ユーゴスラヴィア内戦/ユーゴ内戦
1991~95年、ユーゴスラヴィア連邦解体過程で民族間の対立から起こった内戦。スロヴェニア・クロアティアの分離に対するセルビアの反発から始まり、ボスニアの分離をめぐるボスニア内戦まで多くの犠牲者を出し、結果的に連邦は分解した。
1980年にティトー大統領が死去してから、ユーゴスラヴィア連邦の統一国家としての枠組みは急速に揺らいだ。さらに1989年の東欧革命の余波がユーゴスラヴィアにも及び、1990年に連邦を構成する各共和国の中で自由選挙が実施された。セルビアとモンテネグロ以外で民族主義政党が勝利し、連邦制維持か廃止かについて6共和国の会議が開催されたが、合意に達せず、1991年6月、スロヴェニア・クロアティアが独立宣言にふみきった。11月にはマケドニア、翌年3月にはボスニア=ヘルツェゴヴィナがそれにならって独立を宣言した。これに対してセルビアは連邦維持を表明し、モンテネグロと共に新ユーゴスラヴィア連邦を結成してユーゴスラヴィアは二陣営に分かれて戦うこととなり、ユーゴスラヴィアの解体過程がはじまった。
ユーゴスラヴィア内戦は次のような三段階にまとめることができる。
ところがドイツに主導されたECがいち早くクロアティアを承認したことから対立は一段と深刻化した。反発したユーゴスラヴィア連邦は、セルビア人保護を名目に連邦軍をクロアティアに派遣し、内戦は国際問題と化した。11月末に国連の仲介によって停戦に合意、国連の平和保護軍が監視にあたった。しかしクロアティアは95年8月に「クライナ・セルビア人共和国」に対して総攻撃を仕掛けて消滅させ、力ずくでセルビア人勢力を制圧した。
NATOの空爆 ボスニア内戦の状況が世界に報道される中で、特にセルビア人勢力による民族浄化といわれるムスリムなどに対する残虐行為が知られるようになり、セルビア人およびセルビアのミロシェヴィッチ政権に対する非難が高まった。それに対してEC・国連、さらにアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・ロシアなどが仲介を試みたが、三勢力間の政治的解決は困難を極め、1995年8月末にはNATO空軍がセルビア人勢力に対する大規模な空爆を実施した。これは、冷戦終結後のヨーロッパにおける軍事行動としてドイツなど各国に深刻な影響を及ぼした。
デイトン和平合意 NATOによる空爆によってセルビア人勢力は大きな打撃を受け、アメリカ主導の和平交渉に応じ、1995年11月にアメリカのデイトンで交渉結果、和平合意が成立、1995年12月14日にパリで正式にボスニア=ヘルツェゴヴィナ和平合意が調印されたクロアチア人・ムスリム人によるボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦と、セルビア人共和国との二つの政体からなる一つの国家を構成することで平和は一応実現した。しかし国連の監視は依然として継続しており、未だに予断を許さない状態が続いている。<柴宜弘『図説バルカンの歴史』2001 河出書房新社 p.156> → コソヴォ問題
和平合意後のボスニア=ヘルツェゴビナ 1995年、アメリカの仲介で成立したデイトン和平合意によって、主権国家としての「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」は、「ボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦」と「スルプスカ共和国(セルビア人共和国ともいう)」の二つの国家から成る、一つの連合国家とされた。連合国家としては一つの議会、中央政府(大統領評議会)をもつが、それを構成する二国もそれぞれ議会と政府(大統領)を持つ。軍隊は当初は二国が別々に組織していたが、現在では中央政府のもとに統合された。
複雑な民族対立
問題を複雑、かつ深刻にしたのは、独立を宣言した共和国も単一民族ではなく、内部に少数民族を含んでいたり、複数の民族で構成されていたりしたことであった。スロヴェニアの場合はほとんどがスロヴェニア人であったので、独立はほぼ問題なく実現できたが、クロアティアはクロアティア人の多数派以外にセルビア人が存在していた。またボスニア=ヘルツェゴヴィナはセルビア人、クロアティア人、ムスリム人の三勢力が拮抗し、多数派が存在していなかった。一方、セルビア人はセルビア以外のセルビア人を保護する名目でそれぞれに介入し、それは他民族からは「大セルビア主義」として非難された。クロアティアとボスニアにとっては「内戦」ではなく、「セルビア人問題」である、との指摘もある。内戦の歴史的背景
