黒人差別
アメリカでは1863年の奴隷解放宣言以後も、主として南部で黒人に対するさまざまな差別が続いた。黒人の中からも差別反対の運動が起こり、戦後の1950~60年代には公民権運動が盛んになった。
注意 黒人ということば
世界史の教科書でも、新聞やテレビなどでも、また私たちの日常生活でも日本では「黒人」と言う言葉が一般化しているが、現代に至るアメリカの歴史では、この言葉には十分な注意を払う必要がある。日本語では黒人という言い方があまり問題にならないが、英語でアフリカ系の先祖を持つアメリカ人をしめすことばにはいくつもあって、全く異なるニュアンスの違いが大きく、どれを使うかでその立ち位置がわかる。私にはそのニュアンスの違いはわからないので、アメリカ人の教授の説明を引用しよう。(引用)19世紀から20世紀の変わり目には、「ニグロ(Negro)」という言葉は良い印象を持つ言葉であった。一方、白人が使う「二グラ(Nigra)」、特に「二ガー(Nigger)」という言葉は究極の侮辱であると考えられていた。そのような言葉に言及するときには、実際にその言葉を使わずに、「例の n ワード」と言っていた。「二ガー」という言葉は、今日においても、受け入れがたいものであることは言うまでもない。
わたしが1950年代に南部で育ったときは、「ブラック(Black)」は侮辱的であり、「ニグロ」「カラード・ピープル(Colored People)」という言い方が好ましいと教えられた。公民権運動の広がりとともに、1960年代のごく短い期間、「アフロ・アメリカン(Afro-American)」という言い方がはやったが、いつの間にか消え、「ブラック」のほうが好まれるようになった。最近では、その言い方よりも、「アフリカ系アメリカ人(African American)」のほうが適切な用語になってきている。<ジェームズ・M・バーダマン/水谷八也訳『黒人差別とアメリカの公民権運動』2007 集英社新書 p.16>
奴隷制度の廃止後も黒人差別は続いた
黒人奴隷制度の廃止は黒人差別が無くなることを意味してはいなかった。奴隷制度は否定され、黒人は人格と自由を勝ち取ったものの、経済的な自立ができる状態ではなく、貧困が続いた。それは白人との真の平等への障害となっていた。また、南北戦争の戦後、アメリカ合衆国への南部諸州が復帰する過程で南部の民主党は黒人差別撤廃への抵抗を続けていた。なぜ黒人差別は合法化されたか 1876年の大統領選挙で両党候補が拮抗してもつれ、議会に裁定が持ち込まれたとき、共和党と民主党は取引を行い、共和党ヘイズを大統領とする代わりに南部諸州に駐屯する連邦軍を撤退させる(つまり連邦軍による南部への圧力を無くす)ことで妥協が成立、1877年4月10日に南部の連邦軍すべてが撤退した。この1877年の妥協によって南部の再建期が終わり、南部の民主党が復権するとともに黒人に対する露骨な差別感情が復活、州議会で州法という形でさまざまな黒人差別が合法化されていった。このようにして「奴隷解放宣言」後においても、アメリカ合衆国南部諸州においては、19世紀末から20世紀前半に黒人差別は合法的に生き残ることになり、それらの黒人差別法の総体はジム=クロウ、またはジム=クロウ法といわれるようになった。北部ではこのような黒人差別の合法化は行われなかったが、工業化が進む中で黒人が安価な労働力として北部に移住して、大都市での黒人人口比が高まるにつれて、差別的感情が強まり、劇場やホテルなどでは黒人が隔離されることが社会通念化していった。
巧妙な選挙権の剥奪
まず、黒人投票権の剥奪は、1890年から20世紀初頭にかけて、ミシシッピ州に始まり、南部諸州に広まった。そのやりかたは、憲法修正第15条に抵触しないように、州憲法の中に「人頭税」や「読み書き試験」を取り入れることによって行なわれた。すなわち、有権者登録をする者は誰でも選挙係官に人頭税納入の受取りを見せ、また指示された州憲法や州法などの一節を読解しなければならなかった。これは「ミシシッピ・プラン」と呼ばれるものであるが、その他の南部諸州も、これに類似した方法で黒人選挙権の剥奪を行なった。人頭税や読み書き試験は黒人だけを対象にしたものではないが、当時の黒人の状態を考えれば、それが巧妙な黒人選挙権の剥奪方法であることはすぐわかる。「隔離はしても平等」なら差別でない?
