マルコムX
1950~60年代前半に、アメリカの黒人差別に対して戦った一人で、イスラーム教信仰をもとにしたブラック=ムスリム運動を指導した。キング牧師らの非暴力主義による公民権運動とは一線を画し、白人に対する敵意を隠さずに運動を進め、暴力も肯定した。1965年に暗殺された。
・現在の高校世界史では、第二次世界大戦後の黒人解放運動の説明は、もっぱらキング牧師を中心とした公民権運動に焦点が当てられており、1964年7月に公民権法が制定されたことで、黒人の政治的・社会的平等は実現したと受け取れることで終わっている。しかし、これでアメリカの黒人人種問題が解決したのではないことは、21世紀の現在もたびたび黒人の暴動が起こっていることであきらかである。2020年5月のミネアポリスでの白人警官の過剰警備で黒人男性が殺害された事件から端を発したBLM運動も記憶に新しい。
このように公民権運動以後も黒人暴動が続いていることを考える上で、キング牧師の公民権運動と同時期に、それとは異質な黒人運動としてマルコムXらを指導者とするブラック=ムスリム(ネイション・オブ・イスラム)の運動があったことを知っておくことが大切であり、それが公民権運動以降の黒人人種問題が現在までどう変化したかを知ることにもつながる。マルコムX自身は1965年2月、ブラック=ムスリムの内紛から暗殺され、その活動期間は短かったが、公民権運動が下火となるとともに各地で広がった黒人暴動などの直接行動の思想的背景となり、70年代のブラックパワーの台頭につながっていく。そこで、ここでは高校世界史の学習範囲を超えることになるが、マルコムXに焦点を当てて、もう一つの黒人運動について考えてみよう。
マルコムX(MalcolmX 1925-1965)のわずか39年間の生涯は、大きく三つの時期に分けることができる。
麻薬と犯罪 マルコムはボストンの異母姉エラに引き取られ、少年時代を送った。中学校では黒人は一人だけで、級長に選ばれるほどの利発なこどもだった。将来は弁護士になりたいと思っって中学の先生に相談したところ、黒人では無理だから大工になれ、といわれた。結局、貧しかったので高校には進まず、家出同様にボストンに出て靴磨きなどの職を転々とするうちに、不良仲間と知り合うようになり、持ち前の度胸の良さから一目置かれるようになった。そのうち列車の食堂車のウェイターの職を見つけ、ニューヨークに通ううちに、大都会の魅力に惹かれてハーレムに居着いてしまう。まだ18歳だったマルコムは、大柄な体格に、赤みがかった頭髪をコンク(リーゼントのような髪型)に固め、派手なスーツを身をつけて、巧みにリンディ・ポップ(1927年、リンドバーク大西洋横断成功の年に流行ったダンス)を踊って、たちまちハーレムの仲間の人気者になった。麻薬に手を染めるのにも時間はかからなかった。そして遊ぶ金を稼ぐために、ポン引き(売春婦の客引き)、イカサマ賭博のハスラーとなって知られるようになり、とうとう仲間と組んで強盗をやるようになった。
入獄 日本の真珠湾攻撃によって戦争に突入したアメリカは、黒人に対しても徴兵義務を負わせたので、マルコムも1944年、徴兵検査を受けることになった。ところがマルコムは一計を案じ、「俺は日本軍に入るんだ!」と大声でわめき歩いて、精神異常を装った。まんまとその経略があたり、兵役不適格者として徴兵を免れることができた。しかし、盗品を質入れしたことから足がつき、ついに1945年、警察につかまってしまい、刑務所に送られることになった。
マルコムXを名乗る ネイション・オブ・イスラム(NOI)はシカゴでイライジャ=ムハマドという人物を指導者として黒人の中に信者を拡大していた。1952年夏、釈放されたマルコムはイライジャを訪ね、そのカリスマ的な指導力に心酔、その教えの布教に尽くそうと決心した。そのときリトルという姓は白人から与えられたもので、自分たちの本当の姓はわからないのだ、ということからマルコムXと名乗るようになった。教団員の黒人は皆、姓を捨て、名前にXをつけ、同名が何人もいれば入信順にトーマス1X、トーマス2Xなどと呼び合った。
