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ヘン=サムリン政権

1979年、カンボジアでポル=ポト政権を倒して成立した、ベトナムに支援された政権。反ベトナム三派との内戦が続く。カンボジア人民共和国と称したが、89年にカンボジア国に国号を変更した。同時にベトナム軍が撤退したため、ヘン=サムリン政権は倒れた。

 ヘン=サムリンはカンボジアの軍人で、ポル=ポト政権のもとでは東部軍を率いてベトナム軍と戦っていた。しかし、ポル=ポト政権がベトナム領への侵攻を命じると、カンボジア軍を離脱した。しばらくポル=ポトの派遣したカンボジア軍に追われ、ジャングルを逃避行を重ね、ベトナム軍に救出された(事実上のベトナムへの亡命)。
 ポル=ポト政権が独自の共産社会の樹立を目指し、中国共産党の支援を受けたのに対して、ヘン=サムリンらはベトナムでポル=ポト政権打倒を準備した。ベトナム社会主義共和国中ソ論争でソ連に同調し、中国とは対立していた。

ヘン=サムリン政権の成立

 ベトナム社会主義共和国は1978年末からカンボジアへの侵攻を全面的に実行し、1979年1月、プノンペンを制圧、ポル=ポト派がジャングルに逃れると、ヘン=サムリンはベトナム軍の支援によって国家評議会議長としてカンボジアの国家元首となった。そのもとで、同じくポル=ポト軍からベトナム軍に投降したフン=センが首相を務めた。
 ヘン=サムリン政権は、国号を「カンボジア人民共和国」に改め、ベトナムの全面的協力によって、社会主義国としてのカンボジアの再建にあたったが、国内には、北京に亡命したかつての国王シハヌークの支持勢力である右派シハヌーク派、左派共産勢力であるポル=ポト派、中間的な共和派であるソン=サン派の三派が、反ベトナム・反ヘン=サムリンでまとまり、反政府活動を開始し、新たなカンボジア内戦という状態になった。
 また、ベトナム軍がカンボジアに侵攻したことに対して中華人民共和国は強く反発し、1979年2月、ベトナムに侵攻、中越戦争が起こった。

ベトナムの態度変更

 1980年代後半に入ると、ソ連がゴルバチョフ政権のペレストロイカで改革路線に転じ、1986年にはベトナムがドイモイ(刷新)政策をとり、カンボジアからの撤退の方針を明らかにし始めた。1989年、ヘン=サムリン政権はシハヌーク派との妥協を図り、国号を「カンボジア国」に変更、またベトナムは駐留軍の撤退を開始した。ベトナム軍が撤退したことで、実質的にヘン=サムリン政権は消滅した。その背景には、東欧革命が進んで社会主義諸国が次々と崩壊し、東西冷戦が終結するという世界情勢があった。
 ただし、ヘン=サムリン政権を支えたフン=センはシハヌーク国王の下でカンボジア王国第二首相となり、さらに後に第一首相ラナリット殿下を追い落として、単独の首相として実権を握ることになる。
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