さらに南部諸州の州法や市条例は、学校や公園、食堂、交通機関など公共の場所で白人と黒人を分離する黒人分離政策をとるようになった。これらの分離は黒人の人権、市民権、選挙権を認めている憲法(とその修正条項)に違反するのではないか、という裁判が行われた。しかし、南北戦争後の黒人解放で黒人が様々な分野に進出したことに強く反発した白人社会で、人種差別意識がかえって強まったことを背景に、反動的に差別主義が強まっていった。プレッシー判決 1896年5月18日にアメリカ最高裁判所は、ルイジアナ州の列車内の黒人隔離に関する裁判(プレッシー対ファーガソン裁判)の判決で「隔離はしても平等」なら差別ではないとする判断を下した。この違憲立法審査権を持つ最高裁の判断が出たことによって、南部諸州の人種差別立法は合憲であることが確定し、その後、半世紀にわたって、アメリカの黒人差別を支える法的原理となったのだった。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』1991 岩波新書 p.144、p.168>
ニューオリンズのホーマー・A・プレッシーは8分の1の黒人の血を受けつぐだけで外見はほとんど白人と変わらなかったが、黒人と見なされていた。かれはクレオール(混血)社会でも成功し、一定の地位も得ていた。しかし1892年6月、ルイジアナ州南部で列車に乗り、白人専用車の座席に座ったところ、車掌から黒人用車両に移るよう命じられ、従わなかったために逮捕されてしまった。ルイジアナ州では1890年に鉄道車両における白人と黒人の座席を分離し、違反した乗客を追い出すことが出来るという州法が成立していたのだ。プレッシーと弁護士は州法は憲法修正第14条(市民権を全てのアメリカ人に付与)などに違反する、として提訴した。しかし、プレッシーの果敢な挑戦に対する最高裁の判決は、意外なものだった。1896年5月18日の判決は、憲法修正第14条は黒人の人権全般を認めてはいるが、具体的にどのような権利を保障しているかについては明確に示していないから、州法で列車内の座席を分離することは違憲ではない、分離されていてもそれぞれの席で平等に扱われるのであれば、差別ではないから修正第14条違反には当たらない、というものだった。<バーダマン/水谷八也訳『前掲書』 p.20-22>
「プレッシー判決」は修正14条を骨抜きにするものであったが、それを機に列車座席だけでなくバス、公園、病院などの公共施設、そして学校教育においても「分離」を合法化し、実質的に「隔離」となり、「隔離はしても平等」なら許されるという社会通念となった。社会通念は北部にも浸透し、州法がなくとも一流ホテルや劇場などでそのような措置がとられた。その社会通念は、半世紀以上もアメリカに根付き、ようやく1954年の連邦最高裁のブラウン判決で否定されたことをきっかけに、公民権運動で強く異議が唱えられるようになる。
黒人に対するリンチ
一方で黒人に対する凄惨なリンチが行われるようになった。これら一連の黒人差別に根拠をあたえる法律は黒人取締法であり、それによって黒人分離策がすすめられ、またKKKなどの人種主義(レイシズム)信奉者による公然としたリンチなどの虐待が行われた。黒人に対するエチケットの強要は、分離のルールを破らないことだけでなく、特に黒人男性の白人女性に対する態度が問題とされ、じろじろ見たとか、卑猥な言葉をかけたということが理由で黒人はたびたびリンチされた。リンチはKKKなどによって祝祭的に行われ、時には見物人さえ集めて行われ、多くの場合、警察は見て見ぬふりをするか、時にはリンチに加勢した。だからリンチが犯罪として摘発されることは少なく、悪質だとして訴えられて裁判になっても、陪審員裁判の陪審員は全て白人だったから、有罪にされることは無かった。このような暴力は多くの黒人を萎縮させ、差別に対する異議申し立ては行われず、現実が受け入れられていった。
デュボイスらの闘い
1909年5月にはデュボイスら黒人指導者は、全国黒人向上協会(NAAPC)を結成して、裁判闘争でリンチと闘い、またその不当性を全米に訴えるようになった。しだいにリンチの残虐性や不当性が広く認識されるようになったが、南部では第二次世界大戦後も跡を絶たなかった。アメリカの工業化が進んだ第一次世界大戦の時期になると、南部の多くの黒人が、北部の工業都市に大量に移住するようになった。北部では南部のようなあからさまな差別はなかったものの、多くの黒人は貧困と不健康な都市下層民として暮らすこととなったため、白人との貧富の差がさらに激しくなり、そのために北部ではたびたび都市における人種衝突が起こるようになった。それは白人と黒人の双方に、相手への恐怖心と敵愾心が煽られることになった。<上杉忍『アメリカ黒人の歴史』2013 中公新書 p.75-76>
