ミッテラン
1981年から95年までフランス第五共和政の大統領を務めた、社会党党首。アメリカのレーガン、イギリスのサッチャーと同時期に社会民主主義政権を運営した。86年から首相は保守派のシラクが就任、保革が協力するコアビタシオンの政治形態となった。95年大統領選挙でシラクに敗れた。
ミッテラン大統領
社会党政権を樹立
ミッテラン社会党政権は、インフレと失業者の増大という経済危機に対し、ケインズ的な経済政策、つまり「大きな政府」を掲げ、公共投資の増加、国有化の推進による雇用の拡大、最低賃金の引き上げや社会保障の拡充による購買力の向上をめざした。当時主流であったイギリスのサッチャーやアメリカのレーガンのとった「小さな政府」とは対照的な政治を行っていた。また地方分権や教育改革にも取り組んだが、景気の回復には結びつかず、1986年総選挙では社会党は敗北した。やむなくミッテランは首相に保守派のシラクを指名し、大統領が左派、首相が右派という、保革共存(コアビタシオン)という状態になった。その後は外交は大統領、内政は首相という棲み分けを行い、ミッテランは大統領を続けた。保革共存はミッテランの二期目でも首相バランデュールとの組み合わせで行われた。選挙での敗北
ミッテラン政権はその後も極右勢力の台頭(ルペンの率いる国民戦線FN)や移民問題などで揺れたが、ミッテラン個人的人気で乗り切ってきた。外交面ではソ連との友好を図るとともに、アメリカのNATO戦略も容認する現実的な動きをし、またヨーロッパの統合でもイニシアチブをとり続けた。ミッテラン政権は二期14年に及んだが1995年の大統領選挙では保守派のシラクが当選し、終わりを告げた。翌年1月、前立腺ガンで死去した。