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ブラックパワー

アメリカで、1964年の公民権法の成立後も差別の続くことに対して、1966年頃から盛んになった、黒人の実力行使による抵抗運動。

 1964年の公民権法の成立によって、法の上での黒人は白人と平等な権利を保障されたが、現実的な黒人差別は解消されなかった。特に1960年代から顕著になってきたのは、北部の大都市で経済的に恵まれない状況に置かれていた黒人の不満であった。公民権運動によって、投票権の行使や、学校などでの教育の平等などはある程度実現したものの、雇用や住宅などの経済的格差は貊人とのあいだで大きく、それらの不満は、公民権運動での非暴力による手段では実現できないことに、彼らの不満が強まっていった。

ネーション・オブ・イスラムとマルコムX

 公民権運動と一線を画し、イスラーム教信仰を核とするネーション・オブ・イスラムの指導者の一人マルコムXは、キング牧師の非暴力による運動に対して疑問を感じるようになり、アメリカ社会への同化を拒否して白人全体を敵視し、実力による黒人の解放を考えるようになった。アメリカ社会へのイスラーム教の浸透はごく少数であったが、1930年代からシカゴやデトロイトなどの黒人貧困層の中に、キリスト教では救済されないという不満を持つ若い黒人が現れ、イライジャ=ムハメドをし指導者としてネーション・オブ・イスラムを結成、各地に寺院(モスク)を建設して布教活動を行っていた。彼らは白人によって黒人が搾取されてきた歴史を振り返ることによって白人を徹底的に敵視し、その暴力に対して報復を主張するなど、過激な思想を抱き、同時に麻薬や犯罪から黒人を救済する活動を広く展開して勢力をひろげていった。自らも麻薬密売や強盗を行っていたマルコムXは獄中でイスラーム信仰に入り、1952年に釈放されてからネーション・オブ・イスラーム団員として布教活動を開始、その弁舌と行動力で次第に指導者として存在するようになった。
 1954年頃から始まった公民権運動は、厳しい弾圧を受けながら、キング牧師の非暴力主義が次第に支持を集めていった。マルコムXらのネイション・オブ・イスラームは非暴力主義には批判的であり、また公民権運動の主張する白人との「統合」には反対し、むしろ「分離」を徹底して独立した黒人の主権の確立をめざしたので両者の運動が交わることはなかった。マルコムXは実際に暴力行為を行ったり、奨励したわけではなかったが、白人を悪魔とさえ呼んで非難したので、マスコミから過激派と受け取られ、黒人運動のなかで主流になったわけではなかった。

公民権運動の終わり

 公民権運動が1963年8月のワシントン行進を成功させ、翌年には公民権法が成立、黒人は政治的、社会的な平等の権利を獲得した。しかし、特に大都市における黒人貧困層の雇用や住宅での劣悪な状況が解決したわけでは亡く、むしろ現実が変わらないことへの黒人の怒りは早くも1964年夏からのシカゴ、ニューヨークなどでの大規模な黒人暴動の発生という事態を生み出していた。
 このような状況の中で、マルコムXへの期待も強まったが、そのころ、ネーション・オブ・イスラムは教団主導権をめぐって内紛が生じ、マルコムXは脱退、本格的なイスラーム教信仰を深めると称してメッカ巡礼に向かった。そこで白人敵視が間違っていたことを悟り、黒人解放のための国際的組織づくりが必要であると考え、路線を転換した。しかし、反対派から付け狙われていたマルコムXは、1965年2月、ニューヨークで殺害され、ブラック=ムスリム運動は混乱した。

ブラック・パワーの出現

 その後も、1965年の選挙法成立直後のロサンジェルス・ワッツ地区をはじめ、67年のデトロイトなど、北部の大都市で次々と黒人暴動が起こった。彼ら黒人は公民権の保障だけでは平等は達成できないと考え、白人の理解によってではなく、黒人自身の力で平等を勝ち取ろうと考え、「ブラック・パワー」を唱えるようになった。そのような中で、1966年頃、黒人活動家ジェイムズ・メレディスが、ミシシッピで単独行進中に狙撃され、それを受けたキング牧師が行進を継続した。マルコムXの影響を受けていた活動家の一人の黒人ストークリー=カーマイケルも行進に参加し、行進を警察や白人差別主義者から守るため、黒人も武装することを主張し、その行進の中から「ブラック・パワー」と言う言葉が生まれた。カーマイケルは逮捕されたが、6月16日に釈放されて演説し「もうたくさんだ。今こそわれわれはブラック・パワーを主張しよう!」と呼びかけると、黒人大衆が一斉に興奮して「ブラック・パワー!」と叫んだ。<上杉忍『アメリカ黒人の歴史』2013 中公新書 p.152-154>