ジャズの誕生
黒人奴隷がアフリカから持ち込んだリズムをもとに、労働歌や冠婚葬祭音楽として始まったジャズは、南部のニューオリンズなどでラグタイム(ピアノなどの楽器を使った演奏)に発展し、1910年代にスタイルを発展させ、1920年代にはニューヨークやシカゴの白人のジャズ・クラブでも演奏されるようになって、ジャズエイジといわれる大流行となった。そのころからデューク・エリントンやルイ・アームストロングらがスターとなって活躍し、エンターティメントであるとともに音楽のジャンルとして注目されるようになった、ガーシュインなどの白人音楽家にも強い影響を与えた。ジャズは黒人の自己表現でもあり、脚光を浴びると同時にきびしい差別にさらされており、それが音楽の根源にあるエネルギーになっていた。戦前から戦後にかけて歌姫として人気があったビリー・ホリディもそのようなジャズミュージシャンの一人だった。Episode 「奇妙な果実」
エピソードとしては深刻な話だが、当時の黒人へのリンチでは、殺された黒人の死体が木につり下げられ、奇妙な果実(strange fruit)と言われた。「‥‥信じられないことだが、黒人に対するリンチがあらかじめ予告され、女性や子供まで見て楽しむために集まり、木に吊された「奇妙な果実」から心臓や肝臓の薄切りをみやげに持ち帰ったという。」<猿谷要『物語アメリカ史』p.116-118 1999>ジャズ歌手のビリー・ホリディが1939年に歌った「奇妙な果実」は、その情景を抑制のきいた声で淡々と歌っている(CD『奇妙な果実』-ビリー・ホリディの伝説-で聞くことができる)。彼女の感動的な自伝も『奇妙な果実』というタイトルだった。
→ ビリー・ホリディ“奇妙な果実”(ユーチューブより)
労働組合運動との結びつき
1920年代のアメリカ合衆国の戦間期は経済の繁栄、工業化が進み、多くの黒人が南部から北部の工業都市に移住した。かれらは非熟練労働者として働きながら差別と低賃金で苦しんだ。当時の労働組合の全国組織であるアメリカ労働総同盟(AFL)は熟練工の利益を守る組織だったので、黒人労働者は加入することができず、無権利状態が続いた。1929年に始まる世界恐慌が深刻になる中で、民主党フランクリン=ローズヴェルト大統領が1933年からニューディール政策を開始、労働者保護政策を打ち出したことから、黒人労働者の労働組合加入が急増し、彼ら非熟練労働者の受け皿として産業別組織会議(CIO)が組織されると、黒人差別に苦しむ黒人も加わり、第二次世界大戦後は労働組合が人種差別反対運動を支えることとなっていく。またCIOにはアメリカ共産党の影響力も強く、その戦闘的反人種主義は黒人労働者を惹きつけるようになっていった。<上杉忍『上掲書』 p.89>第二次世界大戦前後の変化
ジムクロウ法による人種分離はなおも強固だったが、1940年代から少しずつ変化が起こった。1947年、野球ではジャッキー・ロビンソンが大リーグで初の黒人選手となって活躍し、まずスポーツの世界で変化の兆しが起こった。トルーマン大統領は1948年に議会の承認を得ずにアメリカ軍内での差別を禁止する大統領命令に署名した。その背景には、冷戦が深刻になり、国内ではマッカーシズム(赤狩り)の旋風が吹き荒れる中、政権が共産主義と黒人運動が結びつくことを恐れたことが考えられる。人種差別反対運動の始まり
第二次世界大戦後の1950年代から60年代に黒人公民権運動が始まった。それは黒人が1863年の奴隷解放宣言から1世紀近くなっても、憲法上で保障されたアメリカ市民としての諸権利を制限され、特に南部では州法や市条例によって黒人分離が徹底されていたこることに強く異議を申し立て、市民としての権利、つまり公民権を認めよ、という運動となって現れた。ブラウン判決 ジム・クロウ法ともいわれた黒人差別に対する異議申し立ての最初の一石は8歳の女の子によって投じられた。1951年、カンザス州の黒人溶接工オリヴァー=ブラウンは、8歳になった娘のリンダ=ブラウンを約8キロ離れた黒人用の小学校から、家のすぐ近くのサムナー小学校に編入させようと申し入れた。ところが教育委員会の回答は肌の色が違うことを理由にしたノーだった。ブラウンは原告となって教育委員会の判断は合衆国憲法と憲法修正第14条に違反するとして訴訟を起こした。これはまさに1896年に連邦最高裁のプラッシー判決で出された「分離(隔離)すれども平等」という歴史的判断を約半世紀ぶりに糺す裁判となった。カンザス州は南部ではなかったにもかかわらず、このような分離が通念化していた。このブラウン裁判と同様な裁判は南部でも数件起こされた。
