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国連の中国代表権

国連中国代表権は中華民国政府(台湾)が有していたが、1971年、国連総会で中華人民共和国の中国代表権が認められ、台湾は追放された。

 1971年10月25日、国連総会でアルバニアが提案した中華人民共和国の中国代表権を認め、中華民国政府(台湾=国民政府)を追放する決議が採択された。これによって中華人民共和国は国連の常任理事国として国際社会に登場することとなった。
 1949年、中華人民共和国が成立すると国連の代表権が問題となり始めた。安全保障理事会の常任理事国という重要な地位に、わずかに台湾だけを支配するにすぎない中華民国政府がついているという事態になったからである。ソ連は中国代表権をただちに新政権に変更すべきであると安保理で主張、それに対してアメリカは強硬に台湾支持を続けた。ソ連は安保理をボイコットする戦術をとったがその間に朝鮮戦争が勃発した。53年の停戦後もソ連は代表権変更、台湾追放を主張、50年代の東西冷戦の深刻化した中で、中国代表権問題が激しい対立点となった。

国連総会の変化

 1956年、平和共存の状況となり、日本その他の諸国が国連に加盟した。中国代表権問題(加盟問題)は安保理の事項であるが、代表権の変更であるので、舞台は総会に移されることとなり、アメリカは日本などと結んで総会で重要議案(議決に3分の2以上が必要)に指定し、台湾追放を阻止しようとした。しかし、1960年代に新たに独立したアフリカ諸国などの加盟により、アメリカ・日本は少数派に転落、カナダなどの諸国の中国承認が続き、ついに1971年の総会で代表権変更、台湾追放が採決された。こうして中華人民共和国は安保理の常任理事国ともなり、世界の大国の一つと位置づけられることとなった。

米中の接近

 国連の中でアメリカとそれに同調する日本などのグループが少数派になったという画期的な転換を示していた。しかしアメリカの外交戦略を練っていたキッシンジャーはその状況を予測し、日本には同意を得ずに米中関係の改善をはかり、1971年7月、秘密裏に北京を訪問して毛沢東・周恩来と接触して、アメリカ大統領の訪中で合意、さらに翌1972年2月ニクソンの訪中を実現させた。これによって、中華人民共和国は中国を支配する正当な国家であることをアメリカに認めさせることになり、この国連加盟とともに、国際社会の一員として登場することになった。
 当時中華人民共和国は、1966年から始まったプロレタリア文化大革命がまだ収束せず、国力が衰退するなかで厳しい中ソ対立の渦中にあった。一方アメリカはベトナム戦争の長期化に悩んでおり、インドシナ情勢に強い影響力を持つ中国との関係を築くことによって、事態の解決を目指そうとした。中華人民共和国を承認し、それを国際舞台に引き出すことはアメリカにとって有利な判断であったが、米中関係を断たれ、国際連合から追放された中華民国政府(台湾=国民政府)にとっては冷酷な現実だった。

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