教団の宣伝塔となる マルコムXはイライジャ=ムハマドを教団の絶対の尊師と仰ぎ、その忠実な弟子となり、持ち前の弁舌と機転でたちまち説教師として重用されるようになり、各都市での説教を行い、ニューヨークの寺院を任されるようになった。さらに病気がちだったイライジャに代わって、対外的には代表としての役割を果たすようになり、そのもとでネイション・オブ・イスラムの会員が急増したため、マスコミの注目も浴びるようになる。1959年7月、ネイション・オブ・イスラムの実態を伝えるという番組「憎悪が生んだ憎悪」がテレビで放映され、その中でマルコムXは「白人は悪魔だ!」と叫び、キング牧師らの公民権運動の非暴力主義を批判し、自分たちが求めるのは公民権などといった白人と肩を並べてコーヒーを飲むようなものではなく、白人と分離してでも独自の権力のもとでの独立した主権なのだ、と主張した。また白人差別主義者の暴力に対抗するための自衛組織として「イスラームの果実」(FOI)を信者の男性で組織し、柔道と空手を練習させた。
マルコムXのセンセーショナルな発言で彼の名は全国的に知られるようになり、同時に白人たちの恐怖心を煽ることとなった。同じ1959年にキューバ革命が起こり、すぐ近くに共産主義国家が登場したことで、アメリカのマルコムXへの警戒心はカストロと重なって映ったのかも知れない。
師への疑惑 マルコムXの名声が高まるにつれてイライジャ=ムハマドとの溝が深まった。イライジャはマルコムを教団指導者の地位を脅かす危険な存在と見なすようになる一方、マルコムも師に対する疑惑を感じるようになった。決定的になったのは、イライジャが秘書の女性信者数人と性的関係を結び、その子の認知をめぐって訴えられたことだった。マルコムは教団員となってから、信徒のベティと結婚し、不倫は許されないという教えを守ってただけに、このスキャンダルに衝撃をうけ、師への尊崇の思いが一気に崩れた。
教団との決別 これに対し、尊師イライジャ=ムハメドは、非難が教団に及ぶことを恐れ、マルコムに90日間の謹慎を命じた。それは事実上の教団追放の命令であることをマルコムは感じ取り、翌年3月、ネイション・オブ・イスラムからの決別、新組織ムスリム・モスク・インクを立ち上げると表明した。ネイション・オブ・イスラム側からは家族に対してもさまざまな嫌がらせがなされるようになり、マルコムも暗殺される危険を強く感じるようになった。
メッカ巡礼 ネイション・オブ・イスラムと決別したマルコムは、イスラーム教の本来の信仰を求める気持ちを強め、1964年4月、聖地メッカへの巡礼に旅立った。サウジアラビアのジッダに着いたものの、アラビア語も話せず、礼拝の仕方も知らなかったマルコムはイスラーム教徒と認められず、メッカに入ることを拒否された。ようやくアメリカで識りあったサウド王家の縁者のイスラーム学者に連絡をとることが出来、同行してもらってメッカに入り、念願の巡礼を果たした。このメッカ巡礼によってマルコムは正統派イスラーム教に入信するとともに、決定的な変化がもたらされた。
白人敵視の克服 マルコムがメッカ巡礼で得たことは、本格的なイスラーム信仰とともに、イスラーム世界であらゆる人種が信仰のもとで平等に生きているという現実を知ったことだった。その現実の前で、それまでの黒人の優越を信じ、白人を敵視した自身の人種観が、偏狭な誤ったものであったことを実感した。もう一つの新たな発想は、黒人の解放はアメリカだけの問題ではなく、アフリカの黒人の解放とも一体である、ということであった。その思いはメッカの帰途、ガーナなどのアフリカ諸国を訪ねてエンクルマなどの指導者と会うことで強められていった。
