日本の自衛隊海外派遣
1992年PKO協力法が成立、自衛隊の海外派遣が可能になり、アフガニスタン復興支援、イラク戦争で海外派遣が行われた。戦闘行動には参加できないという歯止めはあるが、国際貢献の名の下に、自衛隊が「専守防衛」の枠を越える恐れが高まっている。
日本は日本国憲法第9条の規定に基づき、自衛隊は専守防衛に当たるものとされ、海外派遣は行われてこなかった。また国連憲章で認められる「個別的または集団的自衛権」のうち、集団的自衛権は行使できないと政府見解が維持されている。ところが、1991年に湾岸戦争が勃発すると、日本も国際貢献を金銭的な面だけでなく、人的にも果たすべきだというアメリカからの圧力と、国内の一部の主張によって、自衛隊の国連平和維持活動への参加、つまり海外派遣が検討されるに至った。
こうして戦後70年目の節目の年に、自衛隊が海外でアメリカ軍などと共同活動を可能にしたことが、日本国憲法9条を改めることなく、その解釈によって行われたことは、立憲国家・法治国家の理念として正しいのか、疑問を持たざるを得ない事態となった。
1991年6~9月 湾岸戦争後の海上自衛隊のよるペルシャ湾掃海派遣(これが最初の自衛隊海外派遣であった)。
2001年11月~2007年11月 アフガニスタンにおけるアメリカ軍などの対テロ作戦を後方支援するため、海上自衛隊がインド洋で給油活動に従事 テロ対策特措法に基づく活動が再三延長されたが、2007年参議院で同法に反対する民主党が多数を占めたため、延長されず11月に終了した。政府自民・公明党は新テロ特措法法によって再開を目ざし、2008年12月12日衆議院で再可決して成立、インド洋上の給油活動が再開されることとなった。
2004年1月 イラク戦争に当たり、イラク特措法に基づきフセイン政権崩壊後のイラク人道復興支援活動に、陸上自衛隊と航空自衛隊が参加。陸上自衛隊は予定期間終了で帰国したが、航空自衛隊は2008年に撤退した。
その後も2010年代を通じて、自衛隊の海外派遣は日常的の行われることとなった。
1992年(平成4年)9月17日~1993年(平成5年)9月26日。国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)
1993年(平成5年)5月11日~1995年(平成7)1月8日。国連モザンビーク活動 (ONUMOZ)
1996年(平成8年)2月1日~。中東、ゴラン高原での国連兵力引き離し監視隊 (UNDOF)
2002年(平成14年)2月~2004年(平成16年)6月27日。国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET、2002年5月20日以降は国連東ティモール支援団 (UNMISET))
2007年(平成19年)3月30日~。ネパール政府と共産党毛沢東主義派の停戦監視を行う国連ネパール支援団 (UNMIN) 防衛省移行後初の海外派遣。
2012年(平成24年)1月~2017年5月。南スーダン(UNMISS)に参加。
その他、難民救済(UNHCR支援)や地震、津波など自然災害に対する救援活動を行っている。
南スーダン派遣 2011年に民主党政権で決定されて実施された南スーダンでの平和維持活動への参加は12年から始まり、2017年自民党安倍政権の下で終わった。現地は部族間抗争が激しく、自衛隊が戦闘に巻き込まれる状況が存在した。国会でその点が問題とされた時、政府は「武力衝突」はあったが、それは「戦闘」ではなかったと説明した。それは日本の国際平和協力法では戦闘行為は禁止されているためであった。国会で野党の追及を受けた稲田朋美防衛大臣は自衛隊の日報は破棄されたので詳細は分からないと答弁した。ところが後に自衛隊内部から、実は日報が存在したことが判明し、政府が日報を隠蔽したのではないかという問題に発展した。 → 南スーダンの項を参照。
国際平和協力法(通称PKO協力法)の成立
政府原案は国会審議でたびたび廃案に追い込まれたが、ついに1992年6月、国際平和協力法(通称PKO協力法)が成立し、同時に国際援助活動への自衛隊の参加を可能とする国際緊急援助隊法が改正施行され、自衛隊の海外派遣に法的な根拠が与えられた。また2006(平成18)年12月15日には自衛隊法が改正され、海外派遣が付随的任務から通常任務に位置づけられ、海外派遣は自衛隊の「本業」にされるに至った。2015年 集団的自衛権の容認
また安倍内閣の下で、首相の私的諮問会議として現憲法の下で集団的自衛権を可能にする法解釈や法改正を探る検討が開始され、2014年7月、諮問会議の勧告受ける形で安倍内閣は閣議で憲法解釈を変え、集団的自衛権を容認することを決定した。さらに翌2015年9月には、大きな反対運動があったにも関わらず、いわゆる「平和安全法」関連の法改正(反対運動側からは「戦争法」と言われた)が成立し、日本の自衛隊が集団的自衛権を行使して、同盟国つまりアメリカ軍と共同の作戦に従事して海外に派遣されることが可能になった。こうして戦後70年目の節目の年に、自衛隊が海外でアメリカ軍などと共同活動を可能にしたことが、日本国憲法9条を改めることなく、その解釈によって行われたことは、立憲国家・法治国家の理念として正しいのか、疑問を持たざるを得ない事態となった。