「ブラウン対教育委員会裁判」とわれた訴訟は最高裁まで持ち込まれ1953年12月から審理が始まった。かなり早い段階から裁判官の多くがブラウンを支持するようになっていたが、最高裁判所長官のアール=ウォーレンはこれが正しい判決であると国民が納得するためには、全員一致の判決にならなければならないと考え、「権利」の部分と「保障(救済策)」の部分を分け、権利の部分に関して全員一致に達し、1954年5月17日に判決を下した。それは公共の教育機関において「分離すれども平等」という原則には根拠がない、という結論を下し、人種分離政策に基づく教育施設は根本的に不平等であると判断したものであり、一般に公民権運動が始まった年を1954年とするのは、このブラウン判決が出されたことが重要だからである。
しかし、実際の学校における人種分離をどのように廃止するかが課題として残ったので、続いて1955年、ブラウンⅡ判決とも言われる関連の判決を出し、最高裁は「十分慎重に、かつ速やかに」人種統合を実施るよう地方裁判所に命じた。南部の人種差別主義者は、この「十分慎重に」という言葉を根拠に、差別政策を次々と先送りしていった。
バスボイコットとキング牧師 1953年にはルイジアナ州バトンルージュで、続いて1955年12月6日にはアラバマ州モントゴメリーでいずれも黒人のバス・ボイコット運動が起こった。白人専用座席に着席した黒人女性が座席移動を拒否して逮捕されたことから、黒人が抗議のためバス乗車を拒否したものである。モントゴメリー(南北戦争の時、南部のアメリカ連合国の最初の首都とされたところだった)のバスボイコットでは弱冠26歳のマーティン=ルーサー=キング牧師が指導者となり、非暴力抵抗運動を展開した。最高裁は56年、バスの人種隔離は違憲であるとの判断を示し、運動の第一歩を記した。
リトルロック事件 1957年9月24日にはアーカンソー州リトルロックで黒人生徒の公立高校入学を州知事が拒否して州兵を動員してその登校を阻止するというリトルロック事件が起きた。アイゼンハウアー大統領は連邦軍を動員、連邦軍に守られて黒人生徒が登校するという事態となった。各地で同様な事件が起こり、また白人側のこの運動に対する反発も強まり、リンチ事件が多発した。 → 詳しくは公民権運動の項を参照
参考 リトルロックで何があったか
1954年5月20日、ブラウン判決が出たわずか1週間後に、リトルロックの教育委員会は南部の都市ではじめて、最高裁判決に従い、学校における差別撤廃を段階的に行い、1963年までに人種統合を実現すると声明を発表した。差別撤廃は教師や生徒の数が少ない学校からはじめ、1957年9月、最初の黒人生徒が白人だけのセントラル高校に入学することになった。しかしこの入学をめぐって、予想もしなかった大きな闘いが始まった。9月4日、9人の黒人生徒は集団で登校することになっていたが、連絡の手違いで女の子のエリザベス=エックフォードは一人で登校することになった。彼女の背後から大勢の白人(その中には同年代の女の子もいた)が口々に「二ガーは自分の学校へ行け!」「二ガーはアフリカに帰れ!」と叫びながら追いかけてきた。エリザベスが怒号に耐えながら学校に近づくと、そこには州兵がいて、白人を学校に入れた。エリザベスが入ろうとすると州兵は銃剣をかまえ、彼女をにらみつけた。大群衆が近づき、「リンチだ、リンチにしろ!」と叫ぶのが聞こえてきた。恐ろしくなった彼女は学校にはいるのをあきらめ、近くのバス停のベンチに座り込んだところを一人の黒人女性が助け出して彼女の母親の元に送っていった。結局、黒人の生徒はこの日、一人もセントラル高校に入ることは許されなかった。アーカンソー州のフォーバス知事は、黒人生徒がセントラル高校に入って人種統合が行われれば「町に血が流されるだろう」と予告し、州兵を動員する口実にした。アイゼンハウアー大統領は直接フォーバス知事を呼び出し、州兵の動員を止めさせた。9月23日、再び9人の生徒が登校しようとすると、警察がその護衛に当たったが、集まった群衆を解散させようともせず、9人がようやく学校内に入ると、なかでは白人生徒が騒ぎ出した。校長は9人を校長室に保護したが、安全は保障できないという理由で家に帰るよう命じた。