国際的な運動を構想 メッカ巡礼を終えたイスラーム教徒には「ハジ」という特別な称号が与えられる。正統派イスラーム教に改宗したマルコムは「エル=ハジ・マリク・エル=シャバーズ」と名乗るようになった。5月21日に帰国し、ただちに「アフロ・アメリカン統一機構」(OAAU)の設立を表明した。それは非宗教的組織であり、アフリカ統一機構とも連携した黒人の解放をめざすものであった。また、彼はアメリカにおける黒人問題を国際連合の場に持ち出し南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトと同じように国際世論に訴えようと考えた。早くも7月、再び中東諸国を訪問し、エジプトのナセル大統領などと面会、支持を訴えた。このような彼の動きは、アメリカ政府のCIAとFBIが警戒することとなり、常にその身辺を監視されるようになった。
暗殺 1965年2月21日、ハーレムのオーデュボン・ボールルームで行われたOAAUの集会に出席したマルコムXが演説をはじめようとしたとき、後部座席の数人が騒ぎ出し、護衛がそちらに向かったため壇上で無防備となったところを、前列にいた数人の男が発砲、ほぼ即死状態で亡くなった。数日前には家に火炎瓶が投げ入れられて全焼するという事件も起こっており、マルコムは当然警戒していたが、約束の集会での演説を中止することは出来ない、として出かけたのだった。警察は現場で三人の黒人を捕らえたが、ネイション・オブ・イスラムは事件との関係を否定する声明を発表、 裁判は3人だけの犯行と断定して終身刑を言い渡して終わった。
主流と傍流 1950年代の後半から、キング牧師は青年牧師として公民権運動にかかわり、その指導者となって活躍、マルコムXは獄中でイスラーム教徒となり、出所後はネイション・オブ・イスラムの導師として活動する。二人に接近する機会はなかった。公民権運動はキリスト教の愛の精神に支えられた非暴力主義をかかげ、さまざまな妨害や弾圧を受けながらも白人の中にも支持を拡げ、1963年8月にワシントン大行進を成功させ、ケネディ・ジョンソンという民主党政権を動かし、公民権法を成立させた。黒人運動の主流はまちがいなくキング牧師側にあり、マルコムXらの運動は一部の特異な過激グループとみられていた。
非暴力主義をめぐって マルコムXは公民権の実現は黒人が白人の作った法律に守られることになっただけで、本当の解放にならないとキング牧師を批判した。マルコムに言わせれば、キング牧師は白人のご機嫌を取る「アンクル=トム」にすぎなかった。またその非暴力主義は、白人の暴力的な黒人排撃に立ちむかうことが出来ない、として必要であれば暴力も辞さないと主張した。但し、マルコムXは警察の暴力に対して集団で抗議したことはあったが、実際に暴力をふるったことはなかった。逆に、マルコムは口だけで、暴力をふるう勇気はないのだ、と批判する者もいた。一方で公民権法が成立したにもかかわらず、黒人差別の現実が解消されなかったことで、キング牧師の非暴力主義に限界を感じる若い黒人も増えていた。
統合か分離か キング牧師とマルコムXの考え方でもっとも違っているのは次のような点であった。キング牧師は黒人の公民権を認めさせることで白人と同等となり、黒人と白人の「統合(インテグレーション)」を実現することを目指し、そのためには「分離(セパレーション)」を否定した。それに対してマルコムXは、黒人は白人とは異なる主権をもつべきであり、そのためにはむしろ黒人と白人は「分離」すべきであり、「統合」には反対した。なお、対等な「分離」ではなく、黒人の権利を奪い白人社会の中で「隔離」(セグリゲーション)することには強く反発した。マルコムXだけでなくネーション・オブ・イスラームも「分離」を主張していた。判りづらいが「分離」の考えでは例えば白人と黒人の学校を別にすることは、黒人独自の教育ができるのだからかまわない、という発想になる。またマルコムXに言わせれば、白人と同じ席でコーヒーにミルクを入れて飲むようなことはしたくない、ということになる。突き詰めれば、アメリカの国土の中に黒人の国を作ろう、という主張となる。となると、白人の分離主義者も同じ考えになるので、KKKの中にはネーション・オブ・イスラームを容認しようという意見もあったという。
