九・三〇事件
スカルノ大統領の統治するインドネシアで、1965年9月30日、6人の軍幹部が共産党系軍人に殺害されると、軍を掌握したスハルト将軍が反乱を鎮圧、共産党排除・弾圧を行った。共産党に支えられていたスカルノ大統領は徐々に権力を奪われ、1966年3月11日にスハルトによって大統領権限を奪われた。この間、数十万という共産党員及びその協力者が虐殺された。スハルトは翌年大統領となり、1998年まで独裁権力をふるう。
そのため、それまのナサコム体制で共産党に支えられていたスカルノ大統領の権力と権威は急速に失墜、スハルトによって徐々にその力は奪われ、1966年3月11日にはスハルト将軍が強引に権限の移譲を受けるクーデタを実行した(「三・一一政変」)。スカルノは名目的な大統領にとどまったが、翌67年3月12日に暫定国民協議会特別会議が招集され、スカルノの大統領職の解任とスハルトの大統領代行を決定、さらに翌68年の暫定国民協議会でスハルトが第二代大統領に任命された。このように、スハルトはインドネシア共産党を壊滅させ、軍を支持基盤とする独裁権力への権力移行を慎重に段階的に成功させた。
このように世界史上、1960年代の中ごろのインドネシアでは1965年9月10日の「九・三〇事件」(実際に6将軍が殺害されたのは翌10月1日早朝)と、1967年3月11日のスハルト軍事政権を成立させた「三・一一政変」の二段階のクーデタ事件が発生した。この間、インドネシア全土で軍やイスーム教徒、反共主義者らによって共産党員及びその協力者の多数が殺害され、共産党は壊滅した。これらをあわせて九・三〇事件として説明することが多いが、発端となったクーデタ未遂事件から、結果としての政権交代を経ていることに注意しよう。以下、<倉沢愛子『インドネシア大虐殺』2020 中公新書>などを参考にまとめた。
事件の経緯
最初の事件は9月30日夜半から翌日の未明にかけて、大統領親衛隊長ウントゥン大佐(共産党系と言われる)が決起し、反スカルノ大統領派の陸軍中枢である国防相や参謀長を襲撃し、6将軍を殺害した。ウントゥン大佐らは陸軍中枢がアメリカのCIAに指導されて将軍評議会を作り、スカルノ大統領を倒そうとしているので先手を打ったのだという声明を発表した。しかし、軍内の主導権を握った陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将は、10月1日夕刻までに麾下の部隊を動かして革命評議会の率いる部隊を粉砕、治安を掌握した。首謀者とされたウントゥンは殺害され、ラティフ中佐は逮捕された。9・30事件の真相
最初に6人の陸軍の将軍を殺害したのはウントゥン大佐ら大統領親衛隊員であることはあきらかであるが、彼らの単独犯行か、その背後に組織があるのかについては最初から不鮮明だった。最も大きな謎は、彼らが主張するスカルノ暗殺計画ははたしてあったのか、スカルノ自身がこの決起を知らなかったのか、知らなかったとするなら、なぜ決起したのか。また決起そのものの計画がずさんで、簡単に鎮圧されたのはなぜか。中心人物スハルトを狙わなかったのはなぜか。またスハルト自身はこのクーデタ未遂を知っていたのではないか、などの疑問が残る。さらに中国の毛沢東やアメリカのCIAなどの関与も囁かれている。この事件は当時のスカルノ大統領・共産党・陸軍(さらにその中の親スカルノ派と反スカルノ派の対立)という三つどもえの対立から起こったものであるが、現在に至るまでその真相は明らかにされておらず、いくつかの解釈がおこなわれいるだけである。主な解釈には次のようなものがある。
- スカルノ大統領のナサコム体制のなかで、共産党が台頭していることに危機感を持った軍部が挑発した。
- スカルノ大統領の建康不安があり、焦った共産党が対立する陸軍の中枢を一気につぶそうとした。
- 陸軍中枢のスカルノ排除計画は本当であり、大統領派が大統領と共和国を守るため決起したが失敗した。
- 陸軍内の右派スハルト少将が、陸軍中枢を握ること目ざした行動で、右派の独裁政権を樹立するために仕組まれた。
共産党に対する大弾圧
