので、表だって評価に変化はないだろうと考えられる。<朝日新聞 2010年6月4日の記事による>
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書籍案内

天児慧
『中華人民共和国史』
1999 岩波新書

李鋭/小島晋治偏訳
『中国民主改革派の主張
中国共産党私史』
2013 岩波現代文庫>

胡耀邦や趙紫陽に近かった著者が、権力内側から見た第2次天安門事件。