メッカ巡礼後 以上のようなマルコムXの思想は、1964年にメッカ巡礼を果たしてから、大きく変わってきたと考えられる。まず白人を悪魔と呼んで敵視していたことから抜けだし、イスラーム信仰の上での人種を越えた平等思想をもつようになったことと、人種差別問題を国際的な視野で捉え、アパルトヘイトやアフリカ、アジアでの民族差別の廃絶を、国連の場で訴えようと考えた。差別問題の本質は人種対立ではなく、社会的な経済格差や資本主義の搾取の仕組みあるのではないかと考え、社会主義への関心も持つようになったと思われる。
二人の邂逅 マルコムがメッカ巡礼に出発する前の1964年3月、公民権法案審議中の議会構内で、偶然キング牧師と遭遇して二人はことばをかわした。そのころから、マルコムは白人敵視や暴力主義では運動は進まないと気づきはじめており、キング牧師は公民権を実現しても黒人の雇用や住居での差別が続けば問題は解決しないのではないか、と考えていた。この時両者は言葉を交わしただけで終わったが、家族によって伝えられた両者の断片的な言葉のなかに、その頃から互いに相手を認めるようになったらしい。
しかし、マルコムXは1965年2月、キング牧師は1968年4月、ともに39歳という若さで凶弾に倒れ、二人が議論を戦わす機会は永遠に失われた。銃撃されるという、アメリカの病根が顕わになったように倒れたわけだが、もしこの事態がなかったなら、二人の議論が咬み合って黒人解放、差別問題の解消が別な方向に向かい、現在に続く混迷を避けることができたかも知れない、という想像をめぐらしたくなる。
さらに同年11月18日のBBCニュースによると、マルコムX殺害犯人として服役していた2人(うち一人はすでに死亡)の有罪が取り消されたという。裁判所は2人を無罪とする新たな証拠が見つかったとして「重大な誤審」によって2人が失った55年間の年月が取り戻すことが出来ないことを「遺憾に思う」と述べたという。2人が犯人でないことを裁判所が認めたことで、マルコムXの娘たちが言うような警察やFBIの関与があったのかどうか、が問われることになる。BBCニュース 2021/11/18
このように公民権運動以後も黒人暴動が続いていることを考える上で、キング牧師の公民権運動と同時期に、それとは異質な黒人運動としてマルコムXらを指導者とするブラック=ムスリム(ネイション・オブ・イスラム)の運動があったことを知っておくことが大切であり、それが公民権運動以降の黒人人種問題が現在までどう変化したかを知ることにもつながる。マルコムX自身は1965年2月、ブラック=ムスリムの内紛から暗殺され、その活動期間は短かったが、公民権運動が下火となるとともに各地で広がった黒人暴動などの直接行動の思想的背景となり、70年代のブラックパワーの台頭につながっていく。そこで、ここでは高校世界史の学習範囲を超えることになるが、マルコムXに焦点を当てて、もう一つの黒人運動について考えてみよう。
マルコムX(MalcolmX 1925-1965)のわずか39年間の生涯は、大きく三つの時期に分けることができる。
少年の苦闘
家族 マルコムXは、もとの名をマルコム=リトルという身長は1m90cm台の大男だった。黒人ではあるが、母方の祖母の父は白人であったので、容貌は黒人にしてはそう黒くなかった。祖母は白人の牧場主とその奴隷の黒人女性の間に生まれた女性だった。マルコムの父はミシガン州ランシングでキリスト教の伝道師となったが、1920年代に盛んになった黒人の解放を実現するガーヴェイ運動に加わったため、黒人排撃を掲げる白人暴力集団によって暗殺された。妻(つまりマルコムの母)ルイーズはマルコム以下8人の子供たちを一人で育てるという苦しい生活の中で、発狂してしまい、一家は離散した。祖母が白人の暴力によって産まれたこと、父が白人に殺されたこと、そして母が貧困の中で発狂したことなどはマルコムXの自我形成に深く影響を与えたと思われる。