この一連の出来事がテレビでアメリカ中に知れわたると、アイゼンハウアー大統領は、州権を盾に合衆国憲法に従わない知事をこれ以上放置できないとして、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で勇名を馳せた第101空挺部隊など1000人を動員してリトルロックに派遣した。これは南北戦争と再建期以来の「連邦」軍の南部への配備であった。
翌9月24日、登校した9人の黒人生徒は、戦闘服と機関銃で武装する連邦軍が包囲するセントラル高校に、ひとりずつ護衛付きで学校に入った。こうしてセントラル高校での「人種統合」が始まった。白人生徒の中には新しい生徒を歓迎する者もいた。しかし、9月30日に第101空挺部隊が引き上げ、連邦政府の指揮下に入った州兵が代わって任務についたとたん、多くの差別主義の生徒が学校に戻り、前にも増して黒人生徒に対する嫌がらせがはじまった。
(引用)9人の黒人生徒の家には、硫酸入りの水鉄砲で子供たちを撃つぞと、脅迫の匿名電話がかかってきた。学校に行けば、彼らはその年の終わりまで毎日「二、四、六、八、人種統合、まっぴらだ!」という歌で迎えられた。学校では、つばを吐きかけられたり、悪口を言われたり、物を投げつけられたり、足を引っ掛けられたり、時には蹴られることもあった。彼らの椅子にはピーナッツバターが塗られていたり、鋲がおかれていることもあった。また彼らの服には、それが新品のときでさえ、インクが投げつけられることがあった。ロッカーはかき回され、本は読めなくされた。その年に報告された嫌がらせは全部で42件だったが、報告されていないものを含めれば、どれほどの嫌がらせがあったか、正確なところはわからない。<ジェームズ・M・バーダマン/水谷八也訳『黒人差別とアメリカの公民権運動』2007 集英社新書 p.114-115>9人の黒人生徒は感情を抑え、仕返しをすることは避けた。しかし、ひとりだけミニージーン=ブラウンは、カフェテリアのランチの列で白人生徒からお決まりの名前で呼ばれ、つい持っていたチリの入った皿をその生徒の頭にぶちまけてしまった。そのため彼女は停学になり、復学したときに白人女生徒から「二ガーの雌犬」と呼ばれ「白いクズ」とやり返したため、退学になってしまった。その他の8人は、嫌がらせに耐えながら、学校を続け、1958年5月、セントラル高校を卒業した最初の黒人生徒となった。卒業式では白人生にはひとりずづ拍手が起こったが、黒人の名前が呼ばれたとき誰も拍手をする者はいなかった。
重要なことはリトルロックの彼らが、他の全ての黒人のために「壁を壊した」ことだった。しかし、闘いがこれで終わったわけではなかった。州知事に再選されたウォーレスは巧妙な戦術を考え出した。連邦政府は公立学校に助成金を出す条件として人種統合を実施することを求めていたが、ウォーレスは何とリトルロックの全ての公立高校をセントラル高校も含めて閉鎖してしまったのだ。1958年から59年は白人生徒も学校に行けなかったが、急いで作られた私立学校に通えるようになった。しかし私立学校であるから助成金を受け取らなくとも良く、白人専用の学校が出来た。当然黒人は入学できなかったが、そのような「白人専用の避難学校」は急場しのぎの学校で、教育の質など考えられてはいなかった。この事態に連邦裁判所がのりだし、リトルロックの公立高校閉鎖は憲法違反であるとの裁定を下した。そのため翌1959年8月に高校が再開され、ようやく人種統合が実行に移された。こうして少なくとも南部の一都市において、人種統合は単なる法律上の原則ではなく、やっと現実に存在することになったのである。<以上、バーダマン『前掲書』p.94-115 によって構成>
リトルロックの出来事をいささかくわしく説明したが、それは、この20世紀の中ごろのアメリカ合衆国での出来事を、抽象的な「公民権運動」とだけ捉えたり、キング牧師の英雄的な指導に感激したり、だけに終わってしまってはいけないと思うからである。リトルロック・セントラル高校の白人と黒人の高校生たちが、人種統合に直面したとき、どんなことがあったのか、それは、現代の日本の民族差別に基づくヘイトクライムの問題と同質に思える。なお詳しくは、参考図書の本田・上杉・バーダマンなどの著作を読んでほしい。 → YouTube 映像で見るリトルロック事件
公民権運動の高揚
