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サハロフ

ソ連の原子物理学者で核開発に携わったが後に反核運動に転じた。1975年に平和活動家としてノーベル平和賞を受賞。ブレジネフ政権下で反体制知識人として逮捕され、自由を制限された。

 アンドレイ=サハロフは物理学者としてソ連の核実験にかかわり、水素爆弾の開発を推進して、「ソ連水爆の父」と言われるようになった。しかし、核兵器の非人道的性格を強く認識し、後に反核運動に転じ、ソ連政府の核開発や外交政策を批判するようになった。

核実験に対する抗議

 1957年にはウラルのチェリャビンスクで放射性廃棄物処理場で核爆発が起こり数万人が被害を受けたが、その事実は秘密にされた。サハロフは、水爆開発計画で有名になりアカデミー会員にもなっていたが、1958年11月の大気圏外実験の直前に核実験に強く抗議した。これが彼の異議申し立ての第一号だった。<木村英亮『増補版ソ連の歴史』1991 山川出版社 p.171,192>
 1970年代のデタント時代には平和活動を評価され、1975年にノーベル平和賞を受賞した。

反体制知識人として

 しかし80年代前半に、アメリカにレーガン政権が登場して対決色が強まり、再び冷戦の緊張が戻って新冷戦の時期になると、ソ連当局の反政府言論に対する取り締まりが強化され、サハロフらは反体制知識人として取り締まりの対象となった。1980年にはソ連政府のアフガニスタン侵攻を批判して逮捕され、裁判もなくすべての称号と勲章を剥奪された。その上で自由を奪われ、ゴーリキー市(現ニジニ=ノヴゴロド市)に国内追放となり監禁生活を送らざるを得なかった。
 ゴルバチョフ政権でペレストロイカが始まったことにより、1986年に解放され、人民代議員大会の議員に選出されるとソ連憲法の「共産党の指導的役割」の削除を求めて論陣を張り、ソ連解体前の1989年に急死した。
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