麻薬と犯罪 マルコムはボストンの異母姉エラに引き取られ、少年時代を送った。中学校では黒人は一人だけで、級長に選ばれるほどの利発なこどもだった。将来は弁護士になりたいと思っって中学の先生に相談したところ、黒人では無理だから大工になれ、といわれた。結局、貧しかったので高校には進まず、家出同様にボストンに出て靴磨きなどの職を転々とするうちに、不良仲間と知り合うようになり、持ち前の度胸の良さから一目置かれるようになった。そのうち列車の食堂車のウェイターの職を見つけ、ニューヨークに通ううちに、大都会の魅力に惹かれてハーレムに居着いてしまう。まだ18歳だったマルコムは、大柄な体格に、赤みがかった頭髪をコンク(リーゼントのような髪型)に固め、派手なスーツを身をつけて、巧みにリンディ・ポップ(1927年、リンドバーク大西洋横断成功の年に流行ったダンス)を踊って、たちまちハーレムの仲間の人気者になった。麻薬に手を染めるのにも時間はかからなかった。そして遊ぶ金を稼ぐために、ポン引き(売春婦の客引き)、イカサマ賭博のハスラーとなって知られるようになり、とうとう仲間と組んで強盗をやるようになった。
入獄 日本の真珠湾攻撃によって戦争に突入したアメリカは、黒人に対しても徴兵義務を負わせたので、マルコムも1944年、徴兵検査を受けることになった。ところがマルコムは一計を案じ、「俺は日本軍に入るんだ!」と大声でわめき歩いて、精神異常を装った。まんまとその経略があたり、兵役不適格者として徴兵を免れることができた。しかし、盗品を質入れしたことから足がつき、ついに1945年、警察につかまってしまい、刑務所に送られることになった。
イスラーム教に入信
刑務所を大学に 刑務所での生活は人間としての尊厳を奪われる苛酷なものであったが、麻薬や喫煙が断たれたことでマルコムの精神状態も次第に安定をとりもどした。そんな中で大きな転機を迎えることになった。それはすでにイスラーム教に改宗していた兄弟たちから差し入れられた「ネイション・オブ・イスラム」という団体のパンフレットを読んだことだった。豚肉を食べてはいけないといった教えに従った生活を送るうちに、マルコムの中に真理探究心がうまれ、猛然と知識欲、学習欲が湧き上がった。幸運にも姉のエラの尽力で、刑務所からくらべれば規則がゆるやかなノーフォーク犯罪者コロニー(刑期満了の前の社会復帰を準備する施設)に移り、英語の読み書きからやり直し、その図書室の厖大な図書を読んで知識を深めていった。マルコムは後々、どの大学で学んだのか、と質問されると「刑務所という大学」で学んだのです、と答えている。そこで学んだアメリカの歴史は、白人による黒人奴隷貿易、黒人奴隷制度という悪魔の所業とも言うべき事実が続いたのであり、キリスト教は人間の平等を説きながら、実際には白人の支配をみとめ、黒人を縛り付ける役割しか果たしていない、という事実であった。そしてそれまでの自分の境遇がまさに白人による仕打ちだったと思い立った。そこから白人=キリスト教への憎悪にも似た心情が形成され、自己と黒人を解放する理念を「ネイション・オブ・イスラム」の中に見出していったのだった。マルコムXを名乗る ネイション・オブ・イスラム(NOI)はシカゴでイライジャ=ムハマドという人物を指導者として黒人の中に信者を拡大していた。1952年夏、釈放されたマルコムはイライジャを訪ね、そのカリスマ的な指導力に心酔、その教えの布教に尽くそうと決心した。そのときリトルという姓は白人から与えられたもので、自分たちの本当の姓はわからないのだ、ということからマルコムXと名乗るようになった。教団員の黒人は皆、姓を捨て、名前にXをつけ、同名が何人もいれば入信順にトーマス1X、トーマス2Xなどと呼び合った。
