シハヌーク
カンボジアの王族で、1945年に独立宣言。インドシナ戦争後の1953年実質独立を勝ち取る。1970年、クーデタで国を追われてから亡命生活を送り、カンボジア内戦後に帰国し1993年に国王に復帰した。
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ノロドム・シハヌークの戴冠式(1941年)の手彩色写真
当初フランスは年少のシハヌークを御しやすいと考えたようだが、その後ねばり強い
19歳で国王となる
シハヌークの国王即位の前年、1940年6月にはフランスはすでにドイツに占領され、7月には日本軍のフランス領インドシナ進駐(北部仏印進駐)が開始されていた。さらに翌41年7月には南部仏印進駐が行われ、日本軍はカンボジアにも部隊を展開した。フランスの後退はカンボジアにとっても独立の好機となり、独立運動も始まったが、フランスはカンボジアにおける支配権の維持を図り、わずか19歳であったがフランス留学から帰国していたシハヌークを10月28日に王位に立てた。日本軍は12月8日のハワイ真珠湾攻撃と同時に、カンボジアからタイに侵攻し太平洋戦争開戦、戦線は東南アジア全域にひろがった。日本は戦争目的を大東亜の解放においたことから、1945年3月にはシアヌーク国王に独立を宣言させたが、8月の日本の敗北によってフランス植民地支配が復活したため、独立達成は出来なかった。カンボジア独立
新たにベトナムではフランスからの独立を目指すインドシナ戦争が激しくなり、カンボジアでも「自由クメール」が組織された。シハヌークはこの動きに乗じて1953年11月9日にカンボジア国王として独立を宣言した。フランスがインドシナ戦争で苦戦に陥る中、ジュネーヴ会議で独立を国際世論に訴えて、1954年7月21日に締結されたジュネーヴ休戦協定でカンボジアの独立を国際的に承認させることに成功した。シハヌーク殿下の活動
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左から毛沢東、彭震、シハヌーク、劉少奇
この時期、さかんに外交活動を行い、「赤いプリンス」と言われ中国、ソ連、北ベトナムなどと連携を強めた。1965年に始まったベトナム戦争が長期化、泥沼化すると南ベトナム解放戦線(ベトコン)を支援し、カンボジアを経由しての北ベトナム軍の南ベトナムに人員、物資を送ることを認めた。
流浪のプリンスから囚われのプリンスへ
そのような反米姿勢を快く思わなかったアメリカは1970年3月、右派のロン=ノル将軍を動かし、クーデタを行って王政を廃止、カンボジアは共和国となった。シハヌークはおりから北京滞在中で、それ以後カンボジアに戻れなくなり、「流浪のプリンス」となった。ロン=ノル政権に対してシハヌーク支持派は抵抗を開始、共産勢力である赤色クメールとも共闘してカンプチア民族統一戦線を結成して、カンボジア内戦の戦いを北京から指導した。1975年、ロン=ノル政権が倒れるとカンボジアに戻り、「民主カンプチア」の国家元首となったが、こんどは親中国の左派ポル=ポト政権によって監禁状態にされた。それからは「囚われのプリンス」といったところである。
国王への復帰
1979年、ベトナム軍がカンボジアに侵攻、ポル=ポト政権を倒してヘン=サムリン政権ができると、反ベトナムの「民主カンプチア」国家元首として国連などで代表権を主張した。1970年以来22年間に及んだカンボジア内戦は91年にようやく終結し、パリ国際会議でカンボジア和平協定が実現し、1993年9月にカンボジア王国が復活、シハヌークが国王に復帰した。2004年10月シハモニ国王に王位を譲り引退したとされるが、21世紀まで隠然たる影響力を持ち、2012年10月15日、心臓発作のために死去し、13年2月に国葬が営まれた。カンボジアでは現国王とシハヌーク夫妻の肖像画があちこちに飾られている。