キング牧師の指導したこの時期の公民権運動は、キリスト教の人道主義から黒人への差別の不当を広く訴え、ガンディーの非暴力主義の手段をとったことで、広い共感を呼び起こした。それはアメリカに広く根付いていた「隔離すれども平等」といった意識からくる公共の場での白人と黒人の分離や、南部での選挙権登録の際の読み書きテストなどによる実質的な権利の剥奪に対して、黒人が非暴力でその不当性を訴えることによって多くの白人にも受け入れられるようになった。1960年の選挙で北部黒人票の支持もあって大統領に当選した民主党のケネディ大統領は、これらの黒人差別問題の解決を目指した。その背景には、冷戦で社会主義陣営と対立しているアメリカとしては、アフリカの年と言われるアフリカの黒人国家の独立が続くなか、黒人差別を続けることは国際世論の支持を失うことになることを恐れた側面もあった。1963年8月には、キング牧師の指導するワシントン大行進が成功を納め、公民権運動は最高潮に達した。
公民権法の制定
ケネディ大統領は1963年に暗殺されたが、その遺志は継承され、ジョンソン大統領のときに議会で公民権法が成立し、1964年7月2日に発効した。これによって黒人に対する不平等な読み書きテストなどは基本的に解消され、さらに翌1965年8月6日の投票権法で州法などが黒人の投票権登録を妨害することは不当な差別に当たるとして禁止され、ここにようやく黒人に対する政治的な人権上の差別は解消された。残る社会的、あるいは経済的な黒人に対する不利なルールも撤廃されると共に、黒人の社会的進出を図るための様々な優遇措置であるアファーマティヴ・アクションなども実施されるようになった。しかし、公民権法は成立したものの、1960年代後半以降、特に都市における黒人の貧困の問題は解決されず、従来の非暴力による運動に飽き足らないものを感じる黒人も増えていった。同時に暴力的な活動で抗議を繰り返すブラックパワーが出現し、それに対して公権力が鎮圧に当たるなど、人種差別問題はアメリカ合衆国の深刻な課題となっている。
ベトナム戦争と公民権運動
アメリカ合衆国は、1964年8月2日のトンキン湾事件を口実に最初の爆撃を加え、1965年2月7日に本格的な北爆を開始し、陸上部隊も派遣、全面的なベトナム戦争に突入した。ベトナム戦争は黒人運動に深刻な影響を与え、戦争に協力して黒人の地位向上の機会にしようとする考えと、戦争に反対する考えが運動内で対立することとなった。公民権運動の指導者の多くは黒人の要求を実現するには政府の協力が不可欠と考えていたのでベトナム戦争に対しても賛成したが、キング牧師は非暴力主義に立ち戦争そのものに反対する立場に立ったため孤立した。ベトナム戦争が進むに従って戦争の大義への疑問は強まり、キング牧師はつねに非暴力を掲げて運動してきた自分が、人命を奪う戦争を肯定することはできない、と決意し、ベトナム戦争反対を表明した。ベトナム戦争による戦費の増加が社会政策費を圧迫し、黒人の貧困の解決がさらに遠のくことになることも反対理由に挙げられた。キング牧師暗殺
ベトナム戦争反対を掲げたキング牧師に対し、民主党政権は危険人物視するようになり、民主党とつながる黒人活動家もキングを批判したが、1968年にベトナム解放戦線が反撃に移り、アメリカの敗北がささやかれるようになると、ベトナム反戦運動がさらに活発となり、黒人運動も反戦に傾いていった。そのような中、1968年4月4日、キング牧師が暗殺され、黒人運動は大きな曲がり角に直面することとなった。ブラックパワーとその衰退
その後黒人運動の主流であったキング牧師らの非暴力主義による公民権運動は、1965年にピークを迎えていたが、その運動に飽き足らず、白人の暴力的な差別に対しては暴力で立ちむかうほかはないとするマルコムXらの思想も台頭していた。マルコムXがブラック・ムスリムの内部対立によって暗殺された後は、その影響を受けたストークリー=カーマイケルらは1966年頃からその運動を「ブラック・パワー」と名づけ、キングらとの運動に一線を画すようになった。1968年のキング牧師の暗殺でブラック・パワー論者は非暴力運動の限界を強く感じ、中には黒人が武装して社会変革に立ち上がることを呼びかける「ブラックパンサー党」が組織された。これに対して政府はFBIを先頭に取り締まりにあたり、緊迫した状況となった。しかし、この運動は黒人大衆だけでなく、白人の世論を味方につけることもできず、次第に衰退していった。