教団の宣伝塔となる マルコムXはイライジャ=ムハマドを教団の絶対の尊師と仰ぎ、その忠実な弟子となり、持ち前の弁舌と機転でたちまち説教師として重用されるようになり、各都市での説教を行い、ニューヨークの寺院を任されるようになった。さらに病気がちだったイライジャに代わって、対外的には代表としての役割を果たすようになり、そのもとでネイション・オブ・イスラムの会員が急増したため、マスコミの注目も浴びるようになる。1959年7月、ネイション・オブ・イスラムの実態を伝えるという番組「憎悪が生んだ憎悪」がテレビで放映され、その中でマルコムXは「白人は悪魔だ!」と叫び、キング牧師らの公民権運動の非暴力主義を批判し、自分たちが求めるのは公民権などといった白人と肩を並べてコーヒーを飲むようなものではなく、白人と分離してでも独自の権力のもとでの独立した主権なのだ、と主張した。また白人差別主義者の暴力に対抗するための自衛組織として「イスラームの果実」(FOI)を信者の男性で組織し、柔道と空手を練習させた。
マルコムXのセンセーショナルな発言で彼の名は全国的に知られるようになり、同時に白人たちの恐怖心を煽ることとなった。同じ1959年にキューバ革命が起こり、すぐ近くに共産主義国家が登場したことで、アメリカのマルコムXへの警戒心はカストロと重なって映ったのかも知れない。
師への疑惑 マルコムXの名声が高まるにつれてイライジャ=ムハマドとの溝が深まった。イライジャはマルコムを教団指導者の地位を脅かす危険な存在と見なすようになる一方、マルコムも師に対する疑惑を感じるようになった。決定的になったのは、イライジャが秘書の女性信者数人と性的関係を結び、その子の認知をめぐって訴えられたことだった。マルコムは教団員となってから、信徒のベティと結婚し、不倫は許されないという教えを守ってただけに、このスキャンダルに衝撃をうけ、師への尊崇の思いが一気に崩れた。
決別と暗殺
鶏は巣に帰って卵を産む 公民権運動は最高潮に達し、1963年8月28日にはワシントン大行進が行われた。マルコムはその現場にはいたが、キング牧師とは面識もなく、その非暴力主義には批判的で、行進も黒人と白人が手を取り合ってピクニックをしているようなもの、と冷ややかに見ていた。ところが11月、ケネディ大統領暗殺事件が起きたとき、見解を問われたマルコムは、とっさに「鶏は巣に帰って卵を産む When The Chickens Come Home To Roost.」という諺を引いて感想とした。これは「当然のこと」、つまり「自業自得」というニュアンスなので、その発言がニュースで伝えられると、ケネディ追悼一色になっているアメリカ中で非難の声が起こった。教団との決別 これに対し、尊師イライジャ=ムハメドは、非難が教団に及ぶことを恐れ、マルコムに90日間の謹慎を命じた。それは事実上の教団追放の命令であることをマルコムは感じ取り、翌年3月、ネイション・オブ・イスラムからの決別、新組織ムスリム・モスク・インクを立ち上げると表明した。ネイション・オブ・イスラム側からは家族に対してもさまざまな嫌がらせがなされるようになり、マルコムも暗殺される危険を強く感じるようになった。
メッカ巡礼 ネイション・オブ・イスラムと決別したマルコムは、イスラーム教の本来の信仰を求める気持ちを強め、1964年4月、聖地メッカへの巡礼に旅立った。サウジアラビアのジッダに着いたものの、アラビア語も話せず、礼拝の仕方も知らなかったマルコムはイスラーム教徒と認められず、メッカに入ることを拒否された。ようやくアメリカで識りあったサウド王家の縁者のイスラーム学者に連絡をとることが出来、同行してもらってメッカに入り、念願の巡礼を果たした。このメッカ巡礼によってマルコムは正統派イスラーム教に入信するとともに、決定的な変化がもたらされた。
白人敵視の克服 マルコムがメッカ巡礼で得たことは、本格的なイスラーム信仰とともに、イスラーム世界であらゆる人種が信仰のもとで平等に生きているという現実を知ったことだった。その現実の前で、それまでの黒人の優越を信じ、白人を敵視した自身の人種観が、偏狭な誤ったものであったことを実感した。もう一つの新たな発想は、黒人の解放はアメリカだけの問題ではなく、アフリカの黒人の解放とも一体である、ということであった。その思いはメッカの帰途、ガーナなどのアフリカ諸国を訪ねてエンクルマなどの指導者と会うことで強められていった。
