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黒人投票権/憲法修正第15条/投票権法

南北戦争後のアメリカで、1870年、憲法修正第15条によって黒人に選挙権が与えられた。しかし実際には南部諸州では選挙権登録の際の文字テストなどで黒人が排除され、平等ではなかった。ようやく1964年の公民権法で選挙での差別は廃止され、翌1965年の投票権法で平等が実現した。

 南北戦争の結果としての黒人奴隷制の廃止を受けて、1870年3月アメリカ合衆国憲法憲法修正第15条を加えることによって黒人にも選挙権を認め、さらに黒人の公民権侵害に対する処罰法ともいうべき強制法が制定された。こうした数年間は、アメリカ黒人の歴史において画期的な一時期となった。このとき、大部分の黒人は、初めてこの国で選挙権を行使することができた。州議会に選ばれて黒人が自分の生活について自分の口でものを言ったのも、このときが初めてである。いくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒人議員によって占められた。また、州政府の各種機関に多数の黒人が進出した。そればかりか、国の政治にも直接関与し、1869年から1876年の時期に、14人の黒人下院議員と二人の黒人上院議員がワシントンの国会に送られた。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』岩波新書 p.132>
 しかし1877年までにアメリカ合衆国に南部諸州の復帰が実現し、いわゆる再建期がおわるとともに、南部においては民主党の白人の旧プランターらを中心にして巧妙な州法の制定などにより、黒人取締法(ブラックコード)が次々と制定されるようになった。奴隷解放宣言によって黒人は自由と平等を法的には認められたとはいえ、事実上の黒人差別が始まった。1880年代から19世紀末にかけてクー=クラックス=クランなどの白人至上主義者の暴力の横行を背景に、黒人分離政策として明確になっていく。その状況は20世紀の二つの大戦の時期にも変わらず、ようやく第二次世界大戦後の1950年回後半からの公民権運動で批判が強まり、奴隷解放宣言からおよそ100年後の1965年の投票権法成立によって一応の解決を見ることとなる。

憲法修正第15条とその落とし穴

 アメリカ合衆国憲法の憲法修正第15条は次の2節からなる、簡単な条文だった。
第1節
合衆国市民の投票権は、人種、体色、あるいは過去における服役の状態にもとづいて合衆国あるいは各州により拒絶あるいは制限されることはない。
第2節
連邦議会は、適当な法律規定によって本条の諸規定を施行する権限を有する。
 このように憲法修正第15条に拠って人種、肌の色で選挙権を制限してはならないとなったのだから黒人の選挙権は確実になったと思われるが、実際にはそうはならなかった。南部諸州の黒人差別主義者は、この憲法修正の不備を突いて、黒人投票権を有名無実にすることを考えた。目をつけたのが、憲法修正第15条では人種・体色で投票権を制限してはいけないと書いてあるが、財産や文字の読解力というような資格を設けることを禁止していない、ということだった。それを根拠に投票に際して必要とされる有権者登録の条件として「投票税(人頭税)」の納入や「文字テスト(Literacy Test)」を加えることを考えついた。これは黒人だけを対象としたのではないので、憲法違反にはならなかったが、多くの黒人が「貧しい者と字が書けない者」であったので、事実上、黒人の選挙権を制限することができたのだった。
 また憲法修正第15条でアメリカ合衆国市民に等しく選挙権が与えられたか、というとそうではなかった。この時の市民とは男性のみで、女性は含まれていなかった。20世紀に入り、西欧世界に広がった女性参政権運動の高まりを受けて、アメリカの女性参政権が認められるのは、1920年のことである。

