レーガン
アメリカ合衆国第40代大統領。1980年代、強いアメリカ、小さな政府を掲げ、新自由主義経済政策を進める。ソ連に対しては新冷戦といわれる強硬姿勢をとってSDI構想を立てたが、貿易赤字・財政難の「双子の赤字」問題が起こり、1985年のプラザ合意で乗りきった。2期目にはソ連のゴルバチョフとの対話によりINF全廃条約などに応じたが、ラテンアメリカに対しては軍事行動を重ねた。
レーガン大統領
ロナルド=レーガン Ronald Reagan はアメリカ合衆国の1980年代の大統領。在任1981年~89年。共和党。1980年の大統領選挙で民主党のカーターの再選を阻止して当選した。
映画の俳優であったレーガン(映画俳優時代は日本では「リーガン」と言われていた)は、西部劇の二流スターに過ぎなかったがハリウッドの俳優労働組合の委員長を経験するうち、反共産主義の急先鋒となっていった。1960年代に民主党から共和党に転じ、1964年の大統領選挙で共和党のゴールドウォーター候補を応援し、その反リベラル姿勢が注目された(選挙は民主党ジョンソンに敗れた)。それ以後は保守派の中心人物として期待され、カリフォルニア州知事を経てその派手なパフォーマンスによって国民の耳目を集めた。1981年1月20日に大統領に就任した時、69歳でそれまでの大統領で最高齢(これは2017年1月就任したトランプ=70歳に破られた)、そして離婚経験(女優ジェーン=ワイマンと離婚。彼女はアカデミー主演女優賞も獲得した有名女優だった)のある最初の大統領となった。
債権国 の地位から債務国に転落し、貿易収支も赤字に転じ、財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」に悩むこととなり、1985年9月22日、先進5ヵ国によるプラザ合意によってドル安に是正されて救済された。内政面では右よりの政策が目立ち、男女平等や人工中絶には反対の姿勢を見せ、最高裁判事には保守派を任命した。
ジュネーブ会談では一転してレーガンは核戦争での不戦を誓い、科学や文化でのソ連との交流に合意した。このレーガンの対話路線への転換は、ゴルバチョフ書記長の新思考外交と一致し、1987年12月8日には中距離核戦力(INF)全廃条約に調印するというところまでいった。
しかし、一方で前任のカーター外交を軟弱と批判し、「強いアメリカ」の復活を訴えて当選したため、伝統的なカリブ海政策を復活させ、親米政権に対する左派ゲリラの活動が強まったニカラグアやエルサルバドルに介入した。また、83年にはグレナダ侵攻を行った。特にニカラグアの親米勢力(コントラ)への武器支援を続け、その過程でイランに秘密に武器を売却し、それで得た資金をコントラに横流ししたのではないか、という「イラン・コントラ事件」が起こり、大統領の関与も疑われたが、その証拠は出なかった。 → アメリカの外交政策
映画の俳優であったレーガン(映画俳優時代は日本では「リーガン」と言われていた)は、西部劇の二流スターに過ぎなかったがハリウッドの俳優労働組合の委員長を経験するうち、反共産主義の急先鋒となっていった。1960年代に民主党から共和党に転じ、1964年の大統領選挙で共和党のゴールドウォーター候補を応援し、その反リベラル姿勢が注目された(選挙は民主党ジョンソンに敗れた)。それ以後は保守派の中心人物として期待され、カリフォルニア州知事を経てその派手なパフォーマンスによって国民の耳目を集めた。1981年1月20日に大統領に就任した時、69歳でそれまでの大統領で最高齢(これは2017年1月就任したトランプ=70歳に破られた)、そして離婚経験(女優ジェーン=ワイマンと離婚。彼女はアカデミー主演女優賞も獲得した有名女優だった)のある最初の大統領となった。
「強いアメリカ」への回帰
レーガンは「強いアメリカ」の再現を掲げ、ソ連との軍事的対決に備えて「戦略防衛構想」(SDI)を打ち上げ、軍事費増大は「小さい政府」による福祉支出削減などによって生み出すという政権構想であった。その政策は、外交・イデオロギー面では、70年代の緊張緩和の反動として台頭してきた新保守主義(ネオ=コンサバティヴ、略してネオコンという)と、経済政策では新自由主義(ケインズ的な「大きな政府」を批判して、徹底して市場原理に依拠し、通貨供給で景気をコントロールしようという経済思想)をバックボーンとしていた。その姿勢は、次期大統領ブッシュ(G.H.W)=父及びブッシュ(G.W.)=子に継承される。経済政策
具体的経済政策としてはいわゆる新自由主義に基づき、「サプライサイド」(供給側)経済を唱え、減税による景気浮揚をはかった。支出の削減では社会福祉関係の予算を大幅に削減した。減税は企業や富裕層には有利であり、社会福祉予算削減は低所得者層に犠牲を強いることとなった。このようなレーガンの経済政策は「レーガノミクス」と言われた。しかし国防費は削減されず、財政赤字は解消されなかった。また、輸出も伸びず、85年には1914年から続いたレーガンの外交
外交政策ではレーガンはアメリカの大国主義と反共産主義の姿勢を明確にし、ソ連を「悪の帝国」とよびSDIを推進したため、「新冷戦」をもたらした。しかし、「双子の赤字」に象徴されるアメリカ経済の落ち込みが明確になると1985年に西側陣営の主要5ヵ国がアメリカ経済を救うためにドル安で合意するというプラザ合意が生まれるなど、レーガンは反ソ強硬姿勢の転換を余儀なくされていった。おりからソ連でも従来の硬直した社会主義経済が行き詰まって危機的な状況となり、1985年にゴルバチョフが出現し、ペレストロイカが始まった。このように米ソ双方で従来の強硬姿勢を改めざるを得ない状況が出現し、1985年11月19日に両首脳はジュネーヴで初めて会見、首脳会談を行った。ジュネーブ会談では一転してレーガンは核戦争での不戦を誓い、科学や文化でのソ連との交流に合意した。このレーガンの対話路線への転換は、ゴルバチョフ書記長の新思考外交と一致し、1987年12月8日には中距離核戦力(INF)全廃条約に調印するというところまでいった。
しかし、一方で前任のカーター外交を軟弱と批判し、「強いアメリカ」の復活を訴えて当選したため、伝統的なカリブ海政策を復活させ、親米政権に対する左派ゲリラの活動が強まったニカラグアやエルサルバドルに介入した。また、83年にはグレナダ侵攻を行った。特にニカラグアの親米勢力(コントラ)への武器支援を続け、その過程でイランに秘密に武器を売却し、それで得た資金をコントラに横流ししたのではないか、という「イラン・コントラ事件」が起こり、大統領の関与も疑われたが、その証拠は出なかった。 → アメリカの外交政策
Episode もっとも話題の多い大統領
彼は日本でもよく知られた映画俳優であった。俳優としては「リーガン」と書かれていたが、二流どころの西部劇スターにとどまっていた。政界に打って出てカリフォルニア州知事となり、大統領となったときはすでに69歳、ケネディが生きていてもそれより年長で、それまでのアメリカ史上最高齢の大統領(2017年就任のトランプが70歳であったので記録は破られた)であった。しかし老人らしからぬ手慣れたパフォーマンスは人気を呼んだ。日本の中曽根首相とは政治信条に近いものがあったらしく、「ロンとヤス」と呼び合う仲だったという。また退任後、アルツハイマー症にかかったことを明らかにしたことでも話題となった。2004年6月、93歳で死去、大統領経験者としては最高齢であった。