その後、アメリカの大都市では、組織的な運動ではなく、突発的な警官の暴力などをきっかけにして、黒人暴動がくりかえし起こっている。その一方で、黒人の中に暴力ではなく、公民権運動によって獲得した投票権を有効に利用しようという意識が強まり、徐々に黒人投票率が高まっていって、地方自治体でも黒人が市長やその他の役職に選出されることが多くなっていった。黒人の政治的地位は明らかに高まったが、都市の黒人ゲットーでの貧困はなおも続く、という困難な時代が続き、黒人差別も複雑な様相を持つようになった。
白人の反撃と保守化の進行
1970~80年代には、白人の中に、一つはブラック・パワーなどの黒人運動の過激化に対する恐怖心、選挙権を得た黒人が公的地位につき始め、連邦政治も動かす力になったこと、もう一つには民主党政権によって進められた公民権運動のなかのアファーマティヴ・アクション(黒人に対する優遇政策)で、例えば大学進学で黒人が優遇されていること等への反発が強まったこと、そして何よりもベトナム戦争後のアメリカ経済の落ち込みによって、大国の地位が失われたことへの失望感などが複合されて、再び黒人を標的として差別するという傾向が出てきた。それは、黒人だけでなく、中南米からの移民などに対しても向けられ、社会における弱者を攻撃対象にする風潮が強くなっていった。そのような風潮に敏感な共和党は、「強いアメリカ」の復活を掲げ、経済政策では社会保障などを切り捨てる新自由主義を掲げ「小さな政府」を標榜して政権についた。カーター、クリントン、オバマという民主党政権と、レーガン、ブッシュ親子、トランプという共和党政権が交互に登場したのが、20世紀末から21世紀初頭のアメリカだった。公民権法成立で始まったアファーマティヴ・アクション(積極的優遇措置)も定着し、大学入試では黒人受験生を優遇する措置がとられてきたが、21世紀の保守化が目立つようになってから、それが人間の平等に反しているから違憲であるという主張がなされるようになり、いくつかの州で廃止にされる動きとなった。2023年6月にはアメリカ最高裁判所(連邦裁判所)がハーヴァード大学とノースカロライナ大学に対して黒人優遇の入試は憲法違反であるという判決を出した。最高裁は保守派が優勢な構成になっており、予想された判決であったが、真の平等と多様性の尊重を求める声が少数派になった事実は、深刻に受け止められている。
BLM運動
2020年5月、ミネアポリスで白人警官による暴行で黒人が殺害される事件が起き、それをきっかけに各地で黒人の抗議行動、歴史的記念物の破壊などがひろがった。黒人の中からは、”Black Lives Matter”の声が起こり、それが運動の標語になった。この運動は幅広く人種差別反対の動きを強め、11月の大統領選挙で人種間の融和、差別反対を掲げた共和党バイデンが、現職のトランプ大統領に勝った背景となった。
NewS ミネアポリス事件
2020年5月25日、北部のミネソタ州ミネアポリスで、白人警察官が麻薬使用容疑者の黒人を拘束、膝で容疑者の首を押さえつけるという過剰な制御を行ったため、容疑者が死亡するという事件が起こった。アメリカ中で黒人にたいする人種差別によるものだ、という抗議デモが一部で暴徒化した。トランプ大統領は一時アメリカ軍の出動も示唆したため、かえって抗議行動は激化し、大問題に発展した。NewS 人種差別の歴史を告発
抗議行動は世界各地に広がり、イギリスのブリストルでは黒人奴隷貿易で富を築いた奴隷商人の銅像が引き倒された。そのさなか、アメリカではバージニア州のノーサム州知事が4日、「いまや人身売買を肯定するようなことはできない」として、州都リッチモンド(南北戦争で南部=アメリカ連合国の首都だった)にある南北戦争の南軍司令官だったリー将軍銅像を撤去すると表明した。市民団体が長年、銅像は奴隷制や黒人差別の象徴だとして撤去を求めていた。一方で保守団体は「文化遺産の破壊だ」として反発している。<朝日新聞 2020/6/8 夕刊>
銅像引き倒しの連鎖
6月~7月、アメリカとヨーロッパで、黒人差別の歴史に対する見直しの動きは、黒人奴隷制度と植民地支配に対する告発に及んだ。各地で、黒人奴隷貿易や植民地獲得での“功績”を讃えられて建造された記念碑や銅像が次々と引き倒されたり、破壊されている。アメリカでは南部のリッチモンドでのリー将軍像に続いて、南部のアメリカ連合国大統領ジェファソン=デヴィス像も標的とされた。南部旗の掲揚も禁止され始めているようだ。さらに、インディアン強制移住を実行したジャクソンも批判の対象に晒されている。意外な感じがしないでもないが、第一次世界大戦時のウィルソン大統領も人種差別主義者として糾弾された。その行き着くところは、アメリカ新大陸の発見者コロンブスのインディオに対する征服から諸悪が始まった、という認識になり、アメリカ各地のコロンブス像はいま逆風に晒されている。
