デタント/緊張緩和
1970年代、東西冷戦の緊張緩和が進んだこと。ベトナム戦争期にアメリカ・ソ連とも軍備拡張を進めたため、経済を圧迫し、対立を解消する機運が進んだ。
デタントとはフランス語で「くつろぎ」とか「ゆるみ」の意味。一般に「緊張緩和」の意味で使われる。特に、ドル=ショックとオイル=ショック以降の1970年代のアメリカとソ連の間での核軍縮が進行し、東西冷戦が変質した時期のことをいう。
また1968年のチェコ事件で、東欧社会主義圏に民主化の動きが出てきて、それをソ連が軍事介入して抑えなければならないと言う状況となったこと、翌1969年には中ソ国境紛争が珍宝島事件で実際に火がつき、核戦争に発展しかねない危機となったという、共産圏全体の危機が背景にあった。
緊張緩和の背景
アメリカは60年代のベトナム戦争の失敗以降経済力が低下し、70年代のニクソン・フォード・カーターの各大統領が対ソ緊張緩和策をとることとなった。またソ連のブレジネフ体制が長期化する中でソ連経済が停滞、閉塞感が強まり、中ソ対立も重くのしかかっていた。このような米ソの状況が、世界経済の落ち込みとともに、緊張緩和の要因となった。また1968年のチェコ事件で、東欧社会主義圏に民主化の動きが出てきて、それをソ連が軍事介入して抑えなければならないと言う状況となったこと、翌1969年には中ソ国境紛争が珍宝島事件で実際に火がつき、核戦争に発展しかねない危機となったという、共産圏全体の危機が背景にあった。
緊張緩和の始まり
このような東側の状況を、最も近いところで直接接していた西ドイツで1969年に社会民主党のブラントが首相に就任、1970年に大きく方針を転換して、ソ連=西ドイツ武力不行使条約、西ドイツ=ポーランド国交正常化条約を締結して、国境問題を現状維持で解決し、東ドイツとは相互にその存在を認め、ソ連も含めて交渉を開始するという東方外交を開始したことがきっかけとなって、東西冷戦に風穴を開ける、デタント(緊張緩和)が始まった。緊張緩和の展開
デタントの成果としては、1972年の第1次戦略兵器制限交渉(SALT・Ⅰ)、迎撃ミサイル制限条約、1973年の核戦争防止協定、1975年の全欧安全保障協力会議(CSCE)とヘルシンキ宣言などが挙げられる。新冷戦への後退
しかし、1979年にイラン革命が勃発してアメリカがその対応に失敗、またソ連がアフガニスタンに侵攻するに及んで再び緊張が高まり、アメリカにレーガン政権が登場して再び核軍拡路線に戻ったため、80年代前半は「新冷戦」と言われるようになる。この新冷戦を終わらせ、劇的な緊張緩和の高まりをもたらしたのは、1985年のソ連のゴルバチョフ政権の登場であり、1989年の米ソ両首脳によるマルタ会談での冷戦終結宣言に至ることとなる。 → アメリカの外交政策