キング牧師との対立

 キング牧師は「ブラック・パワー」というスローガンは非暴力運動の道徳的優越性という武器を奪い、白人の報復を招くだけだとしてカーマイケルを説得した。そして白人と敵対するので無く、今必要なのは「貧しい人々のためのパワー」だと主張した。しかし、カーマイケルは納得せず、話し合いは決裂した。主要メディアはブラック・パワーを新しいスローガンとして報道し、それは実体のない運動として一人歩きしていった。

1968年

 1960年代後半から70年代前半にかけて、ブラック・パワー運動は、ストークリー=カーマイケルだけでなく、ヒューイ=ニュートン、アンジェラ=デービス、エルドリッジ=クリーヴァーなどの活動家が次々と現れ、おりから活発となったベトナム反戦運動と結びつき、黒人差別反対運動の枠を越えた広がりをみせるようになった。1967年にはキング牧師は明確にベトナム戦争反対の態度を表明し、黒人の貧困問題の解決が必要と考えるようになっており、ブラックパワー運動との歩み寄りも可能性も生じたが、その矢先、1968年4月4日キング牧師が暗殺され、さらに同年6月にはリベラル派のロバート=ケネディが続けて暗殺されたことで、彼らは非暴力主義の限界を克服する武装闘争をも呼びかけるようになった。
 1986年のメキシコ・オリンピックの時、陸上200mで表彰台に立ったアメリカ黒人メダリストが、国旗が掲揚される間、黒い手袋をした拳を握りしめて高く掲げたできごとは、世界中にブラックパワーを誇示することになった。
アンジェラ=デービス ブラック・パワーの強大化を恐れたアメリカ政府はFBIなどを総動員して弾圧を加え、そのため指導者の多くは逮捕され、裁判で有罪にされることが続き、それを逃れて国外に逃亡するものも出た。殺人教唆の嫌疑で1年以上拘留されたが、無罪を勝ち取った女性活動家アンジェラ=デービスは、ドイツ留学中にマルクーゼに師事し、マルクス主義哲学を学び、帰国後は共産党に入党、ブラック・パワーとは一線を画するようになった。

急進化と運動の退潮

 さらに学生組織の中から生まれた「ブラック=パンサー党」(黒豹党)は武装自衛を主張するうちに、毛沢東思想と結びついて明確な革命を志向するようになった。しかし、急進派の出現に伴って、黒人運動組織の中でもブラック・パワーによる白人排斥によって急速に大衆的基盤を失い、混迷していった。危険な団体としてFBIによって弾圧の対象となり、1971年にはヒューイ=ニュートン、ボビー=シール、アンジェラ=デービスらは裁判にかけられ、エルドリッジ=クリーヴァーはアルジェリアに逃亡、ストークリー=カーマイケルもアフリカに拠点を移した。6年後、逃亡生活を終え刑事裁判を受けるためにアメリカに戻ったクリーヴァーは雑誌インタビューで「いろいろ欠陥もあるが、アメリカの政治制度は世界で最も自由で、もっとも民主主義的だ」と語った。<ロデリック・ナッシュ/足立康訳『人物アメリカ史』下 1986 新潮社 p.200>

投票箱による革命

 1970年代の黒人運動は、キング流の行進や祈りは放棄したが、キングの目標を達成するために公民権立法を、特に、1965年の投票権法を利用した。黒人たちはパワーを獲得することに努めたが、それはかつてのブラックパワーが意味していたものではなく、黒人革命の切っ先として投票箱を用いるようになった。
 その成果は目にみえて明らかになった。1965年の旧南部連合各州の選挙で選ばれる公職に就いていた黒人の数は、総計72人に過ぎなかったが、10年後、それは総計1500を上まわる数となり、連邦議会には18人の黒人議員がいた。最高裁判所判事、国連大使、ロサンゼルス、ワシントンDCなどの市長にも黒人が選ばれ、大統領選挙でも黒人票が行方を決するようになった。<ロデリック・ナッシュ/足立康訳『前掲書』 p.200>
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書籍案内

上杉忍
『アメリカ黒人の歴史―奴隷貿易からオバマ大統領まで』
2013 中公新書

ロデリック・ナッシュ
足立康訳
『人物アメリカ史』下
2007 講談社学術文庫
初刊は1986 新潮社

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『ブラックパワー・ミックステープ 1967-1975
アメリカの光と影』
Y.H.オルソン 2011

スウェーデンのジャーナリストが1967-1975に取材した実写テープで構成。キング牧師、マルコムX、E・クリーバー、アンジェラ=デービスらの生の姿を伝えている。ブラック・パワーとは何だったのか、考えるきっかけとなるドキュメンタリー映画。