自衛隊の海外派遣の実績
現在のところ、自衛隊の海外活動は「後方支援・復興支援」に限定されており、次の実績がある。1991年6~9月 湾岸戦争後の海上自衛隊のよるペルシャ湾掃海派遣(これが最初の自衛隊海外派遣であった)。
2001年11月~2007年11月 アフガニスタンにおけるアメリカ軍などの対テロ作戦を後方支援するため、海上自衛隊がインド洋で給油活動に従事 テロ対策特措法に基づく活動が再三延長されたが、2007年参議院で同法に反対する民主党が多数を占めたため、延長されず11月に終了した。政府自民・公明党は新テロ特措法法によって再開を目ざし、2008年12月12日衆議院で再可決して成立、インド洋上の給油活動が再開されることとなった。
2004年1月 イラク戦争に当たり、イラク特措法に基づきフセイン政権崩壊後のイラク人道復興支援活動に、陸上自衛隊と航空自衛隊が参加。陸上自衛隊は予定期間終了で帰国したが、航空自衛隊は2008年に撤退した。
その後も2010年代を通じて、自衛隊の海外派遣は日常的の行われることとなった。
Episode 「そんなのカンケーネー」発言
イラクへの自衛隊派遣については、違憲訴訟が行われ、2008年の名古屋高裁で原告敗訴となった。しかし、航空自衛隊の活動には「非戦闘地域」に限定できない活動が含まれており、憲法違反に当たるという「傍論」が併記された。それに対して当時の田母神航空自衛隊幕僚長は「そんなの関係ネー」と発言した。自衛隊制服組トップが、裁判(司法)判断を「カンケーネー」と堂々と発言したのには、小島よしおでなくともビックリだ。日本という法治国家におけるシビリアンコントロールが効いているのか、これから大丈夫なのか・・・。もと来た道に戻る危険を思うと背筋が凍る発言である。自衛隊のPKO参加実績
国際連合平和維持活動 (PKO)への自衛隊の参加は、主なものとして次のものがある。1992年(平成4年)9月17日~1993年(平成5年)9月26日。国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)
1993年(平成5年)5月11日~1995年(平成7)1月8日。国連モザンビーク活動 (ONUMOZ)
1996年(平成8年)2月1日~。中東、ゴラン高原での国連兵力引き離し監視隊 (UNDOF)
2002年(平成14年)2月~2004年(平成16年)6月27日。国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET、2002年5月20日以降は国連東ティモール支援団 (UNMISET))
2007年(平成19年)3月30日~。ネパール政府と共産党毛沢東主義派の停戦監視を行う国連ネパール支援団 (UNMIN) 防衛省移行後初の海外派遣。
2012年(平成24年)1月~2017年5月。南スーダン(UNMISS)に参加。
その他、難民救済(UNHCR支援)や地震、津波など自然災害に対する救援活動を行っている。
日本の集団的自衛権の容認
日本では2012年末に登場した安倍晋三内閣(第2次)のもとで、安全保障に対する国の姿勢が大きく転換した。それまで憲法上認められないとされていた集団的自衛権が、2014年7月の閣議決定で解釈を変更し、容認できるとされた。この憲法解釈に基づき、政府は多岐にわたる関連法案変更を一括して「平和安全法案」として国会に上程、憲法違反であるとする野党や幅広い市民の反対があったものの、2015年9月に強行採決によって可決された。これによって守株制限は或るものの基本的には自衛隊がアメリカを防衛する為に出動して集団的自衛権を行使することが可能となった。これは、日本国憲法9条の戦争放棄規定と国連の集団安全保障の理念から逸脱する、戦後日本の大きな方向転換であった。 → 日本の集団的自衛権容認南スーダン派遣 2011年に民主党政権で決定されて実施された南スーダンでの平和維持活動への参加は12年から始まり、2017年自民党安倍政権の下で終わった。現地は部族間抗争が激しく、自衛隊が戦闘に巻き込まれる状況が存在した。国会でその点が問題とされた時、政府は「武力衝突」はあったが、それは「戦闘」ではなかったと説明した。それは日本の国際平和協力法では戦闘行為は禁止されているためであった。国会で野党の追及を受けた稲田朋美防衛大臣は自衛隊の日報は破棄されたので詳細は分からないと答弁した。ところが後に自衛隊内部から、実は日報が存在したことが判明し、政府が日報を隠蔽したのではないかという問題に発展した。 → 南スーダンの項を参照。