スハルト将軍は、ウントゥンら革命評議会の軍人はインドネシア共産党(PKI)の影響下にあるとして9月10日の翌日から共産党攻撃を開始、またスカルノ大統領に共産党の排除を要求したが、大統領が拒否したためスカルノ自身から権力を奪う工作を開始した。この間、各地で共産党員に対する大規模な逮捕や虐殺が展開され、共産党の指導者アイディットも捕らえられて処刑された。この間、1965年10月~11月にかけて、全国的なインドネシア共産党(PKI)党員に対する大規模な逮捕や虐殺がおこなわれた。虐殺をおこなったのは軍とイスラーム勢力だけではなく、反共主義者の巧みな宣伝や心理作戦に煽動された民間人であった。放送局を抑えた軍は、6人の将軍を殺害した共産党員の残虐行為を誇張して放送し、憎しみを煽った。
左派の決起を鎮圧した右派のスハルトは急速に陸軍内を掌握し、スカルノ大統領に迫って1966年3月11日に「秩序回復のための一切の権限」を与えられ、翌日直ちにインドネシア共産党を非合法化した。インドネシア共産党の党員及びシンパは次々と殺害され、また多くが国外に逃亡するか、インドネシアの各島に潜伏することとなった。
裁判も経ないまま残酷な手口で命を落とした犠牲者は、少なくとも50万人、一説によると200万人以上が命を落としたとされており、1970年代末のカンボジアで起きたポル=ポト政権による虐殺にも匹敵する膨大な数であった。
大虐殺の動機 1965~67年、インドネシアで吹き荒れた50~200万という共産党員に対する虐殺行為は、インドネシア国軍だけではなく、イスラーム教徒や反共産主義者などに動かされた民衆によって行われた。このような残虐行為が広範囲に行われたのはなぜだろうか、その外的要因として、倉沢愛子氏は次のような二点をあげている。<倉沢愛子『インドネシア大虐殺』2020 中公新書 p.110>
- フェークニュース型の宣伝。イスラーム教徒は、アッラーを信じない輩である共産主義者に対する聖戦であり、共産党が農村で進めていた農地改革から共同体を守るための戦いでもあるとして民衆を煽動した。しかしそれが熱病に浮かされたような狂気的な殺戮に至った理由として考えられるのは、共産主義者に対する恐怖心を煽るフェークニュース(6将軍虐殺が共産党のしわざとして残虐性が強調されてテレビで流されたことなど)とマインドコントロール型の宣伝があった。
- 諸外国が黙殺したこと。アメリカや日本はこの虐殺に目をつぶり、それを抑止する発言や行動を取らなかった。そのため事態はとどまることなくエスカレートし、インドネシア大虐殺となった。
(引用)なぜ各国は沈黙を守ったのか。それは、共産主義の浸透に危機感を強く抱く西側諸国にとって、当時四大政党の一つとして大きな勢力を有したPKIの一掃は非常に望ましいことだったからである。本来ならPKIをバックアップするべき立場にあった社会主義国の盟主ソ連や東欧諸国も、イデオロギーの異なるPKIの受難に対して冷ややかな対応をした。唯一、中国政府だけがこの党を守ろうとしたが、まもなく自国で始まった文化大革命の混乱のゆえに、発揮できる影響力は限られ、最後はPKIの準備不足の行動だったとして切り捨てた。こうして孤立無援となったPKIの支持者たちは、歯止めのかからない残虐行為の中で息絶えていった。<倉沢愛子『インドネシア大虐殺』2020 中公新書 p.ii>しかしアメリカなど西側諸国は、厳密には黙殺ではなく、共産党弾圧を進めるスハルト政権を積極的に支援した。アメリカの諜報機関CIAは住民の間の反共産党感情を高めるため、その残虐性についてのフェイクニュースを報道する非公式のラジオ放送を開始した。イギリス外務省もただちに反スカルノの方向へ報道を誘導するよう、担当を派遣した。またアメリカ当局は、北京の関与をほのめかす情報を大々的に流した。<倉沢愛子『同上書』 p.116>
なお、当時スカルノ政権のインドネシアはマレーシアとの対立を理由として1965年1月に国際連合を脱退していたこともあって、大虐殺が国際連合で問題にされることもなかった。そのような国際的環境の中で、インドネシア大虐殺は進行してしまった。
スハルト政権への転換
スハルト将軍は1966年3月11日にスカルノから実質的な権限を奪い(「三・一一政変」)、翌日には共産党を非合法とすることを決定した。さらに翌67年3月12日に国民協議会はスカルノの大統領職の解任とスハルトの大統領代行を決定、最終的には翌68年に第二代大統領に任命された。行方不明のスープルスマル 66年3月11日、スハルトから大統領権限を奪った「三月十一日命令書」はインドネシア語で頭文字をとって「スープルスマル」と言われているが、スカルノが署名した原本は現在に至るまで行方不明になっている。残っているのは複製だけで、国家の重大な政治体制の変更を証拠立てる公文書の原本が紛失したままになっている。