投票税と文字テストによる選挙権の制限

 1877年頃に南部再建期が終わると、南部諸州では連邦政府に対する州権主義の行使を足がかりとして独自の州法を制定することなどで次々と黒人取締法(ブラックコード)を制定していった。黒人投票権の制限もその一つであり、1863年のリンカンの奴隷解放宣言が出され、黒人は自由と平等を手に入れたとは言え、アメリカ南部においては、基本的人権の一つの参政権を事実上行使できない、という政治的差別状態がうまれたと言うことを意味している。このような南部諸州の黒人差別の立法措置は1906年までに南部全州で行われた。一部の黒人は、勇気を持って投票所に赴いたが、警官や白人に妨害されたり脅迫されたりしたためできないのが実情だった。
投票税 投票に際して投票税を納めなければならないということは、南部の黒人の多くが綿花プランテーションでシェアクロッパー(分益小作人)となっており、重い負債を抱えているのが実態であったので、たとえ1ドル程度の投票税でも納めることは困難であり、投票に足が向かない要因となった。これによって南部の黒人は事実上、参政権を奪われ、政治にその声を反映させることは出来なくなった。<貴堂嘉之『南北戦争の時代』シリーズアメリカ合衆国史② 2019 岩波新書 p.182>
文字テスト アメリカの場合は、現在でも日本と異なり、役所で自動的に有権者登録され投票券が送られてくるのではなく、各人が有権者登録をする必要があった。この有権者登録しようとする者に憲法の条文などの英文書き取りテストを実施して、書けなかった者は登録できない、つまり投票できないとしたのが「文字テスト」(書き取りテスト)だった。これによって教育のない黒人や移民は有権者登録ができずにあきらめ、事実上選挙権を奪われていた。またたとえ字が書ける黒人が登録に行っても、白人の警官や役人が恫喝したり、妨害したりしたため、黒人の有権者登録は困難だった。

Episode 字の書けない白人は?

(引用)人頭税(投票税)や読み書き試験は黒人だけを対象にしたものではないが、当時の黒人の状況を考えれば、それが巧妙な黒人選挙権の剥奪方法であることはすぐわかる。もちろん、白人の中にもこれによって登録できない者もいたが、そこは係官の裁量でどうにでもなった。またこうした白人を合法的に救う方法として、たとえばルイジアナ州では別に「祖父条項」なるものを採用した。この条項は、1867年1月1日より前に投票したことのある者、ならびにその時期に法律の認める選挙資格者であった者の子や孫は読み書き試験を受けなくともよいという規定であるが、この条件に適う黒人はまずいないから、これは、黒人だけがこの試験を受けなければならないということにすぎない。こうして憲法修正第15条は現実に踏みにじられ、それを要として黒人の政治的諸権利は大幅に削減され、政治的差別が広範に行われるようになった。<本田創造『アメリカ黒人の歴史新版』1991 岩波新書 p.143-144>
北部での黒人票の増大 一方、アメリカ北部の大都市では1920年代から都市人口の増大に伴い、選挙権を持つ黒人も増加し、共和党・民主党のいずれも黒人票の獲得に努めざるを得なくなっていった。1933年からニューディールがはじまると、黒人の支持は共和党から民主党に移つり、それまで南部の白人を基盤としていた民主党は北部を基盤とするようになり、北部を基盤としていた共和党は南部の白人に依存するような支持基盤に変化していった。<上杉忍『アメリカ黒人の歴史』2013 p.94-95>