アメリカ独立運動での銅像引き倒し事件 トランプ大統領は、これらの“偉人”像にたいする破壊行為は文明と歴史の否定であるとして厳しく取り締まる、と表明している。銅像引き倒しは歴史の否定だといって怒っているわけだが、実はアメリカが独立するときには植民地人も、イギリスの植民地支配に対して同じような抗議行動をしている。1765年、イギリスが印紙法を定めたことに抗議した植民地人の独立急進派は「自由の息子たち」という団体を作って抗議行動を展開したが、ニューヨークでは彼らはイギリス国王ジョージ3世の銅像を引き倒している。
歴史は繰り返すというわけだが、ほかにもついこの前、ソ連が崩壊したときのスターリンやレーニン、チャウシェスクやイラクのフセインなどの独裁者の銅像が倒されたことなどたくさんある。如何に独立の英雄や革命の指導者であったり、軍人や政治家として功績があったとしても、顕彰すると称してバカでかい銅像を作るなんていうことは愚行であることがよくわかります。
植民地支配への抗議
黒人差別反対の声から始まった歴史を遡って黒人奴隷制を推進した人物や、それに関わった“指導者”・“偉人”の罪を追及する動きはヨーロッパにも飛び火した。イギリスではリヴァプールやブリストルで奴隷貿易に活躍した商人像が引き倒され、チャーチルも人種差別主義者として銅像に落書きされ、オックスフォード大学では構内のセシル=ローズ像が引き倒された。ベルギーではレオポルド2世はコンゴ自由国で非人道的な黒人に対する搾取を行ったことで銅像がペンキで汚された。National Geographic Gallerey 世界で相次ぐ「英雄」の銅像撤去
BBCNEWS Japan 2020/6/12記事
Black Lives Matter 運動
アメリカでは2013年ごろから、白人警官によるアフリカ系アメリカ人(黒人)に対する、暴力的な行為が度々起こっていた。そのような無抵抗の黒人に対する白人警官の過剰な暴力行為や、白人による差別的な行動、言動に対して、人種の平等をかかげ、人種主義(レイシズム)に反対する運動が、アメリカ各地の黒人コミュニティーで、自然発生的に始まっていた。その中の何人かが、運動の標語として使い始めたのが Black Lives Matter(略してBLM)ということばだった。「黒人の命は大切」という意味だが、日本でもそのままブラック・ライヴズ・マターで通っているようだ。2020年5月25日、ミネアポリスでのジョージ=フロイド事件を機に、人種差別に対する抗議活動が黒人だけではなく、世界中に拡がった。スポーツ界では、全米女子オープンテニスで大坂なおみ選手が試合ごとに殺害された黒人の名前を書いた黒いマスクをして登場し、見事に優勝したのが印象深かった。ただし、Black Lives Matter というのは、一つの組織や運動体ではなく、黒人による幅広い人種差別に対する抗議活動そのものをいう。世界中がコロナ禍で苦しむ中で、トランプ政権下のアメリカで白人優越主義や不寛容が拡がったことへの、根元的な(ラディカルな)抗議行動とみるべきであろう。
この運動が世界に拡がる中で、これまで「世界史上」の英雄あるいは偉人、重要人物とされてきた人々が、今に至る黒人差別の元凶なのではないか、という歴史の見直しが行われた。それらは記念物の破壊といういささか乱暴な方法だけが目立ったが、単に悲しむだけでなく歴史を考える良い機会となったともいえる。
IDEAS FOR Good "Black Lives Matterとは?"
TopicS 6月19日「奴隷解放の日」をアメリカの休日に
南北戦争中の1863年1月1日に、リンカン大統領によって奴隷解放宣言が出された。1965年4月に南北戦争が終わるとその2ヶ月後、北軍の将軍が南部テキサスに入り、1865年6月19日に最後の黒人奴隷を解放した。実際の奴隷解放が実現したこの日は、その後、黒人社会の中では奴隷解放の日として祝われてきた。6月19日はのは「ジューンティーンス」とよばれ、定着していたが、2021年6月、アメリカの連邦下院・上院で「奴隷解放の日」として連邦政府の法定休日とすることを賛成多数で可決し、6月19日、バイデン大統領が署名して正式に決まった。これは2020年5月のミネソタ州での白人警官による黒人殺害事件から端を発したBLM(Black Lives Matter)運動の盛り上がりをうけてのことである。 → BBC News 2021/6/18