事件の結果と影響
9月30日の事件は軍隊内部の左派と右派の衝突であるが、その措置をめぐってスカルノ大統領とスハルト将軍の熾烈な権力闘争へと展開した。その後のスハルト政権成立までを含めて「九・三〇事件」と説明されることも多いが、その場合には、インドネシア現代史の中で、重要かつ決定的な転換点となった、次のような結果と影響を見ておく必要がある。- 独立後のインドネシアのスカルノ体制からスハルト体制への転換をもたらす大きな事件となった。
- インドネシアのナサコム体制は崩壊し、共産党は非合法とされ壊滅、軍を背景とした独裁政治が出現した。
- 独立実現と社会改革を進めた45年世代にかわり、経済の発展と社会の安定を優先する66年世代が台頭した。
また日本は、それまでスカルノと良好な関係を築いていた(その象徴がデヴィ夫人)ので、このインドネシアの大転換には当初とまどい、苦悩したが、佐藤内閣はすばやくスカルノを見限り、スハルト支持を打ち出し、経済支援を約束した。それがスハルトの開発独裁による経済成長を可能にしていくこととなる。
インドネシア共産党を支援し、スカルノ政権とも友好な関係にあった中華人民共和国の毛沢東は、事件にも大きく関わっていたことが明らかになっている。そのため九・三〇事件を機にインドネシア共産党が壊滅したことは大きな衝撃となったことが考えられ、その焦りが1966年5月16日の、文化大革命の発令の背景にあった。<馬場公彦『世界史のなかの文化大革命』2018 平凡社新書 に詳しい>。
Episode 今も癒えない九・三〇事件の傷
事件から40年以上が経過するが、インドネシアでは今でも共産党は非合法とされている。また共産党関係者として逮捕され、刑務所に10年以上収容された人たちも、その権利は奪われ、公職に就けない他、経済的にも苦しんでいる。インドネシアの反共意識は根強く、世論調査でも未だに72%の国民が元政治犯の政府の要職につくことに反対している。最近ようやく事件の真相と権利回復を求める声が起こり、05年2月には国家人権委員会が権利回復と補償を勧告した。しかし、7月には中学・高校向け歴史教科書が九・三〇事件について「共産党が首謀した」という記述を削除したところ、政治家らの反発をうけ、直前に使用中止となった。<朝日新聞 2005年12月21日の記事による>参考 デヴィ夫人の見た九・三〇事件
この1965年9月30日事件から、スカルノの没落までを、その傍でつぶさに見、関わっていたのが、いうまでもなく日本人デヴィ夫人だった。デヴィ夫人は事件のカギを握る人物とも言われている。それではデヴィ夫人の、1978年の『デヴィ・スカルノ自伝』と2010年の『デヴィ・スカルノ回想記』という二つの自叙伝によって、彼女の語るところを聞いてみよう。デヴィ夫人は9月30日の夜、イラン大使夫妻とホテル・インドネシア15階のクラブで食事をし、そこに公務を終えたスカルノが迎えに来たので、一緒にヤソオ宮殿(スカルノがデヴィのために建てた宮殿)に帰った。その夜は何一つ変わったことはなく、翌10月1日の朝6時、スカルノはいつものようにムルデカ宮殿(大統領公邸)に向かった。スカルノは家を出た直後に事件を知ったらしいが、なぜかムルデカ宮殿には向かわず、もう一人の愛人ハルヤティのところに立ち寄った後、左派軍人が押さえるハリム空軍基地に行ったことを後に知った。ヤソオ宮殿にはどこの所属か判らない兵士が来て、夫人を監視し始めたが、夜、何とか隙を見てハリム基地に行ってスハルトに会い、一刻も早く国民の前に姿を現した方がいいと説得するが、スカルノは動かない。10月3日にはハリム空軍基地近くの古井戸から6将軍の遺体が発見され、その遺体は凌辱を受けていたとのニュースが流れて衝撃を与えた。夫人は秘書をジャカルタ市内に行かせて情報を収集、6将軍を殺したのは共産党系の軍人だったことから、市民の中に共産党に対する反発が強まっていることを知り、10月11日に再びハリム空軍基地に向かい、スカルノにそこを離れるよう説得した。スカルノは共産党のクーデタとは見ていない、軍を掌握したスハルト将軍が共産党追放を主張したが、反対していると告げる。<デヴィ・スカルノ『デヴィ・スカルノ自伝』1978 文芸春秋 p.138->