国際的な運動を構想 メッカ巡礼を終えたイスラーム教徒には「ハジ」という特別な称号が与えられる。正統派イスラーム教に改宗したマルコムは「エル=ハジ・マリク・エル=シャバーズ」と名乗るようになった。5月21日に帰国し、ただちに「アフロ・アメリカン統一機構」(OAAU)の設立を表明した。それは非宗教的組織であり、アフリカ統一機構とも連携した黒人の解放をめざすものであった。また、彼はアメリカにおける黒人問題を国際連合の場に持ち出し南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトと同じように国際世論に訴えようと考えた。早くも7月、再び中東諸国を訪問し、エジプトのナセル大統領などと面会、支持を訴えた。このような彼の動きは、アメリカ政府のCIAとFBIが警戒することとなり、常にその身辺を監視されるようになった。
暗殺 1965年2月21日、ハーレムのオーデュボン・ボールルームで行われたOAAUの集会に出席したマルコムXが演説をはじめようとしたとき、後部座席の数人が騒ぎ出し、護衛がそちらに向かったため壇上で無防備となったところを、前列にいた数人の男が発砲、ほぼ即死状態で亡くなった。数日前には家に火炎瓶が投げ入れられて全焼するという事件も起こっており、マルコムは当然警戒していたが、約束の集会での演説を中止することは出来ない、として出かけたのだった。警察は現場で三人の黒人を捕らえたが、ネイション・オブ・イスラムは事件との関係を否定する声明を発表、 裁判は3人だけの犯行と断定して終身刑を言い渡して終わった。
キング牧師とマルコムX
二人は同時代の黒人解放運動の指導者であったが、対照的な育ち方と思想の違いがあり、その運動も接点はなかった。キング牧師は黒人でも中産階級のキリスト教の牧師の家に生まれ、大学神学部を優秀な成績で卒業、恵まれた環境にあった。マルコムXは、父は教会付の牧師ではなく、仕事の片手間に説教をする説教師だった。しかも父は白人に殺されたが、警察は鉄道自殺と判定して事件とされず、保険金も下りなかったため、母は子沢山の中で生活苦から発狂してしまうという悲惨な境遇に置かれ、家庭は崩壊した。義妹に育てられ、さらに保護司に預けられるという少年時代のマルコムは中学校が終わると学校には行けなかった。主流と傍流 1950年代の後半から、キング牧師は青年牧師として公民権運動にかかわり、その指導者となって活躍、マルコムXは獄中でイスラーム教徒となり、出所後はネイション・オブ・イスラムの導師として活動する。二人に接近する機会はなかった。公民権運動はキリスト教の愛の精神に支えられた非暴力主義をかかげ、さまざまな妨害や弾圧を受けながらも白人の中にも支持を拡げ、1963年8月にワシントン大行進を成功させ、ケネディ・ジョンソンという民主党政権を動かし、公民権法を成立させた。黒人運動の主流はまちがいなくキング牧師側にあり、マルコムXらの運動は一部の特異な過激グループとみられていた。
非暴力主義をめぐって マルコムXは公民権の実現は黒人が白人の作った法律に守られることになっただけで、本当の解放にならないとキング牧師を批判した。マルコムに言わせれば、キング牧師は白人のご機嫌を取る「アンクル=トム」にすぎなかった。またその非暴力主義は、白人の暴力的な黒人排撃に立ちむかうことが出来ない、として必要であれば暴力も辞さないと主張した。但し、マルコムXは警察の暴力に対して集団で抗議したことはあったが、実際に暴力をふるったことはなかった。逆に、マルコムは口だけで、暴力をふるう勇気はないのだ、と批判する者もいた。一方で公民権法が成立したにもかかわらず、黒人差別の現実が解消されなかったことで、キング牧師の非暴力主義に限界を感じる若い黒人も増えていた。
