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緑の党

1980年代、ドイツで支持者を増やした、環境保護・平和などを掲げた政党。1998年、社会民主党との連立政権に参加、脱原発を実現させたが、2005年からは野党に戻っている。

 現在のドイツ連邦共和国の政党。ドイツ語では、Die Grünen、英語では Greens といい、直訳すれば「緑の人びと」の意味。または Green Party とも称するので、日本では「緑の党」と訳されている。1970年代の世界的な環境問題の深刻化に対し、既成の革新政治の行き詰まりに不満をもっていた若い世代を中心に、環境の保全(エコロジー)や反核、反戦平和あるいは少数者の権利などの新しい政治課題を掲げた市民運動が盛り上がってきた。そのような運動を背景に、1980年代のドイツで政党としての緑の党が結成された。
 当初は泡沫政党扱いされたが、当時のコール長期政権の新自由主義的な規制緩和や民営化によって格差が拡大し、利益追求型の社会風潮が強まったことに対する反発もあって躍進し、1998年の総選挙ではキリスト教民主同盟/社会同盟が敗北、ドイツ社会民主党が第一党となり、緑の党は第三党となった。社会民主党シュレーダー首相は緑の党との連立内閣として成立、緑の党からはフィッシャーが外務大臣として入閣した。こうしてドイツで緑の党が政権に加わったことは90年代のヨーロッパ各国にも影響を与え、各国で同じような環境政党、反核平和主義政党が登場した。

政権参加とコソヴォ空爆問題

 しかし、政権に加わることとなった緑の党は、直ちに試練に直面した。1999年、アメリカに主導されたNATO軍は「人道的介入」を掲げてコソヴォ問題への介入を決定、セルビアがアルバニア人に対する残虐行為を繰り返しているとして、コソヴォ爆撃を開始した。第二次世界大戦の戦後ドイツは紛争地域に自国軍を派遣することは無かったが、シュレーダー政権はドイツの国際的地位の向上のためにはアメリカとの協力態勢の維持が不可欠と判断、また国内世論の大勢もセルビアの非人道的行為はアウシェヴィッツを想起させたため、空爆やむなしと傾いた。緑の党は反戦平和を掲げて成立した政党であったので、その判断が注目されたが、フィッシャー外相などは連立政権維持の立場から空爆に賛成し大きく方針を変更した。それに不満な党員も多数、脱退した。その後、セルビアの非人道的行為はマスコミの過剰な報道によって増幅されていたこと、空爆後に勢いを盛り返したアルバニア人が逆にセルビア系住民を暴力的に排除したことなどから、NATOの「人道的介入」に加わったことへの批判が現在でも根強い。

脱原発の実現

 その反面、緑の党は政権に加わることによって、ドイツの脱原発政策など、彼らの主張を実現させた。また、2003年のアメリカのイラク戦争開戦には当初から反対し、参加しなかった。しかし、シュレーダー連立政権は、失業の増大、トルコ系移民の増大などの社会問題の解決に手間取ることとなって、2005年の総選挙で社会民主党・緑の党の連立与党は敗れて、かわって第1党の保守政党キリスト教民主同盟/社会同盟と第2党の革新政党社会民主党が連立するという、いわゆる大連立内閣メルケル政権が誕生した。緑の党は政権から離れたが、現在も第三政党として一定の支持を集めている。
 緑の党が推進した脱原発政策に対しては、産業界、とりわけ製造業界が反発し、ドイツ電気事業連合会も難色を示すなど、21世紀になっても政権が策定した脱原子力計画は実地に移されず、原発延長へと逆戻りするシーンもあった。それでもドイツ国民の反原発意識は高く、多数のデモ参加者の圧力があり、ついには2011年の福島原発事故をきっかけに、メルケル首相のキリスト教民主同盟政権が脱原発を決定した。<池上俊一『森と山と川でたどるドイツ史』2015 岩波ジュニア新書 p.214>
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池上俊一
『森と山と川でたどるドイツ史』
2015 岩波ジュニア新書