公民権法の成立

 第二次世界大戦後の1960年代に、キング牧師らに指導された公民権運動が盛り上がりを見せると、民主主義国家として世界のリーダーを自負するアメリカ合衆国の政府としても、問題を放置するわけにはいかなくなった。背景には1960年のアフリカの年でアフリカの黒人が次々と独立国家を作っていったこと、東西冷戦・ベトナム戦争を戦ううえで、アメリカが国際世論の支持を受けるためには、黒人差別を続けていることは不利になる、という事情もあった。
 そのような世界情勢から、ケネディ大統領は黒人差別を解消する方向に大きく転換した。ケネディが暗殺された後、ジョンソン大統領のもとで、1964年7月2日に成立した公民権法の第一編で選挙権登録の際の「文字テスト(読み書き能力テスト)」は違法として禁止され、同時に公共施設における黒人と白人の分離が憲法違反であることが確定して、選挙権行使上の平等が実現した。
投票権登録運動 同年1月には、アメリカ合衆国憲法修正第24条が成立し、連邦レベルの選挙においては「投票権は、合衆国またはいかなる州も、人頭税その他の税を支払わないことを理由に、これを拒否または制限してはならない」と規定された。この憲法修正と、7月の公民権法の成立で問題が解決したか、と言うとそうはならなかった。問題は黒人投票権が法的に保障されたとはいえ、黒人が実際に投票権登録を行わなければ意味が無いのであり、黒人運動の指導者は南部の各自治体で投票権登録運動を開始した。すると、白人の人種主義者は必死にその妨害活動を行い、各地で流血の惨事が起こった。キング牧師ら運動指導者は登録運動を進めながら、ジョンソン大統領に、黒人投票権を保障するより強力な法律の制定を要求した。

投票権法の成立

 ジョンソン大統領は、世論が黒人に同情的であると見て取り、1965年7月、投票権法を議会に提出、下院・上院で可決され、1965年8月6日に大統領が署名して発効した。この投票権法によって選挙権行使における人種差別は禁止され、州が黒人の有権者登録を不当に妨害した場合には連邦政府が有権者登録を行えるようになった(当初は5年間の時限立法であったが、75年に連邦議会で全面禁止が確定)。これによって黒人有権者の投票登録は一気に増加し、まもなく白人と大差ない割合に達した。
 1964年7月2日公民権法の成立に続き、65年に投票権法が施行されたことで人種を理由とする選挙制限は撤廃されたこととなり、公民権運動は所期の目的を達したが、それは黒人問題の解決を意味してはいなかった。実際にはその後も南部諸州では、州レベルで行われる有権者登録の際に、黒人に対する有形無形の妨害が続き、それに対する黒人の抗議活動がたびたび行われた。それでもこの段階で、黒人は一定の居住資格さえあればだれでも有権者登録が行え、また実際の投票も記名ではなく候補者に○を付けるという簡略な方法が確立した。

キング牧師暗殺とその伝説化

 1968年4月4日キング牧師暗殺は、黒人運動にとって混迷の始まりともなった。キング牧師の後継者たちは非暴力による大衆運動により、新たなテーマである黒人の貧困問題の解決に当たろうとした。
 一方でキング牧師らの運動に限界があると考えた若い世代はブラック・パワーというより行動的な運動に向かっていった。1970年代には各地の都市で黒人暴動が頻発し、取り締まりも強化されたためブラックパワー運動は徐々に衰退した。しかし、そのころからキング牧師の運動で獲得した投票権を行使する黒人が増えていったことで、地域の政治、さらに連邦議会でも黒人議員の数が増え、ブラックパワーのパワーとは違った意味のパワーを黒人が発揮するようになったのだった。
「マーティン・ルーサー・キング牧師はこの日のために死んだ
(引用)時が過ぎ、キングの存命中の解放運動を引き裂いた分派的対立が癒やされるにつれて、マーティン・ルーサー・キングの名声は伝説の域に達した。1970年代の急進主義の凋落もあって、黒人の権利の確立のためにアメリカ的制度を活用させるというキングの考え方は、1950年代末~60年代初頭と同じように、ふたたび注目の的となった。例えば、意義深いことに、今日キングの思い出は次のように利用されている。南部の田舎では、復活した南部キリスト教指導者会議(SCLC)は今でも選挙の日に黒人たちを投票に行かせようと苦心している。絶望感と諦念に加えて、長い脅迫の歴史が彼らを投票所から遠ざけているのである。だが、あるSCLCの工夫は成功だった。それは簡単な一枚のポスターだが、上方には黒人の有権者が投票を促されている選挙の日付が書かれ、下方には次のような字句が記されてる。
 「マーティン・ルサー・キングはこの日のために死んだ。」
<ロデリック・ナッシュ/足立康訳『人物アメリカ史』下 1986 新潮社 p.202>