統合か分離か キング牧師とマルコムXの考え方でもっとも違っているのは次のような点であった。キング牧師は黒人の公民権を認めさせることで白人と同等となり、黒人と白人の「統合(インテグレーション)」を実現することを目指し、そのためには「分離(セパレーション)」を否定した。それに対してマルコムXは、黒人は白人とは異なる主権をもつべきであり、そのためにはむしろ黒人と白人は「分離」すべきであり、「統合」には反対した。なお、対等な「分離」ではなく、黒人の権利を奪い白人社会の中で「隔離」(セグリゲーション)することには強く反発した。マルコムXだけでなくネーション・オブ・イスラームも「分離」を主張していた。判りづらいが「分離」の考えでは例えば白人と黒人の学校を別にすることは、黒人独自の教育ができるのだからかまわない、という発想になる。またマルコムXに言わせれば、白人と同じ席でコーヒーにミルクを入れて飲むようなことはしたくない、ということになる。突き詰めれば、アメリカの国土の中に黒人の国を作ろう、という主張となる。となると、白人の分離主義者も同じ考えになるので、KKKの中にはネーション・オブ・イスラームを容認しようという意見もあったという。
メッカ巡礼後 以上のようなマルコムXの思想は、1964年にメッカ巡礼を果たしてから、大きく変わってきたと考えられる。まず白人を悪魔と呼んで敵視していたことから抜けだし、イスラーム信仰の上での人種を越えた平等思想をもつようになったことと、人種差別問題を国際的な視野で捉え、アパルトヘイトやアフリカ、アジアでの民族差別の廃絶を、国連の場で訴えようと考えた。差別問題の本質は人種対立ではなく、社会的な経済格差や資本主義の搾取の仕組みあるのではないかと考え、社会主義への関心も持つようになったと思われる。
二人の邂逅 マルコムがメッカ巡礼に出発する前の1964年3月、公民権法案審議中の議会構内で、偶然キング牧師と遭遇して二人はことばをかわした。そのころから、マルコムは白人敵視や暴力主義では運動は進まないと気づきはじめており、キング牧師は公民権を実現しても黒人の雇用や住居での差別が続けば問題は解決しないのではないか、と考えていた。この時両者は言葉を交わしただけで終わったが、家族によって伝えられた両者の断片的な言葉のなかに、その頃から互いに相手を認めるようになったらしい。
しかし、マルコムXは1965年2月、キング牧師は1968年4月、ともに39歳という若さで凶弾に倒れ、二人が議論を戦わす機会は永遠に失われた。銃撃されるという、アメリカの病根が顕わになったように倒れたわけだが、もしこの事態がなかったなら、二人の議論が咬み合って黒人解放、差別問題の解消が別な方向に向かい、現在に続く混迷を避けることができたかも知れない、という想像をめぐらしたくなる。
NewS マルコムX殺害犯の有罪取消
2021年2月22日のBBCニュースによれば、マルコムXの娘たちが、1965年の父マルコムX暗殺事件について再捜査を求めたという。暗殺犯2人はその場で捕らえられ、対立していたネイション・オブ・イスラムの団員とされ、彼らだけの単独犯として有罪となって入獄している。ところが、マルコムXの娘たちは、ニューヨーク市警と米連邦捜査局(FBI)が共謀して殺害したとする新たな証拠が浮上し、2人は真犯人ではないと主張し、再調査を要求したのだ。BBCニュース 2021/2/22さらに同年11月18日のBBCニュースによると、マルコムX殺害犯人として服役していた2人(うち一人はすでに死亡)の有罪が取り消されたという。裁判所は2人を無罪とする新たな証拠が見つかったとして「重大な誤審」によって2人が失った55年間の年月が取り戻すことが出来ないことを「遺憾に思う」と述べたという。2人が犯人でないことを裁判所が認めたことで、マルコムXの娘たちが言うような警察やFBIの関与があったのかどうか、が問われることになる。BBCニュース 2021/11/18