デヴィ夫人は、スカルノ大統領と軍の新たな実力者スハルトとを取りなそうと奔走する。スハルト夫妻をパーティーに招いたり、ゴルフをしたりしながら、スカルノの失墜を避けようとする。しかしスハルトからは、スカルノに海外に行くか、辞任するよう説得してくれと言われる。「そのとき夫(スカルノ)と私は負けたのだということを悟った。」<デヴィ・スカルノ『デヴィ・スカルノ回想記』2010 草思社 p.161>
(引用)やがて全国各地でイスラム団体を中心に反共産党闘争が始まった。1965年の10月から数ヶ月にわたって虐殺の嵐が吹き荒れ、草の根レベルで多くの共産党員やその関係者が同じ村人たちによって殺された。それ以後三年以上もこの大量虐殺は各地で広がり、「赤狩り」という名目の下でスカルノ派とみなされた善良な市民や多くの村人たちが殺害されていた。この「赤狩り」の犠牲者の数は、80万人という説から125万人という説まである。背後で国軍がそれを誘導し、武器を供給していたのは周知の事実であった。<デヴィ・スカルノ『回想記』p.149>スハルト将軍はスカルノ大統領から治安維持に関する命令権を奪い、共産党弾圧を続けながら着々と体制を固めていく。名目だけとなったとはいえ大統領であるスカルノの夫人デヴィは、その間、第一子の女子を授かり、1967年3月、東京で出産する。1968年3月、ついにスカルノは国民評議会から不信任の決議を受け退任し、その後ボゴールで幽閉同然の生活を送り、デヴィは女子を連れてパリで亡命生活を送ることになる。
その自伝でデヴィ夫人は、自分の知り得た情報では、まずウントゥン中佐らに殺害された将軍たちが「将軍評議会」をつくり、ひそかに10月5日を期して共産党を倒し、スカルノの左寄りの姿勢を改めさせるクーデタを計画していたのは事実だとして、次のように言っている。
(引用)ウントン中佐は六将軍を殺した。だが、陸軍がすでに用意していたクーデター用の巨大なマシンとスハルト将軍は残った。将軍は、ここぞとばかりに軍隊を使って、予定どおり共産党の壊滅にのりだした。そのさいの、目を見張るようなすばやさについてはすでに書いた。ウントン中佐らは、スハルト将軍の釣り込み腰にはまったのではないだろうか。「残虐行為の背後には共産党がいる」という宣伝ぶりも、陸軍が事前に用意していたとしか思えないほどのあざやかさだった。PKIは弁明したかっただろうが、そんなひまもないほどの早さで事態が動いた。アイジット議長をはじめ幹部は、釈明のひまもなく逃げねばならず、やがて捕らえられるとその場で処刑された。真相は、こうして封じられた。<デヴィ・スカルノ『自伝』p.230->デヴィ夫人はさらに鋭い、次のような指摘をしている。
(引用)問題は最初に戻って、だれが将軍評議会(ウントゥン中佐らが反共クーデターを計画しているとされ、殺害された将軍たち)の糸を引き、だれが将軍たちに行動のための資金を与えたのかである。ここまで来ると、私はCIAの黒い影を感じずにはいられない。さらにデヴィ夫人の分析は、スカルノ大統領の周辺の夫人たちの暗闘があったことを指摘している。それによると、第一夫人ファトマワティはスカルノとは別居中だが、彼女は軍との関係が強く、それに対して第二夫人ハルティニは共産党や左派の閣僚と手を結んでおり、確執があったという。デヴィ夫人は正式に結婚して第三夫人となっていたが、スカルノにはハルヤティなどその他にも愛人がいた。スカルノのデヴィ夫人に対する想いは揺るがなかったようだが、大統領周辺の政争も絡んで、その立場も安泰ではなかった。このあたりは二つの自伝に詳しい。週刊誌情報ではない、立派な歴史の資料となっている。
9・30事件と同じ1965年に、アルジェリアのベン=ベラ大統領は、第二回アジア・アフリカ会議の直前に足もとをさらわれた。遠くはガーナのエンクルマ大統領が、70年にはカンボジアのシハヌーク元首が、外遊中のわずかなすきを狙われた。そして73年秋には、ジャカルタとそっくりの事件がサンチャゴで起こり、チリのアジェンデ大統領は硝煙中に倒れた。(中略)
大統領の死後わずか5年にして米上院の情報活動特別委員会は、CIAがスカルノ大統領やキューバのカストロ首相らを倒そうとした「いくらかの証拠」があったと発表している。ジャカルタで起こったことは、サンチャゴの悲劇をはじめ、世界各地の英雄の終焉とあまりにもよく似た特徴をそなえていた。<デヴィ・スカルノ『自伝』p.231-232>