また内戦の要因に、宗教と文化、言語などの違いが挙げられるが、このバルカン半島ではキリスト教徒・ギリシア正教徒・ムスリムは数百年にわたって混在し、平和に共存していたのであり、対立の要因ではなかった。対立は一部の過激な民族主義者に扇動された面が強いが、それを産みだしたのは、東欧革命とソ連解体の中から吹き出てきた民族主義的な動きであり、ティトー亡き後のユーゴスラヴィア連邦の自主管理社会主義体制の求心力が失われたことによると考えられる。<参考 千田善『ユーゴ紛争』1993 講談社現代新書/柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史新版』2021 岩波新書 など>ユーゴスラヴィア内戦は次のような三段階にまとめることができる。
第1段階
スロヴェニア独立に伴う「十日間戦争」 1991年6月、スロヴェニア共和国が独立宣言するとすぐに国境の管理問題が起こり、共和国軍とユーゴスラヴィア連邦軍が衝突した。このときは連邦軍が共和国軍の軍事力を過小評価したため自滅して撤退、ECの仲介で休戦協定が締結され、10日間で終わった。スロヴェニア独立は事実上認められた。第2段階
クロアティア紛争 クロアティアはスロヴェニアと同時に1991年6月、独立を宣言した。独立を推進したクロアティア共和国のトゥジマン政権に対して、人口の三分の一を占めるセルビア人住民が反発、9月に武力衝突に突入した。セルビア人側もクロアチア人と同じく「民族自決」をかかげ、「クライナ・セルビア人共和国」(クロアチア内のセルビア人の国家)の独立を宣言、ユーゴスラヴィア連邦への残留を表明した。ところがドイツに主導されたECがいち早くクロアティアを承認したことから対立は一段と深刻化した。反発したユーゴスラヴィア連邦は、セルビア人保護を名目に連邦軍をクロアティアに派遣し、内戦は国際問題と化した。11月末に国連の仲介によって停戦に合意、国連の平和保護軍が監視にあたった。しかしクロアティアは95年8月に「クライナ・セルビア人共和国」に対して総攻撃を仕掛けて消滅させ、力ずくでセルビア人勢力を制圧した。
第3段階
ボスニア内戦 1992年3月、ボスニア=ヘルツェゴヴィナが独立を宣言。しかし、ボスニア=ヘルツェゴヴィナは、最も複雑な民族構成をもっていた。セルビア人、クロアティア人、ムスリム人の三民族が存在し、それぞれの勢力が拮抗しているという事実であった。このうち、クロアティア人とムスリム人は共に独立と連邦離脱を進めようとしたのに対して、セルビア人は独立反対、連邦残留を主張していたので、1992年4月からボスニア内戦となって火を噴いた。NATOの空爆 ボスニア内戦の状況が世界に報道される中で、特にセルビア人勢力による民族浄化といわれるムスリムなどに対する残虐行為が知られるようになり、セルビア人およびセルビアのミロシェヴィッチ政権に対する非難が高まった。それに対してEC・国連、さらにアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・ロシアなどが仲介を試みたが、三勢力間の政治的解決は困難を極め、1995年8月末にはNATO空軍がセルビア人勢力に対する大規模な空爆を実施した。これは、冷戦終結後のヨーロッパにおける軍事行動としてドイツなど各国に深刻な影響を及ぼした。
デイトン和平合意 NATOによる空爆によってセルビア人勢力は大きな打撃を受け、アメリカ主導の和平交渉に応じ、1995年11月にアメリカのデイトンで交渉結果、和平合意が成立、1995年12月14日にパリで正式にボスニア=ヘルツェゴヴィナ和平合意が調印されたクロアチア人・ムスリム人によるボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦と、セルビア人共和国との二つの政体からなる一つの国家を構成することで平和は一応実現した。しかし国連の監視は依然として継続しており、未だに予断を許さない状態が続いている。<柴宜弘『図説バルカンの歴史』2001 河出書房新社 p.156> → コソヴォ問題
和平合意後のボスニア=ヘルツェゴビナ 1995年、アメリカの仲介で成立したデイトン和平合意によって、主権国家としての「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」は、「ボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦」と「スルプスカ共和国(セルビア人共和国ともいう)」の二つの国家から成る、一つの連合国家とされた。連合国家としては一つの議会、中央政府(大統領評議会)をもつが、それを構成する二国もそれぞれ議会と政府(大統領)を持つ。軍隊は当初は二国が別々に組織していたが、